禁煙したい男。
しめじ三郎幻想奇談で書こうかと思ったのですが、別の志向で書いてみました。
「どうせ、三日坊主でしょ? できない事はしない方が楽だよ」
会社にたった一つしかない喫煙スペース(見世物小屋と言われているアクリル板に囲われた部屋)で、同僚の西村恭子が言い放った。男好きのする顔をしていて、スタイルもいいが、何しろヤニ臭い女で、とても口説こうとは思わない。
「うるせえよ。お前みたいなニコチン中毒になりたくないから、俺は禁煙する事にしたんだよ」
俺は意図的に顔に紫煙を吹きかけてくる性悪女に言い返した。すると恭子は腹を抱えて笑いながら、火を点けたばかりのタバコを灰皿にねじ伏せて、
「あんたに言われたくないよ、チェーンスモーカーの高延譲治。一日三箱吸い尽くしているあんたが禁煙だなんて、笑わずにいられないよ」
煙を身にまとったままで出て行こうとした。
「よおし、じゃあ賭けをしようぜ。もし、俺がこの先一ヶ月、只の一本もタバコを吸わなかったら、神楽坂の高級料亭で一番高い料理を奢れ!」
俺は恭子の背中に挑発めいた言葉を浴びせたが、恭子は振り返って鼻で笑うと、
「ああ、いいよ。ついでに芸者もあげて、どんちゃん騒ぎも付けてあげるよ。その代わり、あんたが一本でもタバコを吸ったら……」
そこで意味ありげに言葉を切り、
「これから先のあたしのタバコ代、ずっと払ってもらうからね」
「おう、これで賭けは成立だな! 吠え面掻くなよ!」
俺はドヤ顔で返した。
「まあ、あたしの勝ちは確定してるけどね」
恭子はニヤリとして廊下を歩いて行った。
(あのニコチン女、絶対に勝ってやるぞ!)
俺は禁煙よりも恭子をやり込める事に闘志が湧いていた。
それから二十四時間が経った。すでに俺は限界寸前だった。たかがタバコを丸一日口にしないだけで地獄の苦しみを味わう事になるとは、夢にも思わなかった。しかし、朦朧としている俺をニヤついた顔で恭子が見ているのに気づき、また闘志が湧いてきた。あの女の鼻を明かすためにも、この程度の苦難に踠いている場合ではない。
「何、譲治? もう堪えられなくなった? まだ一日しか経ってないよ? ギブ?」
嬉しそうにからかう恭子を睨みつけて、
「誰がギブだよ。全然何ともねえよ。そうやって追い詰めようとしても無駄だぜ、恭子」
恭子は肩をすくめて、
「あっそ。では、あたしは至福の時間を堪能して参りますわ」
右手に持ったタバコとライターをこれ見よがしにして、フロアを出て行った。
(あのアマ!)
俺はタバコを吸っていないストレスと恭子への憤りにより、身体が震えてしまった。そして、今までは一日一杯程度しか飲まなかった缶コーヒーをすでに三缶開け、四缶目に手をつけた。今日に限って、今まで放置していた書類の作成を課長に厳命され、外回りにも行けないのが尚更つらかった。
「おい、高延、一服してきたらどうだ? そんなに気持ちが落ち着かない状態では、報告書も作れんだろう?」
課長にそう言われ、俺はハッと我に返った。完全に手が止まっていたのだ。
「すみません、大丈夫です。すぐに終わらせます!」
ノートパソコンの角度を直して、俺は画面に集中し、タイピングを開始した。
「……」
しかし、完全なる空回りだった。タイプミスが多過ぎて、全く捗らないのだ。原因ははっきりわかっている。ニコチン切れだ。俺は自分の弱さを自覚し、歯軋りした。
「ああ、美味しかった」
満面の笑みを湛えて、ニコチン女が戻ってきた。
「あら、譲治、まだ報告書終わってないの? 大丈夫う?」
意図的に俺に顔を近づけて、至高の香りを放ってくるのが憎たらしい。俺のイライラは頂点に達しようとしていた。
「高延、やせ我慢もいい加減にしろ。業務に支障が出ているのだから、今すぐにタバコを吸ってこい。周囲の皆にも迷惑だとわからんのか?」
課長の声は怒気を含んでいるのは俺にもわかった。ジレンマだ。業務に支障が出ているのはまずい。だが、タバコを吸ってしまったら、あのクソ女にずっとタバコ代を奢り続けなければならないのだ。それだけは死んでも嫌だ。
「譲治、ちょっと」
そのクソ女が俺の襟首を掴むと、強引に廊下へと連れ出した。
「痛えな! 放せよ!」
俺は恭子の手を振り払って睨みつけた。そして息を呑んだ。
「無理しないでよ。あたしが悪かったよ。だから、タバコを吸って」
恭子は目を潤ませていた。えええ? こいつにも涙があったのかと思ったが、
「お願い」
驚いた事に抱きついてきた。ふくよかな彼女の胸が俺の身体に押し当てられた。スタイルがいいのはわかっていたが、ここまで柔らかくて大きいとは思わなかった、って、何考えてるんだ、俺は?
「恭子、お前……」
俺は恭子をゆっくりと押し戻した。彼女は泣いていた。更に驚いた。
「好きな男が苦しんでいるの、もう見ていられないの。だから、ね?」
小首を傾げて上目遣いに見つめられると、もうどうしようもなく可愛く見えた。元々顔の作りはいいから、尚更だ。
「わかったよ。もうやめだ。無理はよくないな」
俺は微笑んで彼女を見つめた。恭子は涙を拭って、
「じゃあ、喫煙ルームへ行こう。二人きりで至福の時を過ごさない?」
俺は黙って頷き、恭子の肩を抱いて「見世物小屋」へと向かった。
ああ。何て美味いんだ。これ程タバコが美味しく感じられる事は今までなかった。無造作に吸っていたんだな。これからはもっと味わって吸おう。
「よっしゃー!」
いきなり恭子がガッツポーズをした。
「どうした?」
俺はニヤニヤしている恭子に尋ねた。すると恭子は、
「これであたしのタバコ代、一生払ってもらえるう!」
スキップしながら、廊下を戻っていく。
「何だと!? てめえ、詐欺みてえな真似しやがってえ!」
俺は怒り心頭で追いかけたが、
「あたしの色気に迷ったあんたが悪い。残念でしたあ」
恭子は舌を出して俺を罵倒し、高笑いをして去って行った。
結局、俺は大バカだと気づかされただけだった。