ソロモンに放つ――第二夜戦
『五月雨』は午後三時になってショートランドへ帰投した。あれだけの混戦にもかかわらず、奇蹟的に一人の死傷者も出さなかった。
戦艦『比叡』は、結局助からなかった。他の駆逐艦が駆けつけ、空母『隼鷹』の零戦も上空へ飛んで護衛に当たったが、舵が修理できずに同じ場所をぐるぐると回り続ける『比叡』へ米陸上爆撃機が攻撃をしかけ、さらに米空母『エンタープライズ』の雷撃機が放った魚雷が命中、『比叡』は航行不能状態へ陥った。身動きの取れなくなった『比叡』はもはやこれまでと注水弁を開けて自沈した。
日本海軍は戦艦『比叡』のほか、駆逐艦『暁』、『夕立』を喪失した。一方、アメリカ海軍は重巡二隻が大破し、軽巡二隻が沈没、駆逐艦四隻が沈没した。日本艦隊はアメリカ艦隊を撃破して追い払ったものの、それが精一杯でガダルカナル島飛行場砲撃という主目的を達成できなかった。ガダルカナル島飛行場砲撃失敗を受け、第三十八師団を乗せた輸送船団は兵員と物資の揚陸を断念してショートランドへ引き返した。
だが、帝国海軍はガダルカナル島奪回を諦めたわけではなかった。翌日の夜には重巡『鈴谷』『摩耶』がガダルカナル島飛行場を砲撃。さらに、引き返してきた戦艦『霧島』を再度ガダルカナル島へ送り込み『鈴谷』『摩耶』に続く二夜連続の飛行場砲撃を実施して敵飛行場を確実に破壊し、それに合わせて第三十八師団をガダルカナル島揚陸させようと企図した。力押しでなんとしてでも第三十八師団と物資を届けようというわけである。
『五月雨』がショートランドへ帰投すると、すぐさま艦隊の再編成が行われた。戦艦『霧島』、重巡『高雄』『愛宕』、軽巡『長良』、駆逐艦『照月』、『雷』、『五月雨』が挺身隊となってガダルカナル島飛行場を砲撃し、軽巡『川内』以下駆逐艦八隻が別働隊として敵艦隊の掃討に当たる。挺身隊と掃討隊を合わせて十七隻の大部隊となった。
ショートランドで夜通しの応急処置を行ない、燃料と弾薬の補給を受けた『五月雨』は出航準備を整えた。太陽が傾き始め、熱帯の陽射しが淡くなる。急がなければならなかった。
補給を終えた艦は沖合へ出る。
先にショートランド泊地を離れようとした駆逐艦『綾波』から、『五月雨』へ向けて発光信号が送られてきた。それは『綾波』に乗り組んだある一等水兵が、『五月雨』に乗り組んでいる弟を出してくれと懇願するものだった。この機会を逃せば、兄弟で話をすることはもうできないから頼むと。二分ほどして『五月雨』に乗り組んだ弟が返事の発光信号を打ち始めた。『五月雨』の乗員が彼の弟を呼び出し、信号を打たせたのだった。
兄は語り始めた。昨夜夢を見た。海の底でもがきながら死ぬ夢だ。さきほど『綾波』から大量の鼠が逃げ出すのを見た。鼠たちは『綾波』の運命を察知して脱出したものとみえる。『綾波』の命も、私の命も今夜限りと見える。御国のために死ねるのであれば悔いはない。ただ、気掛かりは郷里で暮らす父と母のことだ。お前は生き延びて、なんとしても生き残りふるさとへ帰還してくれ。そうして、年老いた父と母に、私ができなかった親孝行をしてあげてほしい。
弟は返事を打つ。兄よ、そんな悲しいことはどうか言わないで欲しい。ただの夢に過ぎないのだから気にしないで欲しい。僕だって自分が死ぬ夢は今まで何度となく見てきた。しかし、こうして元気に戦いを続けている。僕が死んだところでどうということはないが、兄が死んでしまったのでは一家が立ち行かなくなる。両親は兄を頼りにしているのだ。
速度を上げた『綾波』は泊地から遠ざかる。『綾波』の発光信号は、「父母ヲ頼ム」と繰り返し打ち続け、やがて見えなくなってしまった。『五月雨』の弟は「兄サン生キテクレ」と最後の発光信号を送り、沈黙した。
