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パラオ


 ヌデニ島作戦の後、『五月雨』は僚艦と別れ、単艦でパラオへ向かった。

『五月雨』は白露型駆逐艦の六番艦として昭和十二年一月に就役した。全長百十一メートル、基準排水量一六八五トン、最高速力三十四ノット、乗組員定員二百二十六名。兵装は五〇口径十二・七センチ連装砲C型二基四門、同単装砲B型一基一門、式四〇ミリ単装機銃二基、六十一センチ四連装魚雷発射管二基、魚雷発射管には次発装填装置がついており搭載魚雷は合計十六本、爆雷投射機二基という内容だ。海軍軍縮条約時代に設計された艦のため、軍縮以前に竣工した特型駆逐艦や軍縮以後に設計された朝潮型、陽炎型、夕雲型と比べれば船体が一回り小さいが、主砲が一門少ないだけで、水雷戦隊の夜戦でも十分活躍できるだけの性能を持っている。

 パラオでは連絡便の航空機が『五月雨』乗組員宛ての手紙を運んできたおかげで、乗組員は家族からの手紙を手にすることができた。彼らにとっていちばんの楽しみは家族からの便りだ。 乗組員たちはわっと歓声をあげて甲板へ上がった配達係りの水兵を取り囲む。配達係りも嬉しそうに麻布で編んだ郵便袋を開け、甲板に広げた手紙を手際よくさばきながら渡す。手紙を受け取った乗員は大切そうに抱えて艦のなかへ消えていった。友田大尉は配達係りの二等兵から手紙を受け取り、士官室ガンルームで独り封を開けた。妻の典子、今年国民学校へ上がった娘、それから父親からの三通の手紙だった。


「あなた。

 お勤め、お疲れ様です。

 あなたは今、どの海においでなのでしょうか。

 智恵子は地球儀を枕元に持ってきては、お父さまはどこにいるのと尋ねます。わたくしは答えようがありませんから、さあどこかしらねと言いながら、ただ地球儀をぐるぐるまわすばかりです。じつはあなたがどこにいようとかまわないのです。無事で、元気でいてくれさえすれば。そうして、お休みがとれたときに智恵子に土産のひとつでも持って帰ってくださればそれでいいのです。

 耕太は三か月になりました。まるまると太り、すくすく育ってくれてます。目元のあたりはあなたに似ているかしら。早くあなたが帰っていらして、耕太を抱いていただければどんなにいいでしょう。おじいさまは『これで跡継ぎができた。いつでも墓へ入れる』と毎日のようにおっしゃいます。男の子の孫ができてほんとうにうれしそうです。わたくしもよかったと思います。

 智恵子は、寝たきりのわたくしのかわりに面倒を看てくれて、よくお姉さんをしてくれます。耕太が泣けばおぶってあやしてくれますし、近頃ではおむつもかえてくれるようになりました。ほんとうに助かります。

 あなたが帰っていらっしゃるのを心待ちにしております」

「留守ばかりしてすまない」

 友田は手紙の文字をじっと見つめた。

「三か月も経ってまだ臥せったままということは、産後の肥立ちがよほど悪いのだな。智恵子を産んだ時はなんの問題もなかったのに。心細い想いをしているのだろう。この前家へ帰ったのはミッドウェー海戦の前だったな。あの時、典子は臨月だった。みな耕太の誕生を心待ちにしていた。父も母も、典子も智恵子も縁側に並んで、庭に咲いた菖蒲の花を眺めながらおむすびを頬張った。耕太が典子のお腹を蹴るから、みんなで典子のお腹を触りながら耕太に早く出ておいでと話しかけたものだった。

 ソロモン諸島の戦いが一段落するまでは日本へ帰る機会はありそうもない。耕太を抱くのはそれまでお預けになるか。みな元気だというから、あとは典子の体が恢復してくれれば、気掛かりがなくなるのだが」

