(4)ケネス老師
女性特有の体の仕組みについての記述があります。
不快に思われる方は読まないようにしてください。
ケネス・ウォード
元宮廷魔導師長。今は引退し、王家からの求めで宮廷魔導師相談役という役職に就いている。平民出身であるが、伯爵相当の権限を与えられている人物である。
仕事が忙しくて王都から離れられなかったケネス老師は、引退して自由な時間がとれるようになり、この近くの温泉を楽しむため伯爵家に客として逗留していた。
「私の管轄外のことだとはわかっているのだが、部屋の外まで声が聞こえてしまいましてな。歳をとっている分何かしらお役にたつこともあるかもしれぬと思い、しゃしゃり出てしまいました」
ベルが治療の邪魔をしたことで緊迫していた人々の気持ちが少し緩んで、皆それぞれ冷静さを取り戻した。
エドは他の人間からの視線を遮るようにベルの前にしゃがんで顔をのぞきこんだ。
「理由を話せるか?」
ベルは必死に顔を何度も縦に振った。
体が震える。嗚咽が漏れそうになる。泣いちゃダメ。
「……あ、あかちゃん」やっと出せた声は情けないほどか細かったけれどエドにはちゃんと聞こえた。
「赤ちゃん?」
ベルは再び首を縦に振った。涙が飛び散る。
「魔力、暴走」今度はさっきよりましな声が出せた。
「バカな! 胎児だと? そんな魔力は魔法でも魔道具でも感知していないぞ」
親子でも魔力の質は異なるため、治療師や薬師が診察すれば妊娠の有無はすぐに判明する。1人の人間から2人の魔力が感知されるからだ。
ヴァルドは侍女の方に振り返った。
侍女は考える素振りも見せずに即答した。
「奥様には先月たしかに月のものがございました」
「今月は?」
「そろそろのはずですが、少し遅れております」
ケネス老師は少し考えこんでから伯爵に質問した。
「たしかアイリス殿は伯爵の従妹でしたな? 魔力属性も同じだったのでは?」
老師は夫人のベッドの側までゆっくり近づくとベルの頭を優しく撫でた。
「伯爵。ヴァルド殿。ここはこの年寄りに任せていただけませんかな? こう見えて、魔力感知はけっこう得意でしてな」
ケネス老師の世界一の魔力感知技術によって夫人の胎内にもう1人の魔力が見つかった。胎児はたしかにいる。
なぜヴァルドの診察で妊娠がわからなかったのか。
ケネス老師が言っていたように、伯爵夫妻は従兄妹どうしで非常に血族的に近かった。そのうえ2人の魔力属性はまったく同じ。そのためこの2人の間にできた子供は普通の検査では区別がつかないほど母親とそっくりの魔力を持っていたのだ。きわめて珍しいケースであった。
ヴァルドは妊娠の可能性が出たとき、すぐに夫人の体に残る治癒魔法の魔力を回収していた。妊娠初期の胎児にとって母親以外の魔力は魔力暴走の引き金になりかねないからだ。
“魔力暴走”
魔力制御ができない人間の体内魔力が異常に活性化すると出口を求めて暴走し、魔力の持ち主である人間の体を壊して外に飛び出すことがある。これが胎児に起きたら母も子も助からない。
しかしヴァルドの魔力が出ていっても胎児の魔力は不安定なままだった。このままでは胎児が危険だ。
じつは、大きな魔力持ちの胎児の魔力が不安定になることは少なくない。その場合の対処法として魔力誘導の魔道具を使う。
魔力の大きな幼い子供に持たせるのと同じ物だが、自力で魔力制御ができるようになるまで、体内に自然に溜まる魔力を自動的に体外に排出してくれる物である。
胎児の場合、母親がこの魔道具を身につけ、胎児の魔力を魔道具に導く。1度胎児から魔道具までの魔力の通り道ができれば、あとは魔道具が自動的に魔力を制御してくれる。