「地獄の入口へ逆戻りっと」
「もうこうなったら、絶対に負けられねえよ」
「勝つまであそこへ行かなきゃいけないんだろ。いい加減にけりをつけようぜ」
「酸素魚雷でぎゃふんていわせてやれ」
「アメリカは出てくるのかなあ」
「絶対に現れるよ。あいつらは執念深いもん」
「それはお互い様さ」
「とにかく一隻でも多くやっつけるんだ」
「その間に、輸送船団が陸兵を上陸させる」
「次の総攻撃は必ず勝つよ」
「ここまでしてるんだもんなあ」
「女神さま、御加護を」
「潜望鏡発見」
「敵潜水艦だ」
「爆雷戦用意」
「それ、突っ込め」
「爆雷を落として退治するんだ」
「潜水艦なんかにやられてたまるか」
「もっと爆雷を」
「油が浮いてきた」
「やったぜ」
「潜水艦撃沈!」
『五月雨』は、軽巡『長良』の後に続いた。他に駆逐艦『照月』、『雷』が『長良』に従う。アメリカの偵察機に見つかったが、幸いにも空襲はなかった。
あざやかな色をした熱帯の夕焼けが水平線の向こうへ沈む。イルカの群れが跳ねては踊る。『五月雨』は脇目も振らずにただひたすらガダルカナル島へ急いだ。途中、戦艦を直衛していた『五月雨』は、『長良』『雷』と共に本隊から分離して、本隊の前面へ出て警戒に当たった。
夜がきた。南半球の星座が煌めく。艶めかしい容姿の白い七日月が空に懸かる。挺身艦隊は順調に航行を続ける。味方の水上偵察機から敵艦隊発見の報告が入り、乗員は戦闘配置についた。スコールがあたり一面を覆う。先を行く『長良』の姿がかき消えた。
「艦長」
友田大尉は山原艦長へ声をかけた。
「うむ。嫌な雨だな」
山原艦長は腕を組む。
「特距離(至近距離)での射撃指示待機を命じます」
「そうしてくれ。スコールから抜け出たら、一昨日のように敵と出会い頭で相対峙するということもありうるからな」
「艦長、三水戦より敵艦見ゆの打電です」
通信兵が声を上げる。別働隊となった軽巡『川内』が率いる第三水雷戦隊はガダルカナル島付近にあるサボ島の東側を迂回して突入する針路を取っていた。
「敵戦力は?」
友田は通信兵に訊いた。
「大型巡洋艦一、駆逐艦二、です」
「我々ももうすぐ接触しますね」
「うむ」
「三水戦、敵艦隊と交戦を始めました」
通信兵がまた声を上げる。
「敵巡洋艦二、駆逐艦三。いえ違います。敵戦艦二、駆逐艦四。戦艦がいます。戦艦はノースカロライナ型一隻、もう一隻は艦種識別不明、新型艦と思われます」
「いずれにせよ、どちらも新型戦艦だな」
「手強い相手が出てきましたね」
「強力な敵だが、理想的といえば理想的だな」
山原艦長はこともなげに言う。
「その通りですね」友田はうなずいた。「我々は夜戦で敵戦艦を沈めるために訓練を重ねてきました。今日はその成果を披露するいい機会です」
「得意の夜戦だ。やれないはずがない」
「はい」
『五月雨』はスコールから抜け出した。前方に炎を上げる駆逐艦の姿が見える。砲弾を放つ閃光が煌めく。月と星々は薄明るく海上を照らしていた。
「ワレ航行不能――『綾波』から発光信号です。炎上中の駆逐艦は『綾波』です」
見張り員が叫び、
「『長良』より打電。全軍突撃ス、我ニ続ケ」
と電信員が叫んだ。
「敵はどこだ?」
「右前方に戦艦一、駆逐艦二」
「そいつらだな。面舵、最大戦速」
『五月雨』は大破炎上した『綾波』の横をすり抜ける。『綾波』は完全に停止していた。煙突と魚雷発射管付近に火災が発生している。喫水線下に被害はないようで、艦は傾いていない。おそらく機関に直撃弾を受け、推進力を失ったものとみえる。
