物語は必ず、綺麗に終わらせる必要がある
端末を構えて液晶を指先でなぞる。ネットショッピングの購入画面で、一度指を止めた。
購入する商品、値段、配達予定日を確認して、購入を確定する。すぐにサイトからメールが届き、注文が確定したことを知らされる。その確認のメールでも一応、配達予定日を確認した。
予定日は十月十二日。間違いない。指定した通りだった。
これが第一段階だ。そして、今日の予定はこの作業だけなので、他にすることが無くなった。
では、今日は何をしようか。
これといってすることが無い。日付を確認すると、十月八日。時刻は昼の二時頃。あと四日ほどの長い時間、何をするか決まっていない。バイトは十三日まで休みをとってあるし、食べ物は余分なくらい買いだめしてあるから外出する必要は無い。暇を潰せる趣味も無く、友達に会う気分じゃない。
僕はこの四日間、自殺を待ち続けるだけの日々すらも苦痛だと感じた。何もしていなくても苦痛なんてあんまりだ。常に楽しい事をしていないと苦痛を忘れられない人間だから、死にたいのだ。
どうやら気分が落ち込んできている。自分でそれが分かった。でも、分かっていてもどうしようもない。どうしようもなくて、考えた果てに辿り着いたのが自殺だ。
いっそのこと今日死んでしまおうか。そんな考えがふと頭を過った。いや、それでは駄目だ。なんとか自分を律して、あまり意味はない気がするが顔をぺちぺちと叩いてみる。
この自殺は計画的なものだ。自分を綺麗に終わらせるための計画。できるだけ人に迷惑をかけない為に準備してきたのだ。ここで諦めるのはなんというか、もったいない気がする。
ではどうやって時間を潰そうか。スマホをいじるのも、本を読むのも、気にいらない。やることが何もない。でもまだ死んではいけない。
長いため息をついて、僕は布団に転がり込んだ。頭の中で計画を整理して、それで上手くいくかと何度も考えた。あとは必要なものを用意し忘れていないかと考える。
最も重要な首を吊る為の電気コード。ぶら下がり健康器という商品名の懸垂するためのチンニングスタンド。マスク、平らに畳んだ段ボール五枚ほど。これらは死体を処理する面倒をできるだけ減らせるようにするためだ。意味があるかは分からないが、他人に迷惑をかけるのは怖いので、どうしても必要だった。
あとは長ったらしい遺書と家族宛ての短い遺書。そして十二日の宅配便その時に使う一枚の紙。全て揃っている。完璧だ。全て完璧に整ったからこそ、苦痛な程の暇がある。
こんな時はたいてい眠るしかない。眠っている間の死に近い感覚を楽しむのだ。そしてそのまま四日後には死んでしまおう。眠りを精一杯貪って死ぬなんて最高じゃないか。
眠るのが楽しいだなんて感じるには、起きて、生きている必要があるのだけれど。
何度か起きて、また眠って、それを繰り返してやっと起き上がったのが六時過ぎ。きっとこれ以上は眠れないだろうと思って、潔く布団から出て、軽く顔を洗う。
小さい冷蔵庫に溢れるくらいのチョコレートを適当に掴んで、机に転がす。少しの空腹を紛らわせて、散歩にでも出ようと思った。死ぬ前の散歩なんて珍しい経験をすれば、なにか得るものがあるかもしれない。
世界の素晴らしさでも知るか、人間の温かい部分でも思い出すか。そんな馬鹿げたこじつけで外出する理由としては十分だ。心中で自分を嘲笑う。
そんな事は万に一つも起こらないと知っている。無言の世界に何度もそう教えられて来た。歩いたコンクリートに足跡が付くわけもない。月の方角に向かえば何もない海に着くだけで、風の向く方に進めばただ家路を急かされるもの。
なにか期待したところで結局何もないのは分かっているのだ。でも、期待する心というものはいつまでも無くならない。どれだけそれに裏切られても、無くならない。段々と消えて薄くなっていくのは、期待を裏切られた後に感じる喪失感のようなものだけ。傷付くのに慣れていくだけ。きっと僕は見えないくらいに小さい傷を負って、散々歩いた果てに帰って来るのだ。
この散歩も、無意味に終わる。
僕は気持ちを落ち込ませながら、靴ひもを結んだ。家に帰るまでに解けないように、ぎゅっときつく。そのまま暗澹とした気持ちで立ち上がる。
はあ、とため息を吐く。大きく吐いたが、誰に聞こえるわけでもない。ふと自分の落ち込み切った表情筋に意識が向いた。
どうしてこんなに落ち込んでしまうのか。分かっている。自分の事は誰よりも理解しているつもりでいる。
