(3)領主様からの依頼
ある日、村に行く日ではないのにエドが迎えに来た。
急患かと思ったら領主様からの依頼?
ここは伯爵領の外れ。領主様の依頼ということは、伯爵様かそのお身内の治療だろうか? なんで私が? 行きたくない。怖い。
無言でエドを見上げるベルの目が雄弁にベルの心の声を語っている。
エドは悩んだ。村長にこの依頼を断ってもらうか?
結局ベルは諦めて素直に馬車に乗った。村長さんを犠牲にするわけにはいかない。
患者は伯爵夫人。微熱が続き食欲が無く、夜もよく眠れない。伯爵家専属の薬師は国からの依頼の仕事で出かけていて、あと1か月は戻って来られない。そのためベルが急きょ呼ばれたわけだ。
念のため、いつもの大きな鞄にいつもよりたくさんの物を詰める。この鞄は師匠から譲られた魔法の鞄で、見た目よりはるかにたくさんの物が入るのだ。
伯爵様のお城まで馬車で4日。
薬師である以上よそから呼ばれて行くこともあるだろうと、こんなときのために畑や温室の世話をお願いする人も一応決まっている。
5歳でここに来て以来果ての村と森から出たことが無かったベルの、これが初めての遠出であった。
途中の村や宿場町で1泊ずつしてきたが宿屋の人間にも、泊まり客にも、エドとベルは親子だと思われていた。
せいぜい10歳くらいにしか見えない小さなベルが大男のエドの後ろにしがみつき、たまにそこから顔をのぞかせる様子は、いかにも微笑ましい仲良し親子に見えた。そのことをベルだけが知らなかったが。
伯爵領の領都は城壁に囲まれた城郭都市だった。
城門で伯爵からの依頼の手紙を見せると、馬に騎乗した騎士に先導され、馬車のまま城に向かうことになった。事態は思っていたよりも切迫しているらしい。
城の中に入ったベルは慣れない空間に気圧されまくっていた。
廊下にまで敷かれている絨毯(これ、踏んでも良いの? エドさん)
歴史を感じさせる絵画(描かれているのは恐い顔のおじいちゃんばかり)
芸術的価値が高そうな陶器の置物(落として割れちゃったら……)
案内されたのは応接間。立派なソファーに座って良いものかどうか悩んでいると、すぐに2人の男性が入って来た。
執事服の老人と20代半ばの男性。この若い男性が伯爵らしい。伯爵は憔悴していた。
夫人が倒れた。朝食前に自室のソファーで意識を失いそのまま目覚めない。
ベルたちはすぐに夫人の寝室に案内された。
こんなに簡単に通されて無用心に思えるが、どうやら長い廊下を通る間にいろいろな魔道具で、身元や武器の所持などをきちんとチェックされていたらしい。
身元? 7歳の時、村長さんの家で触ったあの魔道具かな?
伯爵夫人はまだ20歳前と思われる美しい人だった。意識は無いようだが、息づかいが荒く、顔が赤い。
【アイリス・リンド】
(状態)衰弱、発熱、軽度魔力異常
原因がわからない。熱がある時に軽度の魔力異常が起きるのはよくあることだ。何かおかしい。
ベルが診察のために夫人のそばに行こうとすると、いきなり部屋のドアが開いて、よく響く声とともに男が飛び込んで来た。
「お待たせいたした! 私が来たからにはもう心配御無用! どこかの引きこもりの薬師などに頼る必要はこれっぽっちもございませんぞ‼」
なんというか派手な男だった。白いローブをまとった大柄な男だ。首には幾つものネックレス。耳にも複数のピアス。真っ赤な髪に金色の瞳。そして何よりも目立つローブの背中いっぱいに刺繍された金と銀のドラゴン。
年の頃は30代半ばだろうか? 一目見たら絶対忘れないだろう。
伯爵領の港町で活動している治療師ヴァルド。腕は良いが少しばかり金に汚いと言われる男であった。
治療師とは魔法中心の方法で怪我や病気の治療をする者のことである。
伯爵はこの港町の少々変わり者の治療師にも依頼を出していた。だが定まった拠点を持たず、いろいろな場所を転々としているという噂の人物なので、連絡が取れないかもしれないと思っていたのだ。
「来てくれたのか。ヴァルド」
伯爵は青ざめていた顔を少し緩めその治療師を労った。この男には以前にも世話になったことがあり、その能力には信頼をおいていた。
「奥様の危機に駆けつけぬわけがございますまい。私に任せていただきましょう!」
伯爵に自信満々で請け負ったヴァルドは、次にこちらを見て馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「なんだこいつは。まるで山男ではないか? 薬師にはとても見えんな」
エドは顔色も変えなかった。
「俺は薬師じゃない。ただの付き添いだ」
部屋の中にいた人たちの目がベルに集まった。全員が目を丸くしている。どうやらベルが薬師であると思っていた人間は伯爵家には1人もいなかったようだ。
ヴァルドはベルを睨み付けた。
「こんな子供が薬師だと? 我々医療に携わる者たちを馬鹿にしているのかっ!」
怯えてエドにしがみつくベルを見たヴァルドは少し気まずげに目をそらした。
「果ての村の薬師は元宮廷薬師だと伺っていたが?」
エドは震えているベルに代わって伯爵の疑問に答えた。
「それは先代のことでしょう。先代は去年亡くなりました」
ヴァルドはもうベルに目をやることも無く、夫人の診察を始めた。
「薬師を志すならば私の技を見て行くが良かろう。少しは勉強になるだろう。まあ、お前に理解出来ればな」
伯爵や夫人の侍女に話を聞き、魔法や魔道具を使って体の状態を調べる。ヴァルドの診察はとても丁寧で的確だった。特に人への質問の仕方など、実際ベルにはとても勉強になった。
「風邪だと思われます。伯爵夫人になられてまだ1年。疲れが溜まっておられたのでしょう。治癒魔法で体内の病魔を浄化し、回復魔法で体力を回復させましょう」
ヴァルドの手が白く輝く。治癒魔法の光だ。
その時、ベルの目の前に新しい幻が現れた。
真っ暗だ。どこ? でもよく見ると何かが動いている? いったい誰の?
小さなか細い声が聞こえるような気がする。
(……やめて)
ヴァルドの手の輝きはどんどん強くなる。ベルは何か嫌な予感に目を凝らした。
(くるしい……たすけて)
あれは……もしかしたら。
ベルは気がついたら夫人とヴァルドの間に飛び込んでいた。小さな体で光を遮るように夫人の体に覆い被さる。
「何をするかああっ!」
怒鳴られて体がすくんだ。恐る恐る見上げると、ヴァルドが恐ろしい形相で自分を睨み下ろしていた。ヴァルドの回りにゆらゆらと怒りの魔力が見える。
「治療の邪魔をするとはっ! 患者を死なせたいのかっ!」
恐い。体が震える。ちゃんと言わなくちゃ。でも声が出ない。どうしよう。どうしよう。
「お取り込み中のようだが、ちょっとよろしいかな?」
その時、ドアの外から誰かが入って来た。
「ケネス殿」
黒いローブをまとった小柄な白髪の老人。落ち着いた穏やかな笑顔。元宮廷魔導師長ケネス老師であった。