ノモトにて
平将門にとって、父が倒れてからの激動の日々であった、二年ほどが終わった後。
将門は危惧していた、嵯峨源氏の一族と平國香からの嫌がらせや、戦を仕掛けられることも無く。――心健やかに……土地を開墾し、子が、さらに生まれ、訓練にと日々を費やした。
とても、心地よく……良い日々は過ぎてゆく。――光陰矢の如し。
陽は中天に燦々としていた。
常陸国、平國香の本拠である石田。
その石田に構えられた、大きな屋敷。――灯りが揺れている一室にて。
平國香と、その舅である源護。そして源護の息子である源扶が勢揃いとなっていた。
「國香よ。……体の調子はどうだ?」
老齢である源護が。……ここのところ体調を崩し伏せることが多くなった、婿である平國香を気遣うように聞く。
「はは。……体の方は、どうということは御座いませぬ。して、本題で御座いますが。……新治の真樹と平将門の信頼関係を失墜せしめる策でございますが。……義弟殿らには、大いに働いていただくことになります」
平國香の肌は幽鬼の様に青白くなり、頬も痩け、眼窩は窪みが深くなり、ぎょろりとした目が辺りを見渡す。
「そ……そうか、してどのような――っんぐ」
平國香のぎょろりとした目が光る。遥か、年上である筈の源護が思わず。……息を呑んでしまう。
「それよりも、舅殿は湯治にでも行かれてはどうですかな? あとは我ら若い者が首尾良くやっておきます故……どうですかな?」
平國香の周りから、ふわりと……香とは違った、この世のものとは思えない程に、甘ったるい香りが漂い、源護の鼻腔を侵す。
源護の眼が、途端に焦点が合わなくなり、虚ろになっていく。
「ううむ……そうだの。あとは國香に扶よ、任せたぞ。儂は湯治に行って老骨を慰めてくるわい」
源護は立ち上がり、横に座っていた、源扶の肩に手を置く。
源扶から返事はなく。――ただ言葉を肯定するかのように、身体を揺らすだけであった。
その姿に違和感を覚えて、立ち止まるでもなく……源護は覚束ない足取りで外を目指し、何度か、よろめきながらも独りで出ていく。
平國香は、その姿を最後まで見送り、足音が聞こえなくなってから、やっと口を開き始める。
「義弟殿……扶殿……後ほど渡す物を将門の前で使うだけでよい……それで、策は全て終わる」
平國香は、枯れ枝と見間違う程に痩せこけた指を伸ばしながら、揺れる源扶に声を掛ける。
声を掛けられても、未だに揺れる身体は止まらず。……源扶は虚空を眺めながら、正気ではないのか。――
「まさかど、ゆるさない。ゆるさない、痛い、痛い……」
――掠れた声で、同じ言葉を九官鳥のように延々と吐き出す、源扶。
一室の灯りの当たらない闇の中。――つい今ほどまで、誰も居なかった場所で狐面の口が歪む。
「丹精込めて育てた、悪意の花が芽吹く……嗚呼、収穫の刻は近い」
両手で自らの身体を抱き、嬉しさからか震える狐面の女。
俄かに。白磁のような艶のある指を身体の下の方へと這わす。――湿り気を帯び、粘りのある水音と嬌声が、國香と扶がいる部屋に響く。
ある日、将門の元に一通の文が届く。
いつもの文机で、その文を読み進める将門の顔は陰りを帯びていく。
「何だい将門。珍しく浮かない顔して……何処かの好い人から、恋文をもらったんじゃないの?」
良乃は悪戯な笑みを浮かべながら、珍しく独りで将門の部屋にやってくる。
「恋文だったら、どれほど良かったか……」
将門は大きく溜息を吐きながら、文を良乃に手渡す。――文を手渡された良乃の顔も、瞬く間に陰る。
文には簡潔ながら、平将門と平真樹との関係を解消するように、との内容が書いてあった。
「なんで今になって……これは君乃には見せれないね。で、将門はどうする気なんだい?」
将門は腕を組み、少しの間、眼を瞑りながら考える。
考えが纏まったのか、ゆっくりと口を開ける。
「たったの文一枚で真樹殿との同盟関係を解消し、君乃を国に返すわけにもいかぬ。一度、國香伯父上の所に……直談判に行こうかと思う」
将門の考えを聞き、良乃は安堵する。
「そうさね……それでこそ、あたしの将門だよ! 君乃と子供たちには、何とか上手い事、誤魔化しておくから行ってきな!」
とびっきりの笑顔で将門の背中を押す、良乃。――その笑顔に将門は大きな力を貰い、手早く直談判の為の準備を進めていく。
陽が傾き始める。
将門は平國香への直談判の為に、手勢五百人ほどを集め。國香の本拠である石井へと進軍していた。
「兄い……國香の伯父上は直談判を受け入れますかね?」
将頼は竜馬を歩かせながら、黒丸に跨り、先頭を歩く、将門の背後より話しかける。
「万が一、受け入れられず……戦となった時の為の軍勢だ……あまり武力を背景に交渉をしたくはないが。事情が事情なだけにな」
将門は将頼の問いに答え、後ろの付き従う五百人を見やる。
五百人全員が、いつでも戦となっても良いように太刀と弓を備え、準備万端であった。
「とはいっても、武力をちらつかせるのは悪い事ではないと思うんですがね。さて……この先が野本で、そのちょっと先が石井ですから、もうちょいですよ」
先頭を行く将門が、はたと止まる。
――遠くで風に靡かれ、はためく旗……その旗に将門は見覚えがあった。
それは陸奥国における、鎮守の軍旗。――蝦夷を抑える為の朝廷の軍である、鎮守府の官軍だけに使用が許された物である。
「なぜだ……何故……」
将門の顔が険しくなり、しまいには怒りの為か震え。――握り拳を木に叩きつける。
木は震える。――木を住処としていた、野生動物が一斉に逃げ出す。
「兄い、あの旗がどうかしたんですか?」
何故に旗数本に、そこまで怒るのか……皆目見当のつかない将頼は聞く。
「あれは……鎮守府の官給品だ。そして私用は固く禁じられ、処罰の対象となる」
将門の説明を聞き、察した将頼は苦い顔となる。
「ということは……奴らは挑発しているということですか」
将門はしっかりと頷く。
「大罪を犯す者たちを捨て置く訳にもいかんが……こんな馬鹿なことをしでかすのは十中八九、源扶だろう」
将頼は新治郡での出来事を、あの凄惨なやり口を思い出していた……
「兄い、あの時は逃げられましたが、今回こそ! 奴の息の根を止めてやりましょう! それにあんな挑発されて引けば、笑いものですぞ!」
将頼は鼻息荒く、源扶を滅するべしと進言する。
しかし、将門は思い悩んでいた。
「ここで引けば、向こうの思惑通り、真樹殿との関係も解消となろう。……罪人を見逃す、根性なしの汚名も被ろう。――逆に、あの挑発に乗って戦を仕掛ければ。……汚名も被らず、真樹殿との関係も大事なく。だが、國香伯父上と戦となるな。……どうしたものか」
将門は珍しく自分に言い聞かせるように小さな声で考えを口にし、状況の整理をする。
悩む将門の耳に、鼓の音が聞こえ始める。――それも、またもや官給の鼓鉦の音。
どちらの道も選びきれない将門を嘲笑うかのように打ち鳴らされる。
「決めたぞ!」
黒丸の踵を返し、将頼らに向き直る将門。――その双眸に決心と覚悟が宿っていた。




