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ヌデニ島突入

 昭和十七年九月十九日 二二四〇(フタフタヨンマル)


海神わだつみが歌っているぜ」

「美しい声だ」

「癒されるなあ」

「女神さま!」

「嫌なことを忘れるね」

「お気楽なもんだ。こっちはこれから戦さだっていうのによ」

「今宵は星々が輝いて見える」

「やや、飛魚が跳ねているぞ」

「手裏剣みたいにびゅんびゅん飛んでいやがらあ」

「南十字星も魚も海神の歌声に舞う夜ってか」

「夜が沁みる、闇が浸みる、星明りが滲みる。俺も踊ってみてえ」

「月に雲がかかる」

「ちょうどいいじゃねえか。彼女の体を隠してくれる」

「彼女って誰だよ」

「俺たちの彼女は『五月雨』さんに決まってるだろ」

「そうさ、ほかに誰がいるっていうんだ」

「駆逐艦が彼女じゃねえ。なんだか」

「俺たちの命は『五月雨』に預けたのさ」

「彼女なら俺たちを生きて還してくれる」

「駆逐艦は消耗品じゃないの? 魚雷一発で沈んじゃうよ」

「うるさいっ」

「そんな弱気でどうすんだよ」

「『五月雨』といっしょに死ねるなら本望だね」

「島が見えた」

「あれがヌデニ島か」

「ちっぽけな島だなあ」

「おい、海神はまだ歌ってるか?」

「歌ってるもなにもご機嫌よ」

「そんなら大丈夫だ」

「俺たちは生き延びる」


 駆逐艦『五月雨』は、僚艦の駆逐艦『村雨』とともに南太平洋サンタクルーズ諸島ヌデニ島へ突入を図った。深夜、ヌデニ島の湾へ入り込み、米軍の飛行艇基地を襲撃して基地と飛行艇を破壊するのが目的である。折しも、ガダルカナル島をめぐるソロモン諸島の闘いは激しさを増していた。この作戦はソロモン諸島での戦局をすこしでも有利に進めるために企図したものである。

 昭和十七年八月七日、日本軍がガダルカナル島にて建設を進めていた飛行場がほぼ完成し、現地設営隊が航空隊の進出を求める電報を打った直後、米軍がガダルカナル島とその対岸にあるツラギ島へ大挙して上陸した。日本軍にとってはまったくの奇襲であり、建設中の飛行場は簡単に占領されてしまった。ツラギ守備隊は全滅し、取り残された形となったガダルカナル島守備隊はいったん島の片隅へ後退し、飛行場奪回へ向けて再起を図ることとなった。

 米軍上陸の緊急電を受けて第八艦隊が出撃した第一次ソロモン海戦、陸軍一木支隊によるイル川渡河作戦、機動部隊同士の対決となった第二次ソロモン海戦、川口支隊が主体となった第一次総攻撃と日本軍はガダルカナル島奪還を目指して攻勢に出たが、未だガダルカナル島を取り戻すことができずにいた。

 ヌデニ島飛行艇基地襲撃は、ガダルカナル奪回作戦全体から見れば小さな作戦だが、それでもおろそかにはできない任務だった。米軍は、パプアニューギニア島ポートモレスビー、ガダルカナル島、ニューカレドニア諸島各地に飛行場を建設し、いわば蜘蛛の巣を張り巡らして迎撃態勢を敷いている。日本はこれに穴を開け、突破しなくてはならない。『五月雨』に課されたのは、飛行艇基地を破壊し敵の索敵能力を少しでも削ぐことであり、米軍の蜘蛛の巣に小さな穴を穿つことだった。


 駆逐艦『五月雨』は原速(十二ノット)へ速度を落とす。

 先任将校の友田大尉は目の前に広がった黒い島影を見つめた。左右に突き出た岬の間に湾口が広がる。双眼鏡を手に取り湾の周囲を注意深く観察した。敵影も灯火も見えない。

「これより湾へ突入する。見張りを厳とせよ」

 息を殺しながらじっと周囲の様子を窺っていた山原艦長は低く厳かな声で命令を下した。友田がそれを復唱し、艦橋伝令が全艦へ向けて艦内電話で命令を告げる。『五月雨』の先を行く『村雨』がわずかに取り舵と取って湾の中へ進み、『五月雨』もそれに従う。両側に黒い山影が連なり奥へと続く。月の光を浴びた群青の海面は白刃をぎらつかせた波を重ねる。

 今度の作戦は決死行だ。万が一、浅瀬へ突っ込んで座礁した場合に備えて陸戦隊を編成し、暗号乱数表などが入った機密書類もすぐに処分できるように袋へ詰めてまとめておいた。艦が大破したり座礁したりすれば、全滅を覚悟で艦を捨てて敵の基地へ斬り込みをかけ、占拠しにかからなければならない。友田は双眼鏡をぎゅっと握りしめた。頬から汗が一筋流れる。時刻は二三〇六。