 友田は妻の手紙をしまい、次に娘の智恵子の手紙を開けた。

「弟はこんなに大きくなりました」

 智恵子は便箋にクレヨンで健康そうな嬰児の姿を描く。頬はリンゴ飴のようにあかい。

「まいにち、がっこうからかえるのがたのしみです。いえへかえると手をあらって、それからすぐにこう太をおぶってあやします。こう太はとてもよい子です。小さな目でいつもなにかをじっとみつめます。なにをかんがえているかしら。そんなとき、こう太はおりこうさんにみえます。でも、ときどきなきじゃくって、わたしがいくらあやしてもぜんぜんなきやんでくれません。わたしはどうしていいのかわからなくなって、いっしょにないてしまいます。やっぱり、おねえさんよりお母さまのほうがいいのでしょう。お母さまがはやくよくなってくれたらいいのにな。

 おじいさまは、ときどき、はだかになってえんがわにねそべります。おばあさまはおじいさまのこしにおきゅうをすえます。くさのもえるにおいがへやにひろがります。おきゅうをするとこしのいたみがらくになるのだそうです。おじいさまはちえこもやってみるかといいますが、わたしはすぐににげます。だって、こわいもの。

 こんどお父さまがかえっていらしたら、おてらへおまいりにつれていってくださいね」

「いい子だ」

 友田はほほえみながら娘の手紙をもう一度読み返し、父からきた封筒を手に取った。

「筆不精の父が手紙を送ってくるということは、なにかあったのだな」

 友田の眉が曇る。封を開け、

「お前の兄の定二郎が名誉の戦死をした」

 と挨拶もなにもなしに書かれた最初の一行を読み、そっと目を瞑った。陸軍の軍服を着て足にゲートルを巻いた次兄の姿が脳裏に甦る。

「中国の山奥の寒村へ逃げ込んだ国民党の将校を捜索している間に、後ろから狙撃されたとのことだ。覚悟はしていただが、一番上はとっくの昔に海軍航空隊の飛行機実験で死亡して、二番目にも逝かれてしまったとなると、いくら御国のためとはいえやはり気分が重い。成仏を祈るしかない。先日、定二郎の上官だった方が家へ遺品を持ってきてくださった。今度、お前が帰ってきたら、形見の品を一つ持っていくといい。定二郎のところは子供がいないから、定二郎の嫁は落ち着いたら里へ帰すつもりだ。いい再婚相手を見つけて幸せになってくれればと願う。

 典子のことは心配せずともよい。漢方医から薬をもらい、それを煎じて毎日飲ませておる。ひと頃に比べれば顔色がずっとよくなった。もう後一か月ほどゆっくり休んでおれば元通りの体になるだろう。孫娘もよいが、男の孫はまた格別だ。耕太の未来がどのようなものになるのか、わしはもう見届けることができないだろうが、安心した。人間の魂は自分の子孫へ生まれ変わるという俗信があるそうだ。もしそれがまことなら、わしは耕太の曾孫あたりにでもなるのだろうか。

 お前も体にはくれぐれも気を付けてくれ」

 友田は瞼を閉じ、瞳の奥から熱く溢れ出ようとするものをこらえた。


「棟梁、これっぽちですかい?」

 若い二等兵が『五月雨』の食料倉庫のなかで補給物資の明細表を見ながら言った。倉庫のなかには麻袋に入った食糧が並ぶ。

「棟梁って呼ぶのは、いいかげんやめろ。俺はれっきとした帝国海軍の軍人なんだ」

 頭の禿げかかった中年の一等兵曹は拳骨で二等兵の頭を叩いた。

「へえ、俺らはついこの間まで大工の弟子をやってたんでさあ。癖が抜けねえんですよ」

「今ではお前も立派な帝国海軍の軍人なんだ。自覚しろ」

「はあ、ですがね、棟梁」

「やめろって言ってるだろ」

 一等兵曹は舌打ちする。

「もうちょっとましな補給っつうもんが受けられませんでしょうか。肉類がほとんどないし、野菜はさつまいもとじゃがいもばっかり」

「確かに参ったな」

「これじゃろくな献立が作れませんよ」

「補給を受けられるだけでもありがたいといえるが」

 一等兵曹は帽子を脱ぎ薄くなった頭を掻き、

「艦長はみんな食事だけだ楽しみなんだから材料がないなら罐詰でもどんどん切って出してやれとおっしゃられるが、罐詰にしたってきちんと補給を受けられる保証はどこにもないから、やはり非常食として取っておきたいところだ。甘味もすこしはほしい。小豆と砂糖があれば、汁粉でも作って、みんなを喜ばしてやれるのに」