しかし今回の場合、母親であるアイリスは意識を失っている。おそらく胎児の魔力が安定しない限り目覚めないだろう。
魔力が自然に安定するのを待っていたら、胎児の体力がもたない。猶予はもうそんなに無い。
つまり、誰かが母親に代わって魔力を導いてやらなければならないのだ。魔力暴走の危険を犯してでも。
魔力の質が近い父親の魔力が1番安全だが、伯爵は魔法戦闘職で繊細な魔力誘導の経験は無い。ケネス老師は魔力誘導に必要な属性を持っていない。そしてヴァルドは……
ヴァルドは険しい顔でベルを睨み付けた。
「お前は診察もせずにいったいどうやって妊娠していると……いや、今はそんなことよりも」
唸るような言葉の続きを苦い顔で飲み込み、思い直したように別の言葉を続けた。
「先ほど魔力暴走と言ったな? あれは俺の治癒魔法で胎児が魔力暴走を起こしかけたということか?」
ベルはヴァルドの顔を直視することはできなかったが、しっかりと頷いた。
「はい、そうです」
ヴァルドは思わず目を閉じ唸った。魔力暴走を起こしかけた魔力は魔力誘導に使えない。ということは、
(私しか……いない)
ケネス老師は真っ青な顔で震えるベルを痛ましげに見やった。老師だけではない。部屋にいる全員の視線がこの少女に集まっていた。
薬師になる。小さなベルがそう決意した時、師匠はベルの決意に応えて自分の全てをベルに教えると誓ってくれた。
師匠による薬師の修行は優しくも厳しかったが、ベルは師匠が驚くほど貪欲に知識や技術を吸収し、13歳という若さで、すでに正式な薬師の免状を許されていた。
また、森の家の地下には大きな書庫があり、研究熱心な師匠が集めた古今東西の医療や魔法、薬などの書物が大量に保管されている。ベルはそれらの書物を読み込み今もつねに勉強している。その知識は他の薬師に勝りこそすれ、決して劣るものではなかった。
だからベルは胎児の魔力誘導のやり方は知っていた。師匠の手伝いで出産に立ち会ったこともある。
だが、果ての森には魔力誘導が必要な大きな魔力持ちの子供が生まれて来ることはない。つまり知識はあるが実践したことが無い。今回がベルにとってのまったくのぶっつけ本番なのであった。
やらなければいけないことも、やるべきこともわかっている。ただ、体の震えが止まらない。情けない。でも……
震える足を踏み出そうとしたとき、ベルの体を温かいものが包んだ。
エドには詳しい事情は理解できなかった。ただ、この泣き虫の少女が否応も無く正念場に立たされていることだけはわかった。ならば、今自分がこの子にしてやれることは?
エドは震える少女の体をしっかりと抱き締めた。そして、小さな子供にするように背中をとんとんと優しくゆっくりたたいてやる。
(エドさん、お父さんみたい)
父親、母親、そしてお師匠様。ベルを愛し、優しく抱きしめてくれた人はベルのそばにいつもちゃんといた。そしてここにも……。ベルの体の震えが少しずつおさまっていく。
ベルは光と闇、魔力誘導に使える属性を2つとも持っている。大丈夫。きっと出来る。だって、見えるんだもの、あの子が助けを求めているのが。
ベルは顔を上げた。目の前に心配そうな顔のエドがいた。「ありがとう。大丈夫」小さな声でささやいてベルは立ち上がった。
エドは泣き虫の子供だとばかり思っていた少女が初めてみせた大人びた微笑みに目を見張った。
「魔力誘導の魔道具は有りますか?」
伯爵が子供の頃に使っていた魔力誘導の指輪はアイリスの右手の小指にぴったりはまった。あとはここに赤ちゃんの魔力を導くだけ。
ベルは指輪がはまった右手を自分の両手で包み、自分の光と闇の魔力を少しずつ母体の中に伸ばしていった。指輪を通して細い細い魔力の糸を。