莉沙のため息
◆scene No.6◆
夜8時半。
「ただいま」
玄関の扉が開いて夫の冬悟が帰って来た。
いつもよりも早い冬悟の帰宅に、心の準備の出来ていなかった莉沙の緊張は高まり、肩の力が入って、思わずビクンとしてしまう。
「おかえりなさい」
莉沙はちょうどキッチンで、明日のお弁当と朝食の下拵えをしていたから、玄関へ向かおうとした時には、冬悟はすでにリビングに入ってきていた。
「ん」
ソファにバサリとスーツのジャケットを置いた冬悟は、続いてネクタイを緩めてその上に置く。
「ご飯は?」
こう、莉沙が聞かなくてはいけないのには理由がある。それは、
「あ、軽く食ってきたから、いいや」
「そう、わかった」
そう、食事の有無はその時にならないとわからない。冬悟はいつも、そうだ。
(いっそ用意するのを止めようかな………)
そんな事を毎日思いながら、明日自分が食べればいいか、といつも冬悟の分も用意してしまう。
それから………。
近頃心に影を差す事、それは………。
(ねぇ、『ただいま』って誰に言ったの?家?それともTVに?私が見るのは………いつも背中と横顔)
「あ、今週土曜は接待だから」
軽く冬悟が仕事だと告げたその日は。
「……今週土曜は……卒園式よ?」
次男の悠成はその日で幼稚園を卒園する日で、莉沙はその事をカレンダーに書いてあった。それは家族の目に触れる場所にあって……。見えないなんてはずはない。
「あ~ごめん。頼むね」
(やっぱり気にもかけてなかったの?)
洸成の行事の時は初めてだからか参加してくれる事も多かったのに、悠成、湖都となると冬悟の仕事優先の度合いは増していっていた。
莉沙だとて、この家が冬悟の稼ぎで成り立ってる事はわかってる。でも、それは……。
「わかった、仕事なら仕方ないね」
(ねぇ、冬悟。今私がどんな顔をしてるか、知ってる?)
――わかった………。
――何がわかったのか、わかってる?
(やっぱり来れないんだねって事がわかったって言ってるの)
そして、鞄を置きにリビング横の部屋へ行くと、
「うわ、散らかってる。片付けろよ、帰ってくんの嫌になる」
何気ないその言葉に、莉沙の心は色を喪う。
(子供が3人もいるのよ……?まだ遊んでる途中なの……。子供たちに遊ぶなっていうの?)
子供達がわいわい言いながら、冬悟の言うように片付けをしだす。
(どうしてそう、自分中心なの?)
「なぁ、莉沙ちょっとは片付けろよ」
やっと冬悟は莉沙の方へと顔を向けた……。
莉沙の視界に入るのは、冬悟の眉間にシワの寄った責める目をしたイライラした顔。そんな表情を見たい訳じゃなかった。
「ゴメンね」
莉沙の答えも………いつもこの言葉。
それしか言いようが無いから……。
(片付けたよ、今日も一日の間に何度も。
でも、まだ起きてる時間じゃない。また出して遊ぶんだもの。)
「ちっ………こっちは疲れて帰ってきてるんだからちゃんとやれよな」
(だったら………せめて、電話してから帰ってきてよ)
「うん、ゴメン」
(外で…働いてきたら、お金を稼いできたら、それであなたのほうが偉くなるの?)
「ちゃんと出来ないならパートなんかやめろよ。俺が働けって言った訳じゃないんだし」
「わかってるけど……」
「小遣いだってやってるし、なんでそんな少ない稼ぎの為に働く訳?お金要るなら言えばいいだろ?」
「うん……。すぐには辞められないから」
「悠成だってもうすぐ小学生なんだし、もっと子供ら見てやれよ」
「わかってる。だから、帰って来た時にはちゃんと家にいるから大丈夫」
「子供ってさ、いつもお母さんが家にいると安心するもんじゃね?だから、あんなに落ち着かないんじゃないか?」
「………ごめん」
はぁっと、冬悟の大きなため息が出る。
「今日のレシートは?」
そう聞かれて、莉沙は財布からレシートを出して冬悟に渡す。
その金額分、冬悟の財布から渡される。
「これ、なに?」
「あ、化粧品」
「これは、莉沙の小遣いからだろ」
「うん」
(これが……パートしたくなる、理由だって。
どうして、わからないのかな?)
―――家にいて、誰とも話さずに。
子供達が帰るまで、一人でいるの?
毎日、誰を誘うの?
足りなかったら言えって、買いたいっていったら
『それ本当に必要?』って聞くよね?
『同じようなの持ってるよな?』って言うよね?
子供の買いたいって言っても『ほんとにいるか、考えてみたら?』
どれもこれも、間違いじゃない。でも、そう言われる度に貴方に欲しいもの、言えなくなるの。
『無駄遣い』してるつもりはない。
でもね
『私』はなんなの?
今では彼女でも、そして妻でもなく、給料をもらえる家政婦でもなく。
莉沙は、子供たちの母だけどお母さんっていう人じゃない。
冬悟の妻だけど、奧さんっていう人じゃない。
その根本は『桐生 莉沙』なのだ。
冬悟にとってはきっと、いまは家に付随してる家具以下。
だから……外に少しでも出て、桐生さんとか莉沙さんとか呼ばれて、存在を確認したい。
生きてるって。
―――それって、間違ってるってあなたは言うの?
自由に使えるお金は欲しい。
でもね、それよりも……もっと、簡単な事。
―――誰か私を、見て。
そしてここに居ると、教えて欲しいの。誰かと、他愛ない話でいいいから、言葉を交わしたい。
だから、莉沙はつい考えてしまった。
冬悟と別れたら、新しい人生が待ってるかもしれない、と。
もしも『榛葉 莉沙』になったら、と。
でも、冬悟の事は離婚理由にしにくい。
お酒も嗜む程度だし、酔って暴れることもない。
ギャンブルはしないし、
仕事だってきちんとして稼ぎだってしっかりあるし、
お金は冬悟が握っているけれど、冬悟は足りないならわたすと言っているし、パートもしぶしぶ認めている。
仕事優先だけど、まったく子育てを放置してる訳じゃない。
莉沙に暴力を振るったこともない。
端から見れば、どこにも非の打ち所が無いとも言えた。
人に、莉沙の気持ちを説明するのは難しい……。
些細な……些細な事の積み重ねが、結婚して10年を過ぎた今、莉沙の心を蝕もうとしていた。




