(番外編)エドさん
短いです。すみません。
ベルがエドと初めて会ったのは8年前。ベルが5歳、エドが20歳の時だった。
あの時ベルは疲れていた。
まるで恐ろしい幻に追われるように長い旅をして、たどり着いた森。そこには恐ろしい幻の正体を教えてくれた優しいお婆さん(師匠)がいて、ベルを預かってくれるという。
でもその代わり、両親とはお別れになる。
ベルは泣かなかった。両親は帰らなければならない。
ベルの家はパン屋だった。ベルのお祖父ちゃんのお祖父ちゃんの代から続く小さな店と、初代が自分で造った自慢のパン焼き竃。美味しくて良心的な価格。人気のパン屋だったのだ。“気味の悪い子” のせいで客足が落ちるまで。
常連客の中にはそれでも「ここのパン以外食べられない」と買いに来てくれた人はいたし、心無い嫌がらせからかばってくれる人もいた。
だからお父さんとお母さんは戻らなくちゃいけない。あの小さな店を守るために。心優しい常連さんたちに美味しいパンを食べてもらうために。
そしてベルが帰る場所を守るために。
だからベルは泣かなかった。そんなベルの頭を大きな手が撫でてくれた。
ベルはびっくりしたのだ。見上げるように大きくて、がっちりした体で、無表情で、無口で、ごつごつした大きな手で。でもその手がとても優しくベルを撫でてくれたから。
伯爵領の温泉町から果ての村と果ての森に来るためには険しい山と山にはさまれた谷の一本道を通らなければならない。そうしてたどり着いたところは山に囲まれた小さな村が1つと小さな森の中の家だけ。行商人もめったにやって来ない陸の孤島だ。
ベルと両親をここに連れてきてくれたのも、ベルだけここにおいて両親を連れて行くのも果ての村が出してくれた馬車だ。そして御者をしてくれたのが当時20歳のエドだった。
恐ろしい幻が重なって見える人と見えない人がいることに、この頃ベルはもう気づいていた。だから初対面ですぐにわかった。この人は恐いものがめったに見えない方の人。
見えない方の人の中にもベルを嫌う人はいたけれど、この人は大丈夫。ベルを睨み付けたり怒鳴ったりしない人。
エドの近くにいると、ベルは不思議な安心感に包まれた。なんだか温かい人だと思った。
師匠が亡くなってベルが師匠のあとを継いだ時、エドが御者の変更を提案した。
ベルはそれを聞いて泣きながらエドの腰にしがみついた。
エドが困ったような顔で、珍しくおずおずと泣いているベルの頭を撫でながら「俺で良いのか?」と聞いたので、
真っ赤な目でエドを見上げたベルも珍しく大きな声ではっきり言ったのだ。「エドさんが良い」と。この人にそばにいてほしいと思ったから。
最近、ベルは御者席のエドの隣に座らせてもらうことが多い。少しずつ暖かくなってきた風に吹かれながら、これは今だけの特権だと自分に言い聞かせていた。
自分はまだ13歳の泣き虫で面倒くさいただの子供。エドがベルを構ってくれるのはベルが村の子供の1人だからにすぎない。勘違いしちゃいけない。
いずれエドの隣にはエドにふさわしい素敵な女性が座るのだろう。そしてそれはもうそんなに先のことではないのだろうとベルは思っていた。
でも、今だけエドさんの隣を許してください。ベルはまだ見ぬ女性に心の中でそっと謝った。
ケネス老師とのお茶会以降、ベルを森の家に送って行ったあと、エドは森の家でお茶を飲んでから帰ることが多くなった。
ベルは毎回はりきっていろいろなお菓子を作る。その日の気候や体調に合わせてお茶のハーブも変えてみる。そんなことがベルにはとても楽しかった。
ある日エドが手作りのペンダントをベルにプレゼントした。
馬車の送り迎えが無い時、エドは猟師をしている兄が山で捕ってきた獣や魔物を解体し、素材を加工する仕事をしている。このペンダントは小さな魔物の中にあった魔石をエドが加工した物だった。
いつもご馳走になってばかりで悪いからと渡されて、ベルは驚いた。こんな素敵なペンダントを子供の自分が受け取っても良いのだろうか?
エドを見上げて、「ありがとう。エドさん」と礼を言う自分の顔が輝く笑顔であったことにベルは気づいていなかった。
エドが手で口許を隠しながらすっと目をそらす。
【エド】
(状態)体温微上昇、動悸
「エドさん。どこか具合が悪いの?」
「いや、少し気温が上がってきてるんじゃないかな」
季節は春。今、果ての森は美しい季節を迎えようとしていた。
次回は明日の朝です。