ミゾは深まる
――常陸国水守営所。
平良正が本拠としていた、住みやすい寝殿造りの居館ではなく。所謂……軍事施設としての無骨な城塞である。
平良正。――源護の娘を妻とした男の一人。……寂かな雲の心を持った、体躯に似つかわしくない、大人しい性格である男。
しかし、妻の実家を焼かれた事に……そして兄を殺された事に激怒し、蛸の様に真っ赤になりながら、戦さの準備を慌ただしく、推し進めていた。
そんな折に源護一行が、水守営所へと到着し、猛っていた平良正と源護の目が合う。
良正は驚いた顔をし、転けそうになりながら源護の近くへと寄る。
「義父よ、ご無事でしたか!」
良正は舅である源護が生きていた事をしり、目を潤ませる。
「良正! 戦さの準備をしているとは感心だ! 流石、儂の娘婿!」
源護は良正の肩に手を置き、破顔するほどに喜んだ。
かたや義父の生還を喜び、かたや頼り甲斐のある婿に喜び、ひしと抱きしめ合い、感動の涙を流す男二人。――その姿を顰めっ面で眺める女一人。
顰めっ面の女は、平貞盛の実母である、名は稲という。――顰めっ面の大きな原因は男二人の涙ではなく、営所内に漂う、甘ったるい異臭であった。
「何か。……おかしい」
喧騒に掻き消される程の小さな声で、ぽつりと呟いた。
異臭だけではなく、慌ただしく動き回る兵達の様相も普段と違う。どこか漠然としてはいるが、違和感を感じる、稲。
そろりと気配を殺しながら、外へと一歩ずつ出て行く。――誰にも、何も言わずに営所の外へと抜け出すと、明確な悪意のある、舌打ちが稲の耳に届く。
稲は貞盛が戻り、見つけてもらうまでの間、寒天の中、不安の日々を山野で隠れて過ごす事になる。
焼け崩れ、未だに火が燻り、煙が充満する屋敷の前で立ち尽くす男が独り。
男の瞳には、信じ難い光景が広がっていたが、それを受け入れられず、まだ健在であった過去の屋敷の光景を幻視していた。
拓けた中庭へと歩き、ゆっくりと膝をつき、地面を撫でる。
「ああ、懐かしいな。……ここで親父殿に刀の握りや、弓の稽古をつけて貰ったな。……」
目を瞑る。その脳裏には京へと向かう前、幼き頃の記憶が蘇る。
幸せだった頃の記憶。――いつまでも浸っていたい程に。
ゆっくりと目を開き、現実を直視する。
焼けた屋敷の柱や板を見ながら、ゆっくりと近づく。
素手で、まだ芯が熱く熾る木々を退かし始める。――手が焼け、額に脂汗が滲む。
「親父殿は、もっと熱かった!」
自分自身を鼓舞するように、吠えながら木々を退かす。
「親父殿! 貞盛が戻ってきました!」
返事が無いことなど百も承知。――ただ、返事が無くとも声を上げ続けねば、心が折れる。
「平太が戻ってきました! 何処におられますか、親父殿!」
独りで自身の手の事など顧みず、ただひたすらに焦げた木々を退かし、父親である平國香を探す。
ふと気がつけば既に日は落ち始め、夕焼けとなっていた。――袖で顔の汗を拭いながらも、探す手は止めない。
「――ぐっ!」
木々の下から、炭となった指が覗き始める。……何かに向かって手を伸ばす様な格好で炭となった、平國香。
「親父殿。親父殿。……そこにおられましたか」
炭となった父親の手を両手で掴む、平貞盛。――滝の様に、涙が止めどなく溢れる。
暫しの時が経ち、簡素であるが平國香の墓に手を合わせる貞盛。
涙は止まり、精悍な顔つきが戻っていた。
「親父殿、母上を探してきます。どうか、この貞盛を見守ってください」
穏やかに微笑み、貞盛は母親を探しに向かう。――山野を駆け、人伝てに聞き回り、実母の稲を探し出し、無事に再開したのはこれより少し後となる。
時は流星の様に流れ、野本や石田の焼討ちから八ヶ月が経った。
その間、将門の元には日夜、民草に、まつろわぬ民までもが集まる。――将門は分け隔て無く、全てを受け入れ、手厚く保護し、新たに開墾した私営田をあたえた。