「『綾波』には申し訳ないが、先に敵を片づけるとしよう」
山原艦長は言った。
「『長良』が砲撃を開始しました」
「それでは我々もそろそろ撃つか」
「主砲、撃ち方始め。目標、敵駆逐艦」
『五月雨』は降ってくる敵弾を右へ左へと避けながら、敵へ向けて砲撃を始めた。
「魚雷ちゃん、やっと出番がきたでやんす」
「調整はできたか」
「ばっちりでやんす。深度三メートル、雷速五〇ノットでやんす」
「衝撃尖を過敏に設定するなよ」
「でもでも、不発になっては困るでやんすよ」
「不発になるくらいでちょうどいいんだよ。スラバヤの時は過敏にしすぎて波頭で自爆しちまいやがった」
「あれは遠くから撃ちすぎたから当たらなかっただけのことでやんすよ」
「違う。俺は酸素魚雷が波にぶつかって自爆するのを七倍双眼鏡でしっかり見たんだ」
「わかりやした。すこし鈍くするでやんすよ」
「液漏れはないか?」
「ありません」
「よし、起動弁を開け」
「起動弁開きました」
「後は発射命令を待つだけだな」
「それにしてもむずかしいもんでやんすね」
「なにがだよ」
「魚雷を撃つのがでやんす。戦争が始まれば、何度も何度も魚雷をばんばん撃つもんだと思ってたでやんすが」
「そうだなあ。この前、敵に向けて発射したのは、スラバヤ沖海戦の時だったもんな」
「あれは二月でやんした」
「もう九か月も経ったのか」
「毎日、手入ればかりして、敵の飛行機が来たら、爆弾を当てられやしないかとひやひやして、まるで役立たずでやんした」
「おとといだって結局、撃つ機会がなかったしな。『夕立』へ処分魚雷を放っただけだ」
「今晩こそ、酸素魚雷の真価を見せつけてやりたいでやんす」
「発射命令だ」
「待ってました」
「右前方の敵に向けて撃てだとさ。どこだ?」
「あそこでやんすかね。でかそうな艦でやんす。きっと戦艦でやんす」
「たぶんあれなんだろうな。射角三〇」
「発射管回転、射角三〇」
「撃ッ」
「テッ。魚雷ちゃん、当たるでやんす」
「魚雷発射しました。八本です」
友田は双眼鏡を覗きながら、魚雷の行く先を追った。もとより酸素魚雷を発射したので航跡は見えない。魚雷を撃った方向に浮かぶ敵艦の黒い影をただじっと見つめた。魚雷が敵に到達するまで四分かかる。友田は敵艦が向きを変えて遠ざからないことを願った。
敵艦に火柱が上がる。弾薬庫を射抜いたようだ。敵艦は真っ二つに折れ、瞬く間に沈んだ。
「敵艦轟沈です。沈めました」
「うむ」
山原艦長は頷いた。
「長良に打電せよ。我、大型巡洋艦一隻撃沈」
友田は電信員へ下命する。電信員は興奮した声で命令を復唱し、電信を打ち始めた。
大きな水柱が『五月雨』をつつむ。艦は揺れ、真ん前に立った水柱のなかを突っ切る。
「取舵に当て」
友田は叫んだ。
突然、右前方に一本の光芒が輝く。探照灯が敵の戦艦を照射していた。敵の新型戦艦は美しいシルエットをしている。がっしりとした三連装主砲がわずかに上を向いていた。
「『霧島』が敵戦艦へ突撃します」
友田はそう言いながら、心のなかで『霧島』の主砲発令所で指揮を執る島木の健闘を祈った。
「敵からつかず離れずの位置で追いかけろ。魚雷の次発装填が済み次第、再度突撃をかける」
山原艦長は言った。
「魚雷の装填はどれくらいかかる」
友田は水雷長に確認した。
「後十五分ほどです」
「遅いな。それでは間に合わん。敵を逃してしまう。十分で完了させろ」
「はい」
重巡『愛宕』、『高雄』、戦艦『霧島』が単縦陣に並び、敵戦艦へ砲撃を浴びせかける。『霧島』は対地攻撃用の三式弾を装填しているようだ。米戦艦に命中した砲弾が花火のように激しく弾ける。敵戦艦は煙幕を張りながらゆっくりと遠ざかろうとする。
