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苔を飼う女

作者: 横松かえで

 見頃も終わり剪定された紫陽花が、整然と石段の脇に続く。

シーズンが終わった境内への登り道は、落ち着きを取り戻し、また再び恭子の大好きな苔むした匂いに変わっていた。



 玉羊歯、雪ノ下、ツユクサ。

苔の間に生える湿気を帯びた植物達。

幼い頃は、母に手を引かれ良くこの石段を登ったものだった。

小学校に入ってからは、わざと通学路を遠回りして友達とこの石段を登った。


 湿地植物の中でもとりわけ特にマメツダが好きだった。

今でも見つけるとつい摘まんでその弾ける音が聞きたくなる。



 だいぶ登って来たので、ワンピースの喪服は若干、汗ばんでいる。

200段以上はあるだろうか。


正式には、234段。


何度も数えながら登ったので、今でもしっかり覚えている。



 山門まであと数十段。もうそろそろいいかなと振り返る。


 観光客なら、思わず小さな歓声を上げてしまう。

数百段の石段を見下ろすと、ひなびた古都の海辺が広がっているのだ。


 黒い猫の刺繍が施されたハンカチで汗をぬぐいながら、恭子は久しぶりのこの景色をかみしめた。



 今日は、母親の一周忌。

早くに父親を亡くして祖母と妹と3人で暮らしていたこの街。

 東京から真っ直ぐ続く青い電車に乗り、久々に無人となった実家に戻って来た。



 たった一人の妹は、就職後、すぐにだいぶ年上の夫と結婚し、海外赴任でカタールとやらに行ってしまい、それから15年余りずっと海外暮らし。今日の一周忌も「お姉ちゃん、よろしく」のLINEのメール1本である。

まあ、元気にやっているのだろう。



 恭子も、卒業後、海辺の古都を離れ、東京で一人暮らしの勤めをしていたので、母親が病気で倒れる前は、年に数回しか戻る事はなくなっていた。



 久しぶりの海辺の故郷。



 医者の不養生というが、小さな診療所を営んでいた女医である母は、自分が病魔におかされていることに気付かなかった。いや、むしろ、気づいていたのかもしれないが。



 とにかく、恭子達に連絡が来たときにはもう末期の癌で、高齢もあり手術も出来ない状態であった。娘2人を呼び寄せて、気丈な母は、痛みをこらえながらテキパキと生前の形見分けをして、そして、診療所を仕舞い、間もなくさっさと逝ってしまった。



 当時の恭子は、大手製薬会社に所属し、仕事も脂がのっている時期で、その頃社内恋愛で付き合っていた5つ年下の圭一との結婚話も持ち上がり、そこに母親の病気も加わって、全ての対応に右往左往していた。今思うと、記憶がすっぽり抜けている部分もある。

 結婚する幸せと母親を亡くす悲しみ。人生のイベントが一気に来たような気がしていたものだ。



あれから1年。


 勤めていた大手製薬会社では、慕っていた上司が派閥争いに破れ、退職。恭子のグループも追われるように会社を辞める事となった。大手とはいえ、同族会社。社内のドロドロした人間関係は凄惨を極め、心身共に衰弱しての退職であった。違うグループに属していた圭一は、会社に残った。



 ほどなくして、恭子は、知人のつてで、小さな出版社を営む女性社長の元で事務員を募集していると紹介され、収まった。女性社長は、多少ヒステリーの気はあるが、それを受け流せれば、前の職場のドロドロに比べれば、いくらでもマシに思えた。



平日の今日も、母親の一周忌と告げると、「あらそう。行ってらっしゃい」と気軽に送り出してくれた。最近入ったお気に入りの新人編集者の男の子と2人っきりになれるのも嬉しいのだろう。



