トラック泊地の休日
『五月雨』はトラック泊地に入港した。
トラックは太平洋における日本海軍の重要拠点だった。トラックは大小様々な島からなり、司令部が置かれ、飛行場をいくつも開設してある。湾には日本海軍の艦艇が多数停泊していた。
『五月雨』は工作艦『明石』に近づいた。『明石』の艦内には十七の工場があり、ドイツ製の工作機械などが百十七台も設置されている。まさに移動する修理工場だ。『明石』は南洋における連合艦隊の重要修理拠点となっていた。
『明石』の両側にはすでに数隻の艦艇が横付けて修理を受けているため、『五月雨』はその一番外側へ停泊した。早速、『明石』の修理主任が乗りこんできて損害状況を確認し、修理の手配を行なった。使い勝手が悪いと問題になっていた毘式四〇ミリ単装機銃を国産の二十五ミリ連装機銃へ交換することにもなった。『明石』から太い電纜が幾筋も引かれ、使用不可能になった二番主砲付近中心に修理が始まった。『明石』の作業班はきびきびと動き、損害箇所を直してゆく。『五月雨』の乗組員は当直を除いて、上陸許可が出た。過酷な戦場を離れた乗組員たちは久しぶりの休暇を楽しむためにトラックの街へ向かった。
「なんだこの魚」
「四メートルくらいですかね」
「それくらいはあるよな」
「でっかい口だなあ」
『五月雨』の水兵たちは浜辺に打ち上げられた巨大な魚を見下ろして目を丸くした。褐色の肌をした地元の漁師が集まりその魚を網でくるもうとしている。
「姿からしてサメの一種のようだね」
「こんなの初めて見たよ」
「俺もだ」
「それにしても間の抜けた顔をしてるなあ」
「歯はブラシみたいですね」
「そこは鯨に似てるな」
「きっとオキアミやプランクトンを食べるんだな」
「サメと鯨の合いの子か」
「うまいのかなあ」
水兵のひとりが漁師に向かって食べる仕草をしてみせた。漁師は首を振り、吐く仕草をして笑った。
「まずいってか」
「こんだけでかかったら大味だろうな」
「見るからに水っぽそうだ」
「兵隊さん、キャッチボールしようよ」
陽に焼けた少年が大きな魚を取り巻く水兵に向かってグラブとボールを掲げた。
「ボクは日本語がわかるのか」
「やだな、日本人だい」
「ほう、お父さんの仕事でこの島へきてるの」
「うん」
「お父さんは商売をしているのかな」
「シュウチョウだよ」
「え?」
「それって村でいちばん偉い人ってこと?」
「そうだよ」
「父ちゃんはこの島でシュウチョウの娘とけっこんして、それで跡をついでシュウチョウになったんだ」
「遠い島へ行ってお金持ちの娘と結婚して幸せになりましたとさ」
「めでたしめでたし」
「なんだかお伽噺みたいだな」
「それじゃ、ボクも大きくなったら酋長になるんだ」
「もちろんさ。ねえ、キャッチボールしようよ」
「よし、それじゃやろうか」
水兵たちは変わるがわる少年とキャッチボールを始めた。ボールが行き交うたびに、ポンとミットが響き、南洋の青い空に快く吸い込まれていった。
「いい眺めだな」
「いつも海のうえばっかりだから、たまにはこうして山登りしてみるのも新鮮だね」
「トラックって広いんだな」
「あっちこっちに島があるし」
「一式陸攻の編隊だ」
「おーい」
「今度は零戦だ」
「飛行場もいっぱいあるよな」
「ここは味方だけだからほっとできます」
「空襲もないから、ぴりぴりしなくていい」
「爆撃されるのはほんとにいやでやんす」
「爆弾がキュルルルルンって甲高い音を立てて落ちてくるとぞっとする」
「逃げるしか手立てがねえっつうのも癪にさわる」
「こんなところにいたらほんとうに戦争してんのかなって思うよな」
「早く帰りてえなあ」
「帰るってどこへだよ」
「日本さ」
「本音が出た」
「そんなことを言ったら、また精神注入棒でしこたま殴られるぞ」
「帰りたいものは帰りてえよ」
「帰ってなにするのさ」
「もう一人子供を作るんだ」
「女に飢えてるだけじゃん」
「違うよ。うちは男の子が二人だから、女の子が欲しいんだ」