各地の国司から、問題の解決に手を貸して欲しいと言われれば、手を貸し。困っているものが入れば手を差し伸べる、日々。
将門個人の方も、桔梗と妻二人に子達の仲も良好。――そして、目出度い事に、君乃も懐妊していた。
そんな将門の元に、また一通の文が届く。――渋い顔で文を読む将門。
「とうとう来たか。……」
それは平良正からの、戦さへの挑戦状であった。将門は平良正が戦さ準備をし、常陸国を駆け回っていた事を知っており、いつでも相対できる様に準備を進めていた。
「もしかすれば、此度の戦さを切っ掛けに、血の匂いに釣られて、あの化生が姿を現わすかもしれんな」
将門の胸中に重くのしかかる問題である化生。それが……取木での邂逅以来、姿を一向に現さず。
合間に、方々へと化生の探索隊を派遣していたが、結果は芳しくなく。
また桔梗の記憶が戻る気配も素振りもなく、新たな化生の情報が出てくることもなく頭打ち状態であった。
そんな現在の状況を変えうるかもしれないと、少々の打算を含み考えていた。
「まるで、恋い焦がれる乙女よな」
外を眺めれば、子達と戯れる、桔梗の姿が見える。
その姿を眺めながら溜息をつく将門。――いつ頃からか定かではないが、桔梗の髪は芒の穂の様な白から、白鶺鴒の様な、黒と白のまだら模様の髪へと変わっていた。
それは偽魂の術の影響か、化生が離れた所為か。……何にせよ、桔梗の髪が完全な黒になれば、化生への最大の手掛かりが失われるのではないか……と、将門は純然たる根拠は無いが、そう薄々感じていた。
「将門様。……申し上げたい事が」
小太郎が将門の背後に片膝をつきながら現れる。
「どうした? 化生の痕跡でも見つけたか?」
将門は一瞥もせずに小太郎の言を待つ。
「はっ……平貞盛殿が、将門様に御目通り願いたい。と」
その言葉に振り返る将門。――その顔は喜びと悲哀が入り混じり、最終的には渋い顔となった。
宿り木に寄生された、一本桜の下で佇む、平貞盛。
駒音に気がつき、木を撫でていた手を止め振り向く。
「小次郎」
貞盛は昼夜を問わず、実母を探すために山野を駆けた為か、肌は浅黒く焼け、髭は伸び放題で山賊の様な様相をしていた。
将門は愛馬である、黒丸から降り、貞盛の近くへと駆け寄る。
「……貞盛。……國香伯父上の事は、すまなかった」
将門は、やっとの思いで……その言葉だけを喉元から捻り出す。――言いたい言葉もあった、掛けるべき言葉もあった。しかし、貞盛を前にした時には、全てが感情の濁流に押し流され、沈んでいった。
「小次郎、分かっている。親父殿は事故だった。……いや、もしや鎮守府の軍旗に鉦を使うのは親父殿の策だったのかもしれん、悪いのは親父殿の方で……」
貞盛は、そうであったのであろう。と……悲痛な顔をしながら推測を述べる。――そう、平國香の死は偶発的な……事故であったと自分自身に言い聞かせるように。
将門は真実を洗いざらい、貞盛に聞かせたくなった。……が、唇を噛み締め、ぐっと堪える。
「だから……此度の件は水になが――」
「――貞盛。……喪に服し、明ければ早々に京へと帰れ。京で出世してくれれば、一族にとって最大の助けになる」
どうしても、真実を隠すために、貞盛の言葉を遮りつれない言葉を発してしまう将門。
「よいな、貞盛。今は言えぬが……刻が来れば全てを語る。それまで、京で仕事に邁進するのだぞ!」
居た堪れない気持ちになった将門は、貞盛を冷淡に突き放すように、一方的に喋りきり、踵を返して黒丸の元に駆ける。
阿も吽も言う暇もなく、駆けた将門の背を、ただ見送る事しか出来なかった貞盛。
愁眉は開かず、さらに曇るばかりであった。
「小次郎。……真実をとは言わん、ただ聞いて欲しかった」
握り拳を桜に打ち付ける。