石段を登りきって更に汗ばむ。再び汗を拭う。

一条の風が心地よい。海は若干遠くなっている。



 一人で行う一周忌。



 他に列席者も無く、別に律儀に行う必要も無いのだろうが、今の住職である幼なじみの山下が、「恭子ちゃん、ケジメだから」と声をかけてくれたのだった。




 ひと月前、恭子は、圭一と別れた。



 同じ社内の若い総合職の女の子との間に子供が出来てしまったと告げられた。一度の酔った過ちだと。泣いて土下座された。その子と結婚するという。



一瞬、なんの事か理解出来なかった。



 転職してからの恭子は、少し疲れてしまい、圭一との結婚話も延期になっていた。それでも、来年辺りには漠然と結婚するのかなあなどと呑気に構えていた。今は、とにかく疲れた心身を休め、母の供養を行いたかった。


 

 一瞬にしてなにもかも失った。

再び心身が衰弱していくのを感じた。



 呆然と過ごす毎日。


 食事ものどを通らず、生きていく為に紙のような味の固形物を口に運ぶ。なんとか夕方までの勤めを終えて家路につく。



 干渉しない女社長は、恭子の変化にも気づいてもいなかった。それは逆に有難かった。「どうしたの?失恋でもした」などと軽口を叩かれたら、本当に死んでしまったかもしれない。



 そんな折、ふと会社帰りに通りかかった花屋のウインドウに飾られた盆景が目に止まった。



 盆景とは、箱庭のようなもので、盆の上に砂や土を盛り、それに苔や植物を植えて一つの世界感を作り上げる芸術である。

 普通の花屋では一般的では無いが、青山にあるその花店は、茶花などを扱っており、ディスプレイにも盆景が配置されていた。



 恭子の目を釘付けにさせたのは、その盆景に這っているマメツダであった。



 幼い頃、慣れ親しんだ石段。

大好きだった植物達。マメツダ。



盆景の中に、幼い頃の幸せだった自分が居た。




売り物では無いという店主を説得して、その盆景を譲り受けた。



 結婚してからも住む予定だったマンションには茶室がしつらえられていた。床の間に盆景を据えた。



 盆景は、湿気を好むので毎日霧吹きで朝晩手入れをする。


幼い頃は、石段のマメツダをちぎって音をパチパチならしていたものだったが、盆景のマメツダの一つ一つが、今の恭子にとっては愛しいものとなった。


 

 毎朝毎晩、盆景と向き合ううちに、少しずつ心の痛みが和らいでいくのを感じた。



 そんな時期に、かの寺の住職の山下から一周忌の声かけが来たのだった。妹は、インドネシアにいて来られない。呼ぶような近しい親戚もいない。


 でも、ふとあの石段にマメツダはまだあるのかしら、と恭子は思った。



石段を歩いてマメツダを見つけたくなった。



山下に電話をして、一周忌の予約をした。



 住職であり、男の子3人の父親である山下の後ろでは、家族が騒々しく騒いでいる様子が聞こえた。小中学校と同級生だった山下は、地味だが、安定した気質で、順調に仏教関係の大学に行き、8年前に父親の後を次いで住職になっていた。


「恭子ちゃん、いいね。しっかりご供養して下さい。待ってるよ」


明るい電話の向こうに励まされ、一人の一周忌行を決めた。




 住職と2人のみの法要。

一周忌が無事に終わった。


 山下の妻が丹念に手入れしている整った中庭を眺めながら、2人でぽつりぽつりと同級生の思い出話をした。



「恭子ちゃん、なんかあったらいつでも帰っておいでね。僕らはずっとここにいるからね」


 恭子のやつれた様子に、何か少し感じとったらしい山下がいたわるように念を押した。


「うん、ありがとう。次は三回忌よろしくね」



自然な笑顔がこぼれ、山門を出た。



登って来た石段を一段一段ゆっくり降りる。


とある箇所で立ち止まる。


記憶に間違いは無い。目をつぶっていたって、どこに何が生えているのかは知り抜いている。


そこの部分にはマメツダが群生していたはずだ。



恭子は、マメツダをじっと愛しそうに眺め、そしてそのマメツダの一つを摘まみ取り、プチっと音を鳴らした。









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