「魚雷はまだか」
友田は再び訊いた。
「まだです。第二空気(酸素)の装気中です。もう少し時間をください」
水雷長は答える。
「ともかく、敵に接近しよう。走りながら魚雷の発射準備を済ませろ」
山原艦長は厳かに言う。『五月雨』は最大戦速で敵戦艦を追いかけ始めた。
「『霧島』がやられています」
見張員が叫んだ。
『霧島』の第三砲塔付近で敵の砲弾が爆発する。砲弾は探照灯を照射した戦艦とは別の方角からきているようだ。
「敵戦艦がもう一隻います。方位一三〇、距離八〇〇〇、敵速二十六。新型戦艦と思われます」
「よし、そいつを狙う」
山原艦長は面舵を命じた。
『五月雨』は敵の砲弾を避けながら新たに出現した敵戦艦へ突撃をかける。『五月雨』は主砲の連続射撃を始めた。硝煙の匂いが『五月雨』の艦橋に流れる。『五月雨』は敵との距離をぐんぐん縮めた。
「今日はついてるでやんす。魚雷が二回も撃てるだなんて」
「さっきはやったなあ」
「めちゃくちゃうれしいでやんす。海軍へ入って初めて手柄を立てたでやんす。がんばってきた甲斐がありました」
「よし、発射管を回転させろ」
「はい」
「あいつだな。派手に撃ってやがるぜ」
「この魚雷ちゃんが当たるまでの命でやんす。主砲はせいぜい口径四〇センチ。こっちは口径六十一センチでやんす。魚雷のほうが威力がでかいでやんす」
「発射命令がきた。射角二十五、距離五〇〇〇。撃ッ」
「射角二十五、距離五〇〇〇。よし、テッ」
「当たれ、当たれ、当たりやがれ」
「あれれ、敵が向きを変えるでやんす」
「なんてこったい」
「そろそろ魚雷が敵艦付近へ到着する頃でやんす」
「なにも起こらねえ」
「外れたでやんすか」
「そうみたいだな」
「ああ、もったいないでやんす。せっかく調整したのに」
「無念」
酸素魚雷を放った『五月雨』は回頭して敵戦艦から遠ざかり、『綾波』を見かけたあたりまで引き返して救助を行った。『綾波』の姿はすでになく、あたりには艦船の残骸と取り残された乗組員たちが漂っていた。
「兄さん」
出航前に『綾波』に乗り組んだ兄へ発光信号を打った若い乗組員は、甲板を走りながら兄の姿を探した。『五月雨』の甲板には拾い上げた『綾波』の乗組員たちがぐったりとした姿で休んでいる。衛生兵が一人ひとりの状態を確かめ、重傷者を担架に乗せて運び出す。舷側では『五月雨』の乗組員が垂らしたロープを引き上げ、『綾波』の乗組員を懸命に救い出していた。
「兄を見ませんでしたか」
若者は誰か兄の消息を知らないかと尋ねてまわる。
「あんたが柳田さんの弟さんか」
十何人と当たったところで、ようやく兄を知っている人がいた。
「はい」
「お兄さんは戦死したよ。お兄さんは敵の駆逐艦を目がけて機銃を撃っておった。弾がなくなりそうだというので、私が弾薬庫まで走って弾を取りに行った。弾を抱えて戻ってきたら、敵の砲弾を受けて機銃員は全滅していた。血の海だったよ。お兄さんは敵艦に命中弾を何十発と撃ち込んだ。あざやかな手並みだった。お兄さんは勇敢に戦ったよ」
兄の最期の様子を聞いた若者は茫然となり、膝を折って甲板へへたりこんだ。
『霧島』を護衛せよとの指令を受けた『五月雨』は、『綾波』乗組員の救助を僚艦に任せて『霧島』の傍へ急行した。大破した『霧島』すでに総員退去の命令が下りたらしく、駆逐艦『朝雲』が『霧島』に横づけて乗員の移乗を開始していた。『霧島』の艦尾付近には駆逐艦『照月』が接舷しようとしていた。
「艦長、接舷しますか」
友田は訊いた。
「さて、どうしたものかな。『霧島』は左に傾いているな」
「傾斜は十度ほどですね」
