陸兵
パラオを出発した『五月雨』は輸送船を護送してラバウルへ到着した。ショートランドへ向かう予定だったが、敵機動部隊の襲来があるかもしれないとの警報を受け、ラバウルへ一時退避したのである。
ラバウルはニューギニア島の東に浮かぶニューブリテン島にある港だ。花吹山と命名した美しい火山が湾の端にそびえ、火山のカルデラが湾となっている。大艦隊を収容可能な天然の良港であり、帝国海軍はこのラバウルに要塞を築いた。湾には大小各種の艦艇が停泊している。大小の軍艦や輸送船は海に眠る鯨のようにひっそりしずまり、その間を縫って、小型艇がみずすましのようにせわしく駆け回る。
ラバウルからショートランドまでの陸兵輸送の命を受けた『五月雨』は港に接岸し、先に物資を積み込んだ。ドラム缶を甲板にずらりと並べ、艦内の廊下には弾薬、機銃、その他の輸送物資を所狭しと置いた。物資の積み込みを終えた『五月雨』は港を離れ、やや沖合に停泊した。
翌朝、再び港へ接近して陸兵を乗艦させようと『五月雨』が動き出した途端、空襲警報が発令された。『五月雨』は舳先を変え、さらに沖合へ出ようとする。迎撃の零戦隊が空を駆け上るようにして飛んでゆく。
「あのあたりへ避難しようか」
山原艦長は沖合に泊まったままの艦を指さした。飛行艇母艦の『秋津洲』だった。全長一一五メートル、基準排水量は四六五〇トン。大型飛行艇を甲板へ揚収するために備えた三五トン大型クレーンが特徴だ。
「艦長、『秋津洲』は碇を下したまま動く気配がありません。どうやら空襲警報を受信していないようですが、こちらから信号を送りましょうか」
友田先任は言った。
「計略だよ。信号なんぞ送らなくともよい」
山原艦長はにやりと笑う。
「敵機四機がこちらへ向かってきます」
見張り員が叫ぶ。重爆撃機B25が湾へ進入してくる。狙いは『秋津洲』のようだ。
「対空戦闘。主砲、機銃発射用意。取り舵一杯」
『五月雨』は『秋津洲』を横目で見ながら大きく左旋回した。
「主砲発射準備完了」
「目標、敵機、撃て」
『五月雨』の一二・七センチ主砲が火を噴く。やおら、『秋津洲』が碇を下したまま走り始めた。『秋津洲』の船体は鎖の伸びきったところで鎖に引っ張られてくるりと反転する。B25の投下した爆弾は『秋津洲』がもともと停泊していたあたりに落ち、噴煙と水しぶきを上げた。B25の編隊はそのまま悠々と去っていった。
「これが噂の『秋津洲』流爆撃回避術ですか」
友田は言った。
「この目で見られるとは運がいい。敵機がこちらの照準を合わせたところで動いて爆弾をやり過ごすのだな。参考になったよ」
「うまいやり方ですね」
「爆弾の落ちたところへ行ってカッターを下ろせ。捕虜を捕まえろ。『秋津洲』の連中に負けるな」
山原艦長は大声で叫んだ。
「こりゃ大漁だわ」
「爆発でやられた魚が浮いてる」
「早く網を投げろ」
「今晩は刺身が出てくるかなあ」
「今夜は宴会だ」
「こらっ、『秋津洲』の野郎、俺たちが先だ。捕虜を横取りするんじゃねえ」
「なに言ってやがるんだ。『秋津洲』が爆弾を落とさせて魚をやっつけたんだ」
「そうだ。捕虜は『秋津洲』のもんだ」
「鯛だ」
「塩焼きにしたいなあ」
「塩焼きの後は、お茶をかけて鯛スープ」
「いい魚だけこっちでとるんだ。雑魚は『秋津洲』にくれてやれ」
「雑魚は『秋津洲』のカッターへ投げるんだ。それっ」
「なにしやがる。痛いじゃねえか」
「こっちも雑魚を『五月雨』の奴へ投げてやれ」
「ほらほらほら」
「めいっぱい投げつけろ」
「こら、食べ物で遊ぶな」
「食べ物じゃないや、捕虜だい」
「捕虜なら、丁寧に扱え」
「捕虜の身柄は、生きたまま切り刻んでわさび醤油で食べるのよ」
「棟梁、すごいっすよ。こんなにいっぱい食べきれないです」
「あまったら味噌漬けにしたり、醤油みりん漬けにすればいい。それでも余ったら、塩をすりこんで干物にする。とにかくじゃんじゃんとるんだ」
「がってんだ」
「これでしばらく献立に苦労しなくてすむぞ」
翌日、約百名の陸兵が『五月雨』へ乗り込んできた。第十七軍司令官百武中将と川口支隊の川口少将も、兵隊とともに座乗した。百武中将は情報畑を歩いてきた人物だからか、いつもなにかを探るような鋭い眼光をしている。川口少将は、陸軍兵学校一の美少年と謳われた美貌の面影はなく、憔悴してやつれきっていた。戦陣焼けした頬はごっそりと肉が落ち、ごま塩の無精髭が頼りなく浮かんでいる。