「男は育てても兵隊に取られていつ死ぬかわからんしなあ。こんなご時世じゃ、女の子のほうが安心だよな」
「この戦争は何十年も続くんだろ。新聞で読んだよ」
「親子二代で戦争か」
「女の子を育てておけば、歳をとった時、かあちゃんの面倒は娘が看てくれる」
「言えてるかも」
「まずは生きて日本へ帰ることを考えようぜ」
「それが、俺らは伊号潜水艦の亡霊を見たでやんすよ」
「ええっ」
「沈められても獲物を狙って南洋の海をぐるぐる回ってるでやんす」
「諦めきれないのか」
「悲しいなあ」
「じつは、俺は米兵の亡霊を見たんだ」
「どこで?」
「トイレで」
「『五月雨』の便所でかよ」
「そうさ。夜中に腹の具合がおかしくなったから、気張りに行ったんだ。それで大のほうの便所の扉を開けたら――」
「いたんだ」
「うん、うずくまってた」
「お前さ、ヤンキーの水兵に会ったことあるのかよ」
「ないよ。でもわかるんだ」
「目が青いのか」
「いや、ちょっと灰色がかってた」
「それでどうしたんだ」
「肩を揺さぶったらぼんやり俺を見上げるんだ。幽霊だなってわかった。なんていうかさ、姿が薄いんだよ。さびしそうな顔をして涙を流すから、お前さんの艦はここじゃないぜ、故郷へけえりなって言ってやった。そしたら、奴さんはうなずいてすうっと姿を消したよ」
「嘘だろ」
「こんな作り話してどうすんだよ。ほんとだよ」
「たぶん、海で溺れ死んでさまよってるうちに、間違って『五月雨』へ上がっちゃったんだな」
「敵の艦で心細かっただろうな」
「死んだらどこへ行くんだろ」
「どこってあの世に決まってるだろ」
「あの世でのんびりできるかな」
「こんだけ人を殺したら、そうもいかないでやんす。俺らは地獄へ落ちるでやんす」
「身も蓋もないことを言うなって」
「『地獄は一定、一生すみかぞかし』ってか」
「誰の言葉だ」
「親鸞和尚さ」
「御国のために戦さして地獄行きじゃ、浮かばれんなあ」
「人間に生まれたのがそもそもの間違いなのよ」
「翼があったら、争い事もなくて自由なところへ行くんだけど」
「そうもいかないのが人間でやんす。業が深いんでやんしょう」
陽はすでに傾き、南洋らしいあざやかな夕映えが空をつつんだ。桟橋に打ち寄せる波はきらきらと黄金に輝く。桟橋に腰かけた若い水兵がポケットからハーモニカを取り出して吹き始めた。哀愁を帯びたメロディーだった。
「お嫁にいっちゃうんだよなあ」
水兵はふとハーモニカを吹く手をとめ、空を見上げた。まだ幼さの残るあどけない目元には涙がうっすらにじんでいる。
「早く嫁にいけよなんてよく冗談で言ってたけど、実際そうなっちゃうと、なんだかさびしいよな。俺、あの子のことが好きだったんだな。惚れてたんだ。今さらだよな。
これでいいんだ。いいんだよ。駆逐艦乗りなんて消耗品だからいつ海の藻屑と消えてもおかしくないもんな。俺なんかとは一緒になれないもの。このほうがあの子はしあわせになるんだ。それでいいじゃないか。でも、もう手紙をくれないんだろうな」
水兵はハーモニカを唇にあてた。
「一度でいいから接吻したかったな」
そうつぶやいた彼は、せつないメロディーをまた吹き始めた。
友田大尉は、涼しい夜風に吹かれながらトラック島の繁華街を歩いた。狭い通りに小さな店がびっしりと立ち並び、居酒屋がいくつか軒を並べている。
「友田」
聞き覚えのある声に呼び止められた。振り向くと兵学校で同期だった島木が手を振りながら駆け寄ってきた。
「久しぶりじゃないか」
島木は友田の肩を叩いた。友田は島木の肩を抱き、再会を喜んだ。
「こんなところで会うとは思わなかったね。シンガポールの艦隊司令部勤務だったよね」
友田は訊いた。
「俺は転属になったんだ。一杯やろうぜ」
友田と島木は適当に暖簾を潜って居酒屋へ入った。とりあえず冷酒を頼み、まずは二人の無事を祝して乾杯した。島木は小柄だが引き締まったいい体格をしている。大きなあごと太い唇にはいかにもきかん気の職人気質の頑固さが見えるが、ぎょろりとした大きな目はいつも優し気なまなざしをたたえていた。