本当は、そんな希望的な物に縋りたいのだろう。とても薄くて淡い期待が確かにある。
自分はまた、期待している。
なのに、自分はまだ期待できるのに、世界は意地悪を続けるばかり。
最初からくれるつもりがないのなら餌を見せつけるな、と。咲かせないのに種を植えるな、と言いたくなるが、誰に言えば良いのだろうか。
空に叫べばいいのだろうか。そうすれば些細な願いの一つくらい叶うだろうか。では、何と言えば良い。
当然、自殺が成功しますように、だ。
さあ、最終日まで寝過ごしてしまおう。
十月十二日。インターホンが鳴ったのは、十一時を回った頃。指定した通りだった。覗き穴から見ると、配達業者の服装の男が小さい段ボールを持って立ち尽くしているのが見えた。
僕はその男に心の中で、ごめんなさいと謝った。
もう一度インターホンが鳴った。そしてもう一度、心中で謝罪する。やがて男は覗き穴の視界から消えていって、トラックのエンジン音を響かせた。
僕はようやく外に出て、ポストに入っている紙を取り出す。配達員が入れて行った不在票だ。他にもいくつかチラシなどが入っていたが、それらは放置したまま、不在票だけ持ち帰った。
そして電気コードを懸垂器に括り付け、小さい輪をつくる。そのまま離れて、輪の高さを確認した。懸垂器は一番高く調整してある。ロフト付きで高い天井になっている為、阻むものは何もない。身長の低い僕が首を吊るには高すぎるくらいだった。ただ、部屋の真ん中にそれが置いてあるというのがおかしかった。見るだけで不気味だ。
あとは未遂で終わらないように、輪を手でつかんでぶら下がる。絶対に解けないように電気コードを五本使って複雑にしてある。三本目から蛇足な気がしたが、端の方でコードを押さえつける役割を果たし、気休めにはなっている。そのせいか見た目に安心感があった。
そしてこの期待は裏切られない。ずっしりと体重をかけても輪の部分はびくとも動かなかった。
よし、と呟いた。気分が少しだけ高揚している気がする。この気分のままであと二時間、死ぬのを我慢する。でも退屈じゃない。今日は他にやることがある。
最後の晩餐だ。
空腹が紛れるくらいでいい。好きな物がいくつも冷蔵庫にはいっているから、少しづつ食べるのだ。あまり食べ過ぎると、首を吊った後の処理が大変になると思ったから、腹八分目よりも少なめに腹の調子を整える。こんな食事くらい幸福感を感じられるだろう。
どういう訳か、死ぬ直前の今日は日常よりも幸福だった。
机に散らばる、食べ物の数々。別の机には分厚く束になった遺書とマスクなどの用意したもの。家族宛ての遺書だけはロフトにある物の隙間に隠しておいた。
正午を過ぎて一時。机の上の食べ物は全て冷蔵庫に詰め込み、机の上には不在票だけになっていた。スマホを取り出し、不在票に書いてある配達員の電話番号にかける。少し間を置いて、気だるげな男の声が聞こえた。僕は再配達を頼んだ。住所を口頭で伝える。ここで重要なのが相手の反応だ。すぐ近くなので…などと言われれば都合が悪いのだ。早く来てもらっては困る。
幸い、そんなことは無かった。配達員の居場所は分からないが、何度か実験をしている。この時間に電話をかければ、彼が荷物を持ってくるのはだいたい四時から六時半の間だ。
「かしこまりました。では…」
僕は電話を切ろうとする彼の言葉を遮った。
「すいません、もし僕が出られなかった場合、ドアを開けて荷物を置いて行ってもらって良いですか?」
「ああ、良いですよ」
男は明るい声で言った。受け取る側の任意があれば判子やサインが無くても良い事は知っている。
「いつもすいません。お願いします」
「いえいえ。では、後ほど伺います。失礼します」
本当にすいません。意味は無いが心中で謝る。
家のドアの鍵をそっと開けて、一枚の紙を玄関先に置く。配達員の方へ、と書いてある紙を財布で押さえて置いておく。
そしてトイレに十分間籠る。用を足して、できるだけ失禁を抑えれるようにだ。意味があるのかは分からない。トイレから出ると、玄関先のドアを閉めて、部屋の中が見えないようにする。配達員がきたときに見えるのは、玄関に置いた紙とトイレのドアだけということになる。そして配達員は目前の紙に気が付いて、その通りに動いてくれるだろう。
さあ、始めよう。
懸垂器の下、つまり数分後の僕の足元に段ボールを敷く。少しくらいなら失禁した後の処理が楽になるだろう。マスクを三重につける。首吊りした際、舌が飛び出てしまうなどと見たことがあるので、その対処だ。無意味かもしれないが。