友田大尉は山原艦長と共に陸軍の両提督を出迎え、部屋まで案内した。全員が乗船した後、『五月雨』は輸送船を従えてラバウルを出港した。天気は快晴、波も穏やかだった。
ガダルカナル島への輸送は主に駆逐艦がその役割を担っていた。通常であれば輸送はもちろん輸送船が行なうが、ガダルカナル島には米軍の飛行場があって制空権を握られているため、低速の輸送船が昼間に航行すれば敵機の反復攻撃に遭い、撃沈されるおそれが高い。
そこで駆逐艦が輸送船の代わりにその高速を活かしてソロモン海を駆け抜け、ガダルカナル島の友軍へ兵員や物資を送り届けた。ただし、駆逐艦であるためにその輸送力は限られている。武装兵は一隻当たり最大百五十名。駆逐艦を二十隻連ねて三千人の支隊をようやく運ぶことができるほどだ。一往復では食糧も弾薬も十分には運べないので、それを輸送しようと思えば二往復しなければならない。もっとも、何往復してみたところで、攻略に必要な野砲や重砲を運ぶことはできないが。
食糧はドラム缶で運ぶ。ドラム缶に米を詰め、鰹節を二三本そえた。ドラム缶一杯に詰めるとドラム缶が水に沈んでしまうため、なかには浮きになるようなものを入れておく。ガダルカナルの浜辺近くへ到着したところで、数珠繋ぎにしたドラム缶を次から次へと海へ放り込み、十五分で投入を完了させて駆逐艦はさっと反転する。夜が明けたら飛行機に襲撃されてしまうから、暗いうちにできるだけ急いで敵の攻撃半径から逃れなければいけない。陸軍は舟艇を出してドラム缶を拾いにくる。この綱渡りの輸送作戦を「鼠輸送」と呼んだ。
ラバウル出航直後、『五月雨』は船団の前路を爆雷で掃討した。敵の潜水艦が潜伏していた場合に備え、これを威嚇して攻撃させないようにするためである。その後、艦は之の字運動を行ない右へ左へ少しずつ進路を変えながらジグザグに進む。これも対潜警戒のために実施するもので、敵潜水艦に容易に照準させず、魚雷を当てられないようにするためであった。
友田は艦内の見回りへ出た。物資を満載しているうえに陸兵を乗せているので、異常がないか気掛かりだった。幸い、陸兵たちは部屋や廊下におとなしく坐り、物資の異常も見当たらなかった。士官室の傍を通ると、川口少将が海原を眺めながら坐っていた。孤独でさみしげな横顔だった。ちょうど、二等兵がお茶を運んできたところだったので、友田は盆を受け取って二等兵を下がらせ、自分自身で川口少将へお茶を差し出した。
「この度は海軍の失態を取り戻すために多大な御苦労をいただき、誠に申し訳ありませんでした」
友田は言った。心労と疲労の色の濃い川口少将の顔を見て、ひとりでにそんな言葉が口をついて出た。
「任務ですから。こちらこそ、奪還できずに相済まないです」
川口少将は頭を下げる。
「よろしければ、ガダルカナル島の状況を教えていただけないでしょうか。今後、作戦行動を取る際の参考にさせていただければと思います」
厚かましいと思いつつも友田は言った。話し相手になることでなにかの慰安になればとも思ったからである。
「敗軍の将やき」
川口少将は土佐弁でつぶやき、それでも手を差し伸べて友田に席を勧めた。友田は失礼致しますと敬礼をして椅子に坐った。
ガダルカナル島が奪われた後、一木支隊が上陸して米軍へ突撃をかけた。が、ろくな地図も食糧も弾薬も持たない軽装備の一木支隊約九百名は、米軍の反撃に遭い、あえなく包囲殲滅されてしまった。
一木支隊の次に上陸したのが川口少将の率いる川口支隊だった。川口支隊六千名が第一次総攻撃をかけた。ジャングルを切り拓いての進軍、食糧、弾薬不足という悪条件のなかよく戦い、あと一歩というところまで迫ったが、攻めきれずに敗れてしまった。
川口支隊の敗退を受けて、第二師団増援が決定された。川口少将は作戦会議のためにガダルカナル島を抜けてラバウルへ行き、そして今また、第二次総攻撃実施へ向けてガダルカナル島へ戻ろうとするところだった。