「どこへ転属になったんだい?」
友田は島木に訊いた。
「戦艦『霧島』さ」
島木はどうだというふうに眉を吊り上げてみせる。
「おめでとう。よかったじゃないか。さあ」
友田はコップを掲げた。
「ありがとう」
安物のガラスコップが当たり、乾いた音を立てる。
「戦艦に乗り組めるのも嬉しいし、陸上勤務をやらなくていいのもありがたいよ。書類を回すだけの仕事なんてもうこりごりさ。そんなことをするために猛訓練をしてきたわけじゃないからね」
島木は嬉しそうに笑う。これからトラックへやってくる戦艦『霧島』を待ち、乗り組んだ後は主砲発令所を任せられることなるそうだ。発令所では、敵艦の位置、距離、進路、速度などを分析して、主砲の発射を定める。海軍兵学校で砲術を専攻して海軍大学でも砲術を学び、砲術畑を歩んできた彼にとっては念願の配置だ。
他の同期の動向などをすこしばかり話した後、二人の話題はガダルカナル島奪回作戦へ移った。
「今度はどんな作戦をとるのだろう。第一次総攻撃、第二次総攻撃と同じ作戦を繰り返して失敗したのだから、そろそろ攻め方を変えるべきだと思うのだが」
友田は言った。
「それは司令部のほうでも考えているみたいだけど、妙案がないらしい。とりあえずはガ島の戦力を増強するそうだ」
島木はさきいかを口へ放り込む。
「増強をしなくてはいけないのはわかるが、これまでに随分と輸送に失敗しているからねえ。制空権がなければむつかしい」
「『五月雨』も鼠輸送をやったのか」
「ああ、何度もね。鼠の背中に荷物をくくりつけてこそこそ運んだところでかぎりがある。大型船の輸送は制空権がないことにはできない。補給も増強もむずかしいのが実情だよ」
「制空権か。砲術士官にとっちゃ、あんまり面白い言葉じゃないけど。ガダルカナル島の飛行場を取れば、制空権はこちらへ移る。それまでの辛抱といったところなんだろうな」
「それにしても制空権がこれほど意味を持つとは思わなかったね」
「まったくだ。戦さの主力は戦艦だったはずなんだけどな。あんななにもない島の飛行場をめぐって激戦になるなんて思いもしなかったぜ。しかもその飛行場のおかげで、こちらは攻めあぐねているときている」
「それにしても、なんだかあべこべになってしまったね」
「なにがだ?」
「もともとは、小笠原沖かマリアナ沖でアメリカ艦隊を待ち受けるはずだったのに、それが今ではアメリカがガダルカナルで待ち受けて、こちらが敵の分厚い守備線へ突っ込んでいく。消耗戦へ引きずり込まれてしまった」
「言われてみれば確かにそうだな。資源の乏しい日本が資源に困らないアメリカ相手に消耗させられたのじゃかなわない」
「日本はアメリカを消耗戦に誘い込むべきで、逆をやってはいけない」
「その通りだけど戦さなんだから苦しい時もあるだろうよ。ガ島を取らなければ先へ進めないわけだしね。もうすぐ『霧島』も行くことになる」
島木は誇らし気に笑みを浮かべた。
「それは本当かい?」
「そうだよ。ここだけの話しな」
「わかっているよ」
「いくら航空主兵といったって、戦艦にできることはまだまだたくさんあるさ。なにせ三十五・六センチ砲を八門も備えた浮かぶ砲台なんだからな。同型艦の『金剛』『榛名』だって活躍しただろ。『霧島』の高速をもってすれば、ガダルカナル付近のソロモン海で夜戦を仕掛けることができる。大暴れしてアメリカさんを追い出してやるさ」
「『霧島』がきてくれれば心強い」
「今、夜戦の研究をもう一度やり直しているところなんだ。やはり敵に肉薄しなくっちゃいけない。昼間の砲戦もそうだけど、アウトレンジでは弾が当たらない。過去の海戦のデータを割り出して、どのくらいの距離で砲戦をすれば有効弾が多くなるのかを再計算しているんだ」
「スラバヤ沖海戦ではアウトレンジでやったために命中弾が極端に少なかったね」