「敵はいるか?」

「なにも見当たりません」

「魚雷艇がいるかもしれないから注意しろ。先日ヌデニ島を偵察した潜水艦の報告によれば、飛行艇のほかに駆逐艦、敷設艦、掃海艇が入っているとのことだ」

「とっさの回避は『村雨』と逆方向へ。味方同士で衝突しては洒落にならん」

「落ち着け。平常心だ」

「そう、いつも通りやればいいんだ」

「戦さはあがってミスしたほうが負けなのよ」

「あの光は?」

「なんでもありません。波が光っただけです」

「戦闘」

 艦長は命を下した。戦場の潮風で鍛えた瞳に深い光が宿る。眉間に深い皺が刻まれた。

「戦闘、一番連管魚雷、起動弁開け」

 友田は艦長の命令を復唱し、そして、いつでも魚雷を撃てるように発射態勢準備の命令を付け加えた。

「右砲雷戦、微速力」

「八ノットへ落とせ」

「主砲右旋回」

「一番連管魚雷も右旋回だ」

「敵に一発お見舞いしてやる」

「照準は落ち着いてっと」

「うわっ、まぶしい」

「『村雨』が探照灯を照射したぞ」

「ばか、お前が眼をつむってどうするんだ。敵を探せ」

「敵はどこだ」

「出てきやがれ。仕留めてやる」

 探照灯サーチライトの白い光芒は左舷へ移った。海面と渚あたりをなめるようにまさぐる。

「左砲雷戦」

 友田大尉の声が響く。

「主砲左旋回」

「一番連管魚雷左旋回」

「それそれ早く回すんだ」

「よっしゃあ」

「あれは?」

「ただの民家だろ」

「椰子の葉で屋根を葺いた現地人の家だな」

「焦るな」

「沈んだ飛行艇だ」

「PBYカタリナか」

「尾翼が千切れかけている」

「放棄したんだな」

「浮標が音もなく流れる」

「捨てていったんだ」

「なにもないよ」

「なんだ、もぬけの殻じゃん」

「飛行艇も魚雷艇もいない」

「がっかり」

「命拾いした」

「空振りだったのね」

「敵は我々の動きを察知していたのかもしれんな」

 山原艦長は灰色の鉄兜を手で直した。

「どうやらそのようですね」

 友田は暗い岸辺を睨みながら言った。

「我々がここへくる前にすべて移してしまったものと見える。一足遅かった」

「飛行艇基地は補給と整備を担当する母艦さえあればどこへでもすぐに移動できますから」

『五月雨』もサーチライトを点け海辺を右へ左へと照らす。しかし、やはりなにも見えない。

『村雨』が煙突から黒煙を吐きながら回頭する。月の光は『村雨』の煙をおぼろに射す。『五月雨』も『村雨』に合わせて反転した。十二ノットへ、やがて十八ノットへ速度を上げた。湾を出ようとする頃、左の岬から赤色信号火箭が揚がり、続いて右の岬から白色吊光投弾が落ちた。

「米軍の見張り所の信号だ」

「きれいだなあ」

「花火みたい」

「敵の陸戦隊が待ち伏せていたら厄介だ」

「敵の奇襲を警戒せよ」

「見張りを厳とせよ」

「おっかねえ」

「大丈夫。なにも出てこないよ」

「襲うなら、とっくに出てきているさ」

「日本駆逐艦が出て行ってくれてやれやれといったところだろうね」

「油断するな。港へ帰り着くまでが戦闘だ」

「ヌデニ島が遠ざかる」

「さよなら、ヌデニ島」

「地獄からの脱出だな」

「なにもなかったじゃん」

「深夜の舟遊びを楽しんだだけよ」

「腹減ったあ」

「なんにもしなかったのにどうしてお腹が空くんだ」

「減るものは減っちゃうのよ」

「砲戦、魚雷戦用意要具収め」

 友田大尉は命令を出した。

「敵に一泡吹かせたかったが残念だったな」

 山原艦長は鉄兜を脱ぐ。短く刈り込んだ髪は汗でべっとりと頭に張り付いていた。山原艦長の顔には安堵の表情が浮かんでいる。彼は柔道の達人のような風格を備えた艦長だった。兵の気持ちを摑むのが巧く、統率力に秀でていた。この人ならと兵がついていくタイプだ。

「はい、油を無駄遣いしただけでした」

 友田大尉はかしこまりながら答えた。彼は長躯にすらりとした体つきだった。いかにも智慧がつまっていそうな知的な額をしており、瞳の奥はいつも謀をめぐらすように蠢き続ける。

「いい訓練にはなったがね」

「艦を失わずにすみました」

「実は、私もほっとしている。駆逐艦といえどもふねふね。乗組員の命を預かっている」

「おっしゃるとおりです」

「獲物は逃したが、これで乗組員はまた度胸がついただろう」

「いい肝試しでした」

「そう思うことにしておこう。先任、艦橋を頼む」

 山原艦長は友田大尉の肩を叩く。

「はい、後はお任せください」

 友田は敬礼した。艦長は階段を下りていった。

 作戦が終わった後の夜の南洋は美しい姿へ戻った。星々は悲しみに満ちた現世をくまなく照らす。『五月雨』は滑るように走る。

「私はまた生き延びた」

 友田は米潜水艦が潜んでいるかもしれない海を眺めながらつぶやいた。

「軍人であるからには、いつでも死ぬ覚悟はできている。とはいえ、生きたいという本能もやはり私のなかには厳然と存在する。私の心のなかでは死へ飛び込むのだという想いと生き抜きたいという想いがたえず衝突する。そのどちらもがほんとうの気持ちだから、ふたつをまとめるのはむつかしい」

『五月雨』の舳先へさきが夜の海を切り裂く。その音だけが繰り返し響いた。


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