「御存知の通り、食糧が足りません。今この艦に乗せていただいておる兵隊たちはいい体をしております。栄養が足りておりますからな。しかし、一か月もしないうちに私のように骨と皮だけになってしまうでしょう。私もひどい姿をしておりますが、まだ恵まれておるほうです。兵はもっと凄まじい姿になります。ガダルカナル島へ上陸して五日分の携行食糧が切れた時から飢餓の苦しみが始まります。食糧の補給はほとんどありません。椰子の実を落として、その汁をすすり果肉を喰い、野鼠や昆虫を捕まえては炙って蛋白源としますが、そんなものではまったく足りません。マラリヤ熱や赤痢に罹って命を落とすものも多いです。医療品がほとんどないのでろくな治療も受けられません。栄養不足のせいで抵抗力が落ちていますから、あっけないほど簡単に死んでしまいます。病気に罹らずにすんだ者も、やがて食糧を探しに行く気力も体力もなくなり、じっと坐ったままになったりします。もうそうなれば死神がやってくるのを待つばかりです。坐ったまま糞尿を垂れ流す兵は三日以内にお陀仏です。声をかけても返事すらしない兵はたいてい翌日死んでおります。みな気力だけでどうにか持ちこたえているというのが実態です。戦さ以前の状態ですよ」
「駆逐艦が輸送したドラム缶は届いているのでしょうか」
「届くことは届きますが、おそらく駆逐艦に積載した三分の一もガダルカナル島の兵士の手には渡っていないでしょう。兵隊は飢えておりますから、駆逐艦がやってくるとそれきたとばかりに舟艇を出してドラム缶を回収しにかかります。しかし、舟艇が着く前に潮に流されて沖へ行くドラム缶もかなりあります。こちらとしてはせめて舟艇が駆逐艦へたどり着くまでドラム缶の投入を待っていただきたいところですが、急がなければ今度は駆逐艦が帰り道に空襲を受けてしまうのでそうもいかないのでしょう。舟艇の数も足りません。数が足りないために浮かんでいるドラム缶をすべて回収できないまま舟艇は浜へ戻ってきます。もう一度行ってみても、残りのドラム缶は流された後でほとんど見つけることができません。
ドラム缶を浜辺へ引き揚げた後はどこかへ隠す必要がありますが、空腹のあまりそこで力が尽きてしまい、そのまま放置する場合も多いです。そんなドラム缶は翌日にはアメリカ航空機の襲撃を受けて破壊されてしまいます。
ようやく確保できた食糧は前線へ送ってやりたいところですが、運ぶ兵士がおりません。いや、兵士はおるのですが、米袋を担いでジャングルを行軍できるだけの体力を持ったものがおらんのです。みんな骨と皮ばかりになってその日の命をつなぐのがやっとですからな。稀に前線への輸送を試みますが、兵隊が腹ペコのところに重い袋を担いだものだから山道で行倒れになるというありさまです。
駆逐艦を本来の用途とは違う任務に用い、危険を冒して送ってくださっておるのは重々承知のうえですが、これが実態です」
「鼠輸送は効果があまりないのですか」
「効果はあるのです。少なくともこの輸送のおかげで命をつないでいる兵がおるわけですから。鼠輸送すらなくなってしまえばどうなることかと思うとぞっとします。ただ、これが鼠輸送の限界というところでしょう。輸送の絶対量が不足しております。苦肉の策では根本的に問題を解決できないということです。それに先ほども申し上げた通り、ドラム缶をどうやって回収するのか、またジャングルのなかをどうやって物資を配送するのかも問題です。陸軍と海軍はそれぞれお互いにいい知恵を出す必要があるかもしれません」
「第一次総攻撃はかなりいいところまでいったそうですね」
「あれがやっとだったのでいいところまでいったと言えるかどうか。
準備不足、兵糧不足、弾薬不足、兵力不足と足りないものばかりのなかで兵はよく戦ってくれました。四日間も飲まず食わずで戦った部隊もあったほどです。
作戦が失敗した最大の原因はジャングルを切り拓いての行軍にあります。鬱蒼と茂ったジャングルの密林は闇です。光が遮られているのですから、ほんとうになにも見えません。ろくな地図も持たないまま未開のジャングルのなかを、斧と鋸で道を拓くわけで、方角がわからなくなることもしばしばあって進みたくてもいっこうに進みませんでした。熱帯ですのでスコールが降ります。急峻な山の斜面を濁流が駆け抜け、兵隊たちはロープを張って腰まで泥水につかりながら歩くことになります。深みにはまってそのまま沈んだり濁流に流されて命を落としたものも少なくありません。このような状態なので、部隊間の連携を取るのが困難でした。連絡を取りたくてもどこにいるのか所在がつかめません。無電もつながったりつながらなかったりでした。