「ということは、右側へ回っても移乗させるのはむずかしいな」
「左側には『朝雲』がいます」
「艦尾には『照月』が接舷しようとしている」
「『朝雲』が離れた後、そこへ入るしかなさそうですね」
「仕方ない。すこし待つか」
『五月雨』は『霧島』の周囲を警戒しながら順番を待つことにした。七日月の光が傾いだ『霧島』を照らす。後部の三番砲塔と四番砲塔は命中弾によって破壊され、艦尾の甲板もめくれあがっていた。艦の中央部には乗組員が集まり、次からつぎへと『朝雲』へ乗り移る。
「『比叡』に続いて『霧島』も失うことになりましたね」
友田は言った。
「高くついたな」
山原艦長は言う。
「輸送船団が無事に陸軍を送り届けてくれれば、『比叡』と『霧島』をすりつぶしてでも作戦を行なった甲斐があるというものなのですが」
「相手の戦艦をこれだけ引きつけておけば、輸送船団のほうは大丈夫だろう」
「そうですね。『朝雲』が離れます」
「よし、接舷準備だ。微速前進」
「『朝雲』より『霧島』を砲撃処分せよとの命令です」
電信員が大声で言った。
「まだ人が残っているのに」
山原艦長は大きく目を見開く。
「『朝雲』へは本艦が移乗作業を行なってから砲撃をすると伝えましょうか」
「待て。『照月』も離れる。両舷停止」
突然、海鳴りのような音が響く。『霧島』の艦尾が急激に持ち上がり、軋み声をあげながら沈んでいった。
「総短艇卸し方始め」
『五月雨』の両舷から短艇と内火艇が卸された。舷側からは手当たり次第に浮き輪や竹竿を投げ、網や索梯子を垂らす。黒々とした海面からは軍歌の声が響く。漂流者たちが元気づけに歌っていた。
「今、助けるからな」
「はやく摑まれ」
「急げ」
「負傷者を先に」
「通路を開けろ」
「あそこに一塊になっているぞ」
「カッターをそこへまわすんだ」
「引き上げるぞ。しっかり摑まれ」
「みんな互いに指を喉に突っ込んで重油を吐くんだ」
「艦長を先にお上げしろ」
「放せ。わしは艦へ戻る」
「もう艦は沈みました」
「沈んだところへ行く」
「艦長、戦艦は三年あれば建造できます。新米士官が戦艦の艦長になるには三十年かかるのです」
「うるさい、黙れ。死んだ者に顔向けができんじゃないか」
「艦長、戦いはまだ続くのです」
「放せ」
「艦長を放すな」
『五月雨』の甲板は人で溢れた。それでもまだ海の上からは救いを求める声が響く。
「『朝雲』より至急北方へ退避せよとの命令です」
「まだ救助が終わっていない」
「救助を急げ」
「一人でも多く救うんだ」
重油で全身黒々とした士官が『五月雨』の艦橋へ入ってきた。
「島木、無事だったか」
原田大尉は喜びの声を上げる。
「面目ない。敵の戦艦を仕留めそこなったよ」
島木は額の重油を拭う。
「それは『五月雨』も同じだよ。生きていてよかった」
「まあな。生きているかぎり、戦い続けられるからな」
島木と友田は肩を抱き合う。
「『朝雲』の艦尾信号が灯りました」
「我々もそろそろ引き揚げるとしようか」
「短艇の収容が完了しました」
「取舵一杯、両舷全速。ショートランドへ帰るぞ」
『五月雨』も艦尾信号を点灯させ、漂流者の救助の終わった海面を去った。
「海神が歌っている」
「いい声だなあ」
「心が透きとおる」
「俺たち、生き残ったんだよな」
「激しい戦いだったぜ」
「もうソロモン海はいいわ。二度と来たくない」
「今は女神さまの歌を聞こうよ」
「月が綺麗だ」
「飛魚が飛び跳ねる」
「月の光、銀の鱗。女の甘い歌声」
「あと何回、海神の歌を聞けるのかな」
「生き続けるんだよ。そうすれば何度でも聞ける」
「そうだな」
「生きようよ」
(了)
ありがとうございました。