奇貨居くべし
国庁の地を濡らす、ごろりと転がった馬面の首から流れ出る赤い血。
俵藤太は、太刀を弓手に握ったまま、とどめを刺す為に、ゆっくりと歩み寄る。
馬面の身体の方は、非常にゆっくりとだが煙を上げながら崩れてゆく。
しかし、頭部は打ち上げられた魚の様に口を何度も、開けたり閉じたりしていた。
「生き汚い、化け物が」
蜚蠊を見るような冷たい目をしながら、侮蔑の篭った言葉を発する。
藤太は転がる頭部へと、太刀を振り下ろそうとする。
「待った! 待ってくれ、とどめは儂が」
地面に叩きつけられた良兼は、なんとか起き上がりながら声を絞り出す。
勢いよく叩きつけられた所為か、鎧はひび割れ、額からは血が滴っていた。
藤太は馬面と良兼を交互に見やり、眉間に皺を寄せ、面白くなさそうな顔をする。
太刀を降ろし、刃を地に向け、良兼の目の前に突き出す。
「ほれ。……蜈蚣切丸を貸してやる。事情は聞かん」
藤太は良兼にしっかりと蜈蚣切丸を手渡し、倒れたままの兵達に元へと手当てを施しに向かう。
「俵藤太殿。恩に着る」
良兼は軽く頭を下げた後、転がる馬面を見下ろすように立ち、蜈蚣切丸を逆手に持ち、切っ先を向ける。
しっかりと馬面の無事な右目を見据える。
「阿呆な弟よ。今、楽にしてやる。――っ!」
蜈蚣切丸の切っ先は正確に、馬面の耳の下付近を貫く。
――馬面は瞼を閉じ、良兼の瞳から落ちた雫が馬面の瞼を濡らす。
馬面の頭部は身体と同じように崩れ、塵となっていく。
良兼の慟哭が国庁に響く。
その慟哭と口元を濡らす冷たい物に気がつき、目を覚ます将門。
「ぐっ……誰だ? 馬面は?」
目を覚ます将門の目の前には年若い男が顔覗き込んでいた。
将門の上半身を持ち上げる男。――どこか懐かしい雰囲気がした。
「望月千寿郎と申します。一先ず、この丸薬をお飲みになってください。少しは楽になるはずです」
千寿郎は土留色の丸薬を強引に将門の口に捩じ込み、水で嚥下させる。――咳き込む将門。
「馬面は俵藤太殿の助力により、平良兼殿が、とどめを刺しました」
将門は首だけを動かし、良兼の方を向く。夕焼けにより、影となり良兼の顔は見えない。
「そうか。……義父殿には辛い思いをさせてしまったな」
国庁の上に張っていた暗雲は、いつの間にか晴れ渡り、斜陽がさす。
平良正の死により、道無き戦さは一旦の幕引きとなった。
日が落ち始め、雀色となった空の下。
武蔵国足立郡の付近を馬三頭が、坂東から京へと向かって駆ける。
平貞盛は縄で縛られ、その馬に乗せられている。――殴られた頬を腫らし、憔悴しきった顔をしていた。
――俄かに湿った風が吹く。
幾つもの揺らめく火が左右から馬を迫って来る。
「おい! 何かが追ってきている!」
貞盛がいち早く気がつき、兵に声をかける。
「くっ! 速度を上げろ!」
護衛の一人から声があがる。
あの火が何かは分からなかった。――しかし、悪いものである事を直感していた。
馬よりも遥かに早い速度で、行く手を阻むように回りこまれる。――火は女の形を象り始める。
「あれは。……良兼様が仰っていた化生であろう! 矢を放て!」
貞盛を乗せた馬を駆る兵が号を飛ばす。
左右の護衛が馬上を弓を構え、矢を放つと、矢音を立てながら、女の顔へと飛んでゆく。――歪む口元。
化生が口を窄め、軽く息を吹く。――飛来する矢が風に吹かれ、反転し、放った兵二人の頭を射抜く。
二人は脳漿を撒き散らしながら、ぐらりと体勢を崩し、落馬する。
「っつ! 斯くなる上は、太刀あるのみ!」
さらに速度を上げ、太刀を抜き放ち、化生へと肉薄する。
馬上からの一撃を振り下ろす。
「ぬっ!」
必殺であった筈の一撃は、するりと手応えなく空を斬る。
次の瞬間に化生の狙い澄ました蹴りにより、馬の後脚が叩き折られ、宙を飛ぶ兵と貞盛。――嘶きが響く。
意識を失ったのか、ピクリとも動かない貞盛。……兵は地面に落ちた拍子に、首が明後日へと向き、死んでいた。
化生が笑いながら、貞盛へと近寄っていく。
未だに起き上がる事のない、貞盛を縛った縄に指を這わす。
縄がぷつりと切れ、虎皮の威が化生の目に入る。
「これは。……これは懐かしい」
愛おしそうに虎皮を白魚のような、しなやかな指で撫でる。
「奇貨居くべし。か、ふふ」
撫でる指を止め、化生の手から禍々しく光る。
その光景を化生の目線から見ている。覗き見る事しか出来ない桔梗は顔を覆う。
「嗚呼! そのような事を!」
桔梗の声は遠く離れた将門の耳には届かず、闇夜に消えていく。
俵藤太は将門と言葉を交わすことも無く、一瞥してから疾風のように消えた。
国司の大中臣定行とは、国庁の修繕と賠償の取り決めを交わす将門。
そして良兼と別れ、将門は翌日に本拠である豊田へと無事に帰還を果たした。
いの一番に血相を変えて将門の元に駆け寄る桔梗。
「将門様! 貞盛様の命が危ないです! 早く、早く助けないと!」
桔梗の言葉に目を見開き、青ざめる将門。
傷だらけの身体に鞭を打ち、皆の制止を振り切り、単騎で駆け始める。
眉間に皺を寄せ、歯噛みをしながら黒丸を駆けさせる。
「貞盛! 平太!」
将門は貞盛の名を大声で叫びながら姿を探し、西へと向かう。
将門は武蔵国の足立郡に差し掛かった時に、人集りが出来ていることに気がつく。
其処には三頭の馬と三人の兵の死体が転がっていた。――しかし、貞盛の姿は見えず。
「だれか! 他に男は見なかったか!」
その大声に驚く民達。しかし、誰もが首を横に振る。
反応が芳しくない事を悟った将門は黒丸に跨り、また駆けてゆく。
――この後、将門の懸命な捜索をしたが、平貞盛の行方が一向に知れなかった。




