コクチョウ
「よし、着いたぞ、良正。傷はそこまで酷くないはずだ」
平良正は平良兼に肩を担がれて、国庁の前殿まで進んで行く。
矢が刺さった馬手からは、変色した血が滴り、指先を黒く染め上げていた。
「あの小僧が。……毎度毎度、あと一歩手前で邪魔しおって! 必ず殺す。傷が癒えたら、次こそは必ず」
血走った眼の良正は怨嗟の声を上げる。……国庁に勤める者達が、一人もいない事に気がつかないでいた。
良兼は黙ったまま、歩みを止めない。
将門の軍勢による、国庁の包囲は葦葺きの屋根のように隙間だらけであった。
が……良兼と良正の軍勢は突破や、逃げる素振りも見せずに、国庁に立て篭もったままであった。
将門は黒丸から降り、仕立ての良い衣服を纏う恰幅の良い男に頭を下げる。
「大中臣定行殿。此度は我等の策に従っていただき、感謝いたします」
将門は、昨年に下野国へと転任してきた国司。大中臣定行へと感謝の言葉を伝え、また深々と頭を下げる。
「ほほ。将門殿、頭を上げてくだされ。転任したての頃に、色々と手を貸していただいた御礼で御座いますのでな。ほほ」
定行が笑うたびに、恰幅の良い身体が揺れる。
「ほほ。国庁に勤める者達も退避させ、重要な物や、印鎰は既に持ち出しておるしの」
定行は、したり顔で袖の中から、印判と鍵を取り出す。
「ありがとうございます。あとは。……」
将門がそこまで言いかけたのを手で制す、定行。
「確と、すでに記録しておりますぞ。国庁に逃げ込んだ、上総介ただ一人を赦す。と、ほほ」
定行は笑いながら、髭を撫で、身体を揺らす。
その言葉を聞き、安堵する将門。
既に手回しと根回しは済み、道無き戦さの決着をつけるのみとなった。
国庁へと向き、覚悟を決めた表情の将門は、深く、胸いっぱいに息を吸う。
それを見た定行は耳を塞ぐ。
「この平将門! 宿敵となってしまったが、叔父上達とは間違いなく、骨肉の間柄である! 温情なく殺してしまえば、非道と罵られよう! よって此度の道無き戦さの元凶だが。……上総介であり、義父である、平良兼殿は赦す!」
力強く響く声。声だけで、粗末な楯を倒せそうな程の大声であった。
近くにいた定行は、耳を塞いでいたが、あまりの大声に倒れそうになっていた。
少したち、夕風に釣られるように、平良兼麾下の兵達が国庁より出て来る。
その内の一人が将門の前で跪く。
「将門様。……良兼様が、国庁内にて準備を整え、お待ちです」
将門は跪く男の肩に手をかけ、労いながら頷く。
「全軍! 包囲そのまま、誰も通すな! 将頼、暫し頼んだぞ」
将門は国庁に集う総ての兵と、黒丸に見送られながら国庁に向かう。
将門が国庁の南門から入ると、注連縄で縛られ、轡を嵌められた良正が、前殿の前に座らされているのが目に入る。
良正の背後には、既に抜刀した良兼と十人ほどの兵が立っていた。
「将門よ。良正は、何も語らないかもしれないが。……尋問するか?」
将門は良兼の言に頷く。――その表情は沙汰を言い渡す、閻魔の様に険しいものであった。
良兼が顎で指示すると兵の一人が良正の轡を外す。
「良兼! 謀ったな!」
轡が外れた途端に吠える良正。――ため息を吐き、良正を背後から蹴り押す良兼。
良正は、つんのめる。何とか踏ん張っていたが、踏ん張り切れずに顔から石敷道に倒れ込む。
「五月蝿いわ。源護や女の化生に良いように操られた阿呆が」
良兼は冷たく吐き捨てるように言う。
「さて、良正叔父上よ。……化生は今どこにいる?」
将門は、芋虫の様に、地に転がる良正を見下ろしながら問う。
「化生。……いったい何の事だ、皆目見当がつかな――」
縄を自力で解こうと、捩っていた身体が唐突に止まり、口を開いたまま、死んだかの様に硬直する良正。
国庁の空だけに暗雲が立ち込める。
将門は異変に気がつき、素早く太刀に手を伸ばす。
「平将門。……また会いましたね。直接では無いのが惜しいところですが」
明らかに良正本人とは違う、女の声が良正の無精髭が目立つ口から出てくる。
「器用なものだな。……さて、特製の注連縄で縛られている故に、手も足も出ないであろう。化生よ、お前の名は? 目的は!」
将門が声を荒げた瞬間。――良正を縛っていた、注連縄は淡く光る。
くつくつと笑う、良正の口を借りる化生。
「今はまだ、藻と名乗っておきましょう。……目的は至る為。と、手遊び」
――口端が歪む。
押し黙っていた良兼は、とうとう堪え切れず、転がる良正の背を足で踏み付ける。
「手遊び? そんな理由で大勢の人間を狂わし、破滅させたのか!」
激昂し、何度も良正の背を蹴る。
――途端に、百戦錬磨の良兼が怖気立つ程の殺気が迸る。
良正の瞳が金色に輝く。
「妾は平将門と語っておるのじゃ! 下郎が、疾く死ね。――」
稲妻走り雷鳴轟く。――暗雲より、火雷神の一撃が、良正と良兼を目掛けて、降り注ぐ。
閃光と衝撃。そして肉の焼ける臭い。
咄嗟に目を瞑った将門は最悪の事態を想像しながら、目をゆっくりと開ける。
「義父殿。無事でありましたか」
其処には焼ける良正と、兵に後ろ首を掴まれ、尻餅をついた状態の良兼がいた。
「ああ。既の所で引っ張って貰って命拾いしたわ」
脂汗を浮かべながらも体裁を気にしてか、腕を組み、鼻を鳴らす良正。
――焼けゆく、良正の背に亀裂が入る。
さながら。……蛹から羽化する蝶のように、良正の縛られた身体から、人ではない別の雄々しい肉体が姿を現わす。
将門の行動は迅速であった。
それを認識した瞬間に、稲妻の如き速さで太刀を抜き放ち、頸椎へと一気に振り下ろす。
――しかし、将門の渾身の一撃は頸椎を寸断する事、叶わず。
太刀は頸椎にあたった瞬間に、金属音とともに折れた。
「むっ! 義父殿、下がられい!」
将門の言に従い、全員が距離を置く。
古い皮を脱ぐように、良正の身体から這い出るモノ。
それは身の丈が八尺ほど、筋骨隆々の人身であるが。……頭が角の生えた馬であった。
印鑰=国司の印と国庫や城門の鍵。
 