そして輪っかに首を落として…。
ここか。
トラックから荷物を下ろして、アパートの階段を駆け上がる。住所を確認して、インターホンを押した。しばらく間を開けて、もう一度押す。
出てこないか。
では言われた通りに、ドアを開けて荷物だけ置いて帰ろう。ゆっくりとドアを開けて、はいりまーす、と声を張り上げて入る。
荷物を置こうとした所に、一枚の紙があった。配達員の方へ、とかいてある。財布を文鎮のようにしているのでそっと除けた。紙を広げて、立ち上がったまま読む。
「突然で申し訳ありません。救急車を一台呼んでいただければ嬉しいです。早い話、扉の先に僕の死体があります。なので、ドアは開けずに救急車だけ呼んでいただければと思います。興味があるなら開けても構いませんが、おすすめしません。手間をかけさせてしまうお詫びに、その財布を中身ごと差し上げます。もし、あまり関わりたくないのであれば、家のドアを開け放しにしておいてもらえるだけでも嬉しいです。本当にすみません」
どういうことだ。この扉の先に死体がある?救急車を呼べばいいのか…?万が一、悪戯だったら。これを書いた彼が、動画でも撮っていて、自分にドッキリでもしているのなら。第一、自分は救急車を呼んだ経験すらない。電話をかけるだけでもちょっとした勇気がいる。
たった数分の間で散々悩んだ後、結論が出た。
ドアを開けてしまったのだ。
机の上に置いてある遺書を取った。丁度死体の横にあったその分厚い紙を広げ、部屋の、現場の隅で立ち尽くす。
「警察関係の方へ。これは家族や友人などには見せないでもらえると嬉しいです。まずこの自殺に関係者はいません。僕が一人で勝手に行ったものです。死ぬための原因を作った人なども居ません。ただひとりでに死んだだけです。それだけ分かって下さい。迷惑をかけるつもりはありません。
例えば、この部屋の大家さんには、僕は幽霊にならない、とでも伝えてください。仮に幽霊になったとしても、誰かを呪うほどの恨みを持っていませんから、安心してください、と笑いながら話してください。
ここから先は面倒であれば読まなくても構わないです。ただの頼み事ですから。
一つは、家族用に遺書があるので、それだけ渡してください。ロフトの荷物の隙間にあります。家族との関係はあまり良好とは言えませんが、他人にとって後味の悪い死に方はしたくない、迷惑になりたくないので、内容の良い繕ったものになっています。これがあれば僕の死は家族にとって、素敵な物にでもなるのではないでしょうか。貴重な経験だと解釈したり、ドラマに出たような気分にでもなれば都合が良いです。家族にとって、終わりの良い死に方となるでしょう。
ついでですが、配達してもらった物は好きにしてもらって構わないです。捨ててもいいです。勿論、呪ったりしませんから」
一度、手を止めた。
「なあ、荷物ってなんだったっけか」
近くに居た後輩に聞いた。
「ああ、これですか」
丁度後輩が手にしているものが、それらしい。蝶々の標本だった。
「なんだ、これ」
「アサギマダラ、だそうですよ。蝶が好きだったんでしょうかね」
「さあ、どうだろうな」
もう一度、遺書に目を落とす。
「最後に、僕の死体は家族や友人に見せないで欲しいです。僕はひっそりと死にたいのです。ゆったりとこの世を去りたい。そこに家族がいれば気持ちが悪くて、友達がいれば申し訳ないものです。僕の知り合いにとって、僕が死んだのではなく、どこかに消えてしまったとでも思ってほしい。
蝶のように飛んで、地平線の奥の、さらに奥くらいに消えてしまった。僕はそんなものです」
ここで文字は途切れている。
「これで終わりか?後味悪いな」
後輩に遺書を手渡す。
「蝶々に意味でもあるんじゃないですか?アサギマダラがヒントで、犯人が割り出せるとか…」
ばか、と凛々しい面の後輩を小突いた。
「それの最初に他人は関係ないと書いてあるだろう。これは自殺だ」
「そうですか…」
腑に落ちない風の後輩をもう一度小突いた。彼は呑気にも笑って、遺書を広げていた。
「にしても、綺麗な死に方したもんだな。これなら掃除も楽だろうよ」
煙草を取り出し、火をつける。後輩は少し顔を顰めたが、たいして気にしなかった。
「死体が見つかったのが早かったから、見た目も悪くない」
煙が重力と逆の方に流れていく。
「綺麗に死んだもんだな」
その日、アサギマダラの標本は海に投げ込まれた。