総攻撃を一日延期することにしました。進軍が遅れたために総攻撃前日になっても配置につけない部隊がいくつもあったためです。この総攻撃は海軍との協同作戦だったので海軍に迷惑をかけてしまうことになりましたが、全軍が揃わなければ総攻撃になりませんからやむを得ません。放った斥候の情報から、島へ行く前に聞いていた話とはずいぶん様相が異なることには気づいていました。敵は予想以上にかなり増強されており、想定していた三倍以上の敵兵力との会戦になりそうです。すこしでも兵を揃えたいところでした。
攻撃開始の直前になっても私は不安でした。寄せ集めの支隊とはいえ、一つひとつの部隊を見てみれば精鋭でした。各師団からいい部隊が引き抜かれてガダルカナル島に集結しています。とはいえ、部隊間の連絡もろくとれず全軍の状態を掌握しきれていないなかでの夜襲は躊躇してしまいます。それに、山道の啓開作業のために兵は疲れ切っています。ラバウルの第十七軍司令部と無線で連絡を取りもう一日の延期を求めましたが、許可はおりませんでした。
結果的にばらばらに攻撃をかけることになったとはいえ、食糧が尽き、弾薬も乏しいなかでよくもあれだけ戦えたものだと思います。兵はよくやりました。ムカデ高地さえ抜くことができれば、その勢いで飛行場を占領できたでしょう。あと一個連隊の兵力あれば、力押しで飛行場南端の丘の敵を追い払い、そのまま逆落としで飛行場まで行けたはずです。ですが最後は、戦力の損耗が激しいところへ敵の飛行機が飛び回っては襲撃を加えてきたりしたために戦線を持ちこたえることができなくなりました。食糧がなくてみな空腹になり、戦さを続けることができなくなったのも敗退の大きな原因です」
川口少将はふと口をつむり、窓の外を見た。輝かしい南洋が窓の外に広がる。海鴎が海面すれすれに群がっている。魚を漁っているのだろう。川口少将は言葉を続ける。
「ガダルカナルの重要性はわかります。あそこを占領してアメリカとオーストラリアの連絡線を分断することができれば、この戦争全体の戦局が我が国に有利になる。ぜひともガダルカナル島を落とす必要があります。しかし、攻略するためにはそれだけの戦略と準備がやはり必要です。
孫子曰く、『勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む』。勝者は、まず必勝の環境を整えた後に戦さを行ない勝利を確定させる。敗者はとりあえず戦さ始め、そのどたばたのなかで勝利を求めにいくがために、準備不足の結果として負けてしまう。一木支隊も川口支隊もこの定石に反して、たいした準備もせずに性急に戦いに臨んだために失敗しました。今度は失敗できません。必勝の環境を整えてから、来るべき第二次総攻撃に挑む必要があります。海軍の輸送が鍵を握ります。輸送がうまくいき戦力を整えることができれば、今度こそ必ず攻略できるでしょう」
「全力を挙げてガダルカナル島の輸送を成功させるようにと山本長官からも全軍へ通達が出ており、今回の輸送作戦は、新型輸送船のほかに水上機母艦なども輸送を行ないます。『五月雨』も微力ながらお役に立てるように奮闘する所存でおります」
友田は言った。
「痛み入ります。今度こそは勝利を摑み、無念にも死んでいったものたちに報い、今飢餓に陥っている将兵どもを引き揚げさせなければなりません。ぜひともよろしくお願い申し上げます」
川口少将は深々と頭を下げた。
『五月雨』はショートランドに到着した。『五月雨』の輸送はここまでである。陽炎型駆逐艦『親潮』が『五月雨』に横付けする。陸兵は甲板に並び『親潮』への移乗を開始した。『五月雨』に満載したドラム缶等の物資も陸兵が運び出す。『五月雨』の乗員も甲板へ出て物質の搬出を手伝い、陸兵たちを見送った。
「陸軍さん、しっかり頼みます」
「これを持って行ってよ」
『五月雨』の乗員が陸兵の背嚢にサイダーの瓶をくくりつける。他の乗員たちも、思いおもいになにがしかの食糧や飲料を陸兵へ贈った。せめてもの心づくしである。
「海軍さん、ありがとう」
「ガダルカナルは絶対に俺たちが落とすからな」
「ガダルカナルで会おう」
『親潮』の煙突から黒煙があがり、『五月雨』から離れる。甲板に整列した陸兵と水兵は互いに帽子を振って別れの挨拶をした。居並ぶ陸兵のなかに川口少将の姿も混じっていた。『五月雨』はそのままラバウルへ帰投した。