スラバヤ沖海戦は南方作戦の際に起きた海戦だ。ジャワ島攻略の輸送船団を護衛していた第五戦隊、第二水雷戦隊などが、輸送船団を阻止しにきたアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアの連合艦隊と衝突し、四十六時間に渡って合計五回の戦闘を行なった。友田は『五月雨』に乗り、島木は第五戦隊の重巡『妙高』に乗り組んで戦った。
「あれはまずかった。戦力ではこちらが圧倒的優位に立ってたんだから、もっと相手に近づいて追い込まなくっちゃいけなかった。二万五千メートルも離れたところから主砲を撃ったって、なかなか当たるわけないよ」
「『五月雨』は距離九千メートルまで近づいて魚雷を放ったが当たらなかった。他の駆逐隊は一万メートル以上から撃っていた。もちろん当たらない。魚雷の命中率は全体で二%だったそうだ」
「砲撃のほうも似たり寄ったりさ。敵が寄せ集めの弱小艦隊だからよかったものの、あれが実力のある艦隊だったらどうなっていたかわからなかったよ」
「司令部としては、緒戦で艦を失いたくないという意識が強く働いたのだろう」
「働かせすぎさ。戦さなんて格闘技なんだから、踏み込んで相手の襟首をがっちりつかんでやらないといけないぜ。ソロモンでは二度とあんなへまはやらない。戦艦だって遠距離から撃ったんじゃ命中率は低くなる。肉を切らせて骨を断つくらいの覚悟で相手に肉薄してやるよ」
「頼もしいな」
友田は島木の気迫に微笑んだ。
「消耗戦に引き込まれたかもしれないけど、かまわないさ。逆ねじを喰らわしてやればいい。日本が守勢を取ることはできないんだ。こちらが守勢をとれば、工業力の優れたやっこさんはじっくり構えて戦力を整える。そうなれば、もう勝ち目はない。敵の戦力が手薄な今がチャンスだ。この好機は二度と来ない。こんなふうに一つひとつのチャンスを拾っていくしかないってことさ」
「確かにそうだね」
それから二人は夜が深まるまで酒を酌み交わした。
山原艦長は海軍病院の一室を見舞った。
病院は海岸沿いに建っていた。真っ白な第二種軍装を身にまとった山原艦長は受付で病室の番号を聞き、消毒薬の匂いのしみこんだ階段を上がった。薄緑色した木製の扉を開ける。扉の脇には当番の水兵が礼儀正しく坐っていた。水兵はさっと立ち上がり敬礼する。
「御容態はいかがかな」
山原艦長は水兵に訊いた。昨日は半日ほど元気になり、三十分ほど車椅子で病院の庭を散歩したそうだ。だが、今朝から再び昏睡状態へ戻り、名前を呼んでも反応がないという。軍医の話ではもって数日だろうとのことだった。
「話しかけてもいいだろうか。私は明日、出航なのだ」
山原艦長が問いかけると、水兵は「短い時間でしたら大丈夫と思います。席を外しますので終わったら声をかけてください」と一礼し、病室を出て行った。
山原艦長は窓際のベッドへ近づいた。白いカーテンが明るい日差しをさえぎり、適度な明るさを部屋のなかへもたらしていた。カーテン越しに潮騒が響く。ベッドには頭を包帯に巻き、ギブスをはめた腕と足を吊り上げた病人が静かに眠っている。顔にはごま塩になった短い無精髭が生えていた。
「先輩、長い間お世話になりました。私は先輩のお陰で今日まで駆逐艦乗りとしてやってゆくことができました。半人前だった私を鍛えてくださり、また私が人生でいちばん困難だった時に助けてくださり、公私ともども大変お世話になりました。本当に感謝しております。
先の戦闘では先輩をお助けできずに申し訳ありませんでした。なんとかしてさしあげたかったのですが、どうにも力が及びませんでした。私はまだまだ未熟なようです。明日、『五月雨』はラバウルへ向けて出港し、再びソロモン海で戦うことになります。先輩に教えられたことを守り、善き戦いを闘いたいと思います。これまで以上に激しい戦いになるでしょう。いずれあの世でお会いしましょう」
敬礼した山原艦長の手は細かく震えている。実の兄のように慕っていた人と別れを告げ、山原艦長は踵を返した。窓から風が吹き込み、鮮やかな色をした南洋の蝶が一匹、病室へ紛れ込んだ。