 とふうっと溜息を吐く。

「お汁粉を食べたいなあ。海軍へ入ってからというもの、ろくなものを食べさせてもらってねえよ」

「うるさい」

「大工をしていた時のほうがもっとましなもんを喰ってましたよ」

「戦争が始まったんだ。贅沢をいってられる場合じゃないだろ。平時であれば栄養基準にそった補給を受けられるが、今はそうもいかない。内地にでもいないかぎり、どの艦も事情は似たりよったりだ」

「うまいものをたんと喰えば、気分が盛り上がってうんと戦さをできますぜ。腹が減っては戦さができぬ」

「まあな。人間はなにかと不平不満をためこむ厄介な生き物だ。戦争だから我慢しろと兵を叱って済む問題でもない。つまらない苦情が出ないように日常の瑣事をちゃんと処理してはじめて戦さができるわけだし、そんな些末事をうまく切り盛りするために俺たちがいるわけだがな。艦長か先任にお願いして、パラオ司令部のほうでもうすこしなにか分けてもらえないかかけあってもらうことにしようか」

「さすが棟梁、物わかりがいいや」

「ふざけてんじゃねえ。お前はそっちの袋を点検しろ。数を間違えるなよ」

「がってんだ」

「やれやれ」

 一等兵曹はやりきれない表情をして首を振り、点検の続きにとりかかった。


 友田大尉はパラオ司令部へ赴き輸送船護送の打ち合わせを行なった。ガダルカナル島への輸送物資と兵員を積んだ輸送船四隻がパラオに集合している。『五月雨』は単艦でこれを護衛し、とりあえずラバウルとガダルカナルの中間にあるショートランドまで送る。ショートランドから引き続きガダルカナルまで護送するかどうかは、当地での指示を待てとのことだ。

 会議を終えた後、原田は主計課へ寄り、野菜、小豆、砂糖などをわけてもらえないかと交渉した。生憎、葉っぱものの野菜は在庫が切れているが、小豆と砂糖、それにサトウキビなら余分があるということで、主計官は「今回だけですよ」と念を押しながらも融通を利かせてくれた。これで甘味に飢えた水兵たちをすこしは満足させられるだろうとすこしばかりほっとした原田は、建物の屋上へ出て海を眺めた。

 パラオの海は戦争をしているとはとても思えない穏やかさだ。澄んだ海のどこにも、殺し合いの面影を見つけることはできない。空は虹のようにすこしずつ色を変え、水平線のあたりが赤く滲んでいた。

「ここでなら、戦さやそれにまつわる諸々のわずらわしいことも忘れ、きれいに笑って、きれいに暮らしてゆけそうな、そんな気がする。家族を呼び寄せ、この島で漁夫の暮らしでもしてみようか」

 友田はひとりごち、ばかげた空想をした自分を嗤った。

「幼い頃、次兄にはよく遊んでもらった。そろそろ秋祭りの時期だな。夜店へ出かけては、金魚すくいをしたり綿菓子を食べたものだった。兄貴は幸せに死んだのだろうか? 『幸せだからこそ愛する人を守るために死ねるのだ』とどこかで読んだことがある。観念的に過ぎる言葉かもしれないが、嘘だとも言い切れない。兄貴は義姉ねえさんや家族のために満足しているのだろうか。定二郎兄の魂は今頃どこにいるのだろう」

 友田は夕映えが速足に忍びこむ港をぼんやり眺め、昔のことをあれこれと思い出しながら死んだ次兄を偲んだ。ふと顔をあげると痛いほどに輝く夕陽が目に飛び込む。

「兄貴は夕焼けになったんだ。

 人生は夢だ。儚い一炊の夢だ。兄貴は夢から覚め、夕焼けになった兄は目覚めた時の爽やかな心持ちで、この世を眺めているのだろう」

 友田は搾りたての果汁ような夕映えを眺め、それが海の向こうへ消えるまで見送った。


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