冬悟の変化
◆scene No.19◆
莉沙は嬉しかった。
それは、普通なら、何でもない当たり前の事。
夜、帰宅した夫が莉沙の作ったご飯を食べて、そして『ごちそうさま』と『美味しかったよ』の言葉。
いつも………食べられなかった料理を冷蔵庫に入れて、次の日の昼に食べると、莉沙自身を否定されている気がしていた。
存在を、維持できない気がしていた。
莉沙が、欲していたもの。
それは、本当に何でもない事。
それが、すごく大きくて、大きくて、染み渡るようにじんわりと……ほんの少しだけど満たされた。
大袈裟だけれど……本当にそんな気分がしたのだ。
(こんな………単純な事で……良かったんだ………)
冬悟が食べたのが久しぶりだったわけではない。『ごちそうさま』も『美味しかったよ』もお決まりじゃなくて、莉沙を気遣い発したのが分かったからだ。
冬悟にどんな心境の変化があったかは、莉沙には分からない。
もしもでも、この後に……、別れを切り出されたら。
何と答えれば良いのだろうか?
冬悟がそう決意をしたのなら……志歩と約束をした莉沙は、大人しく身を引くことが出来るだろうか?
そして……莉沙には……罪がある。
志歩とそれから冬悟に。
この苦しさは……ずっと、消えないに違いなく。
だからこそ覚悟を決めなくてはいけないのは……、今のこの莉沙の心ではあまりに苦痛を伴う事だった。
「あ……土曜日、参観なのか」
冬悟がかけてあったカレンダーを見ながらそう言った。
「そうなの」
「俺もいく」
冬悟の発言に、莉沙は驚きが隠せなかった。
自分から……子供の行事に気がついて、行くって言うなんて………。
「仕事でしょ?」
「参観行ってから、行くことにするよ」
一体どういう風の吹き回しなのか、驚かされる事ばかりだ。
「え………そう。洸成も悠成も………喜ぶね」
莉沙は自然と微笑んでいた。
冬悟をみて。微笑んでいた。
二人の間には、表面上は何も起こってもいなかった。なのに、明らかに違う風が吹き出した気がして……。
本来なら、凪の海に荒々しい波風が立つ所だったのに、まるで船を進める海風のように……いい風だと錯覚しそうな……。
「ありがとう、私も嬉しい……」
その言葉に、冬悟はこれが正解なのだとそう思った。
莉沙のその笑顔は、冬悟を向けられていて暖かく包み込む。
若い頃の、気持ちとは違う、新たな穏やかな気持ちが芽生えていた。
(俺たちは……やり直す事が……出来るはずだ)
莉沙が、冬悟の不倫を知っていたかどうか、それを聞くの藪蛇でだから冬悟はこれから態度で示して行くしかない。
莉沙もまた、自らが罪を犯したことを自覚していて、冬悟が家庭に少しでも目を向けてくれた事が、ただひたすらに嬉しくて。
だから、心からの笑みを冬悟へと向けた。
「忙しいのに、ありがとう」
「いつも……任せてばかりだったから。たまには俺も、父親らしくしないとな」
冬悟も笑って、それにまた莉沙も笑った。
だけど……この、優しさが……、莉沙には怖くもある。
まるで、最後に家族としての時間を過ごそうとしているかのようにも思えて。
(この、冬悟の変化が……何か決意を秘めてるようで……怖い)
嬉しいのに、怖いなんて……。
あれから雪からの、連絡が絶えていて、二人の事がわからなくなっていたから……。
もしも、志歩が冬悟に全てを打ち明けて、それで冬悟が別れを決意していての、この変化なのだとしたら。
その考えがまた、莉沙の心を騒がせていたから……。