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虹の解体

作者: 執鞠 緑

 上を見上げた。真っ黒な空の中にいくつかの瞬く星を見た。白、赤、青。視線が吸い込まれるように夢中で見入った。地面の上に立つ少年の僕はそれには届かない。今だって届かないけれど、でも少しは近づいた。一緒に暮らしている叔母さんは僕に色々なことを教えてくれた。ものすごいスピードで宇宙が広がっていること、重力が時空を曲げること。星の光の虜になった僕にそんなことを教えるなんてかわいそうだと叔父は言ったけれども、僕の夢はさらに大きく広がっていった。


 *


 ぽつぽつと雨が降っている。七月の午後。私は東校舎の五階の端っこにあてがわれた天文部の部室にいた。古く小さな天体望遠鏡、二人分の椅子と机大きな本棚。本棚には『誰でもできる天体観測』『眠れなくなるほどエキサイティングな宇宙の話』といった簡単そうな本から『直交格子法における埋め込み境界法』といった文系に進む予定の私には理解もできないような本が乱雑に詰まっている。この天文部の部員は私を含めて二人。一年女子の私と二年男子の先輩だけ。教室まで先輩を迎えに行ったのだけれどもどうやら今日はお休みらしい。

「学校来ないなら言ってくださいって言ってるのに……。あっ!」

部室の窓から校門を見下ろすとこちらに向かって手を振る先輩がいた。傘をさしていないため髪が濡れている。

「ちこくですかー!」

「違うぞー」

少し経つと白衣を着た先輩が部室に入ってきた。

「こんにちは」

どうやら息がきれているようだ。大きなバックパックを背負っている。

「そろそろこんばんはですけどね、こんな時間から登校なんていいご身分ですね」

すこし怒ったように先輩にそう言った。

「こんばんはの時間だからこそ、登校したんじゃないか」

先輩はバックパックをおろし、ぜえぜえと息を切らしながら言った。そして椅子に勢いよく座った。

「今日はこれから晴れる予報だ。雨が降った後の星は……綺麗だぞ。それに今日は新月だ」

汗と雨に濡れた顔を自信ありげにこちらに向けた。

「く、来るなら来るっていってくださいよー。教室まで迎えに行ったんですからね!」

そのまま私は顔を逸らした。

「わざわざそれは申し訳なかった」

「べ、別に謝ってもらわなくても!」

さらさら謝る気のない先輩はなにやらバックパックから取り出そうとしている。二重に包まれている布の入れ物からは全長七十センチはあるであろう白い円形の筒と三脚。

「天体望遠鏡ですか?」

先輩は筒が入っていた集めの袋を部室の床に敷き、その上にゆっくりと置いた。

「ああ、かっこいいだろ?古いが性能はピカイチだ。レンズのくすみや駆動部とボルトの錆びつきを一日かけて完璧に綺麗にしたぞ」

天体望遠鏡に映った顔を指でなぞりながらそう言った。暗い部屋の中で黙々と作業する姿が容易に脳裏に浮かんだ。学校に来て授業を受けることや青春のひと時を大切にすることなどなどこの人にはどうでも良いのだ。

「それでこんな時間に登校したんですね!」

「つい熱中してしまって…」

先輩は少し申し訳なさそうに言った。

「この望遠鏡どうしたんですか?」

この部室にはもう既に一台天体望遠鏡がある。それは日光が届かないよう部屋の隅に置かれている。先輩は雲のない日にはこれを熱心に覗いている。

「叔母さんに貰った」

「叔母さんってうちの副顧問の……?」

「そう。叔母さんがもう使わないから持ってけってさ。」

「そうなんですか……」

「でもこれじゃだめだ。使えない」

先輩は急に声のトーンを落とした。

「どうかしたんですか?」

「三脚と鏡筒を固定するための螺子が足りない。このままだと使えない。他の螺子で代用しても構わないのだが……」

「何か問題が?」

「全部まるまるセットで揃えたい」

そう当たり前のように呟いた。私が少しあきれたように黙っていると、先輩は少し考え込み私の方に顔を向けた。

「叔母さんのところに行こう」




「どうして先生のところに?」

六時は回っただろう、少し薄暗くなりかけてきた廊下を歩いていた。雨は先ほどよりも強くなり、もうすぐやみそうだ。

「おそらく螺子は叔母さんが持ってる」

「え?どうしてですか?」

「叔母さんのよくやるやり方だよ。天体望遠鏡は撒き餌だ」

先輩の叔母さんは去年から私たちの高校に勤め始めた講師で、天文部の副顧問も務めている。たまに部室に顔を出しては光のない目で外を眺め、タバコを吸っている。やめてもらいたいのだが私が入学したときにはもうこの状態だったため、新参の私はなにも言えない。

「やりそうだ……」

「弱みを握ってきた時よりはまだ良い状況だよ。今回はお互いウィンウィンだろうからね」

確かにウィンウィンだ。先輩は物理準備室と書かれた部屋の前に立つと遠慮なしに、がらっと扉を開き中へ歩を進めた。

「叔母さん」

私は遠慮しながら中に入り、扉を閉じた。

「あれ、君たち。先生なら先ほどそっちに行ったぞお」

少し抜けた声で中年の男性が答えた。この人は天文学部の顧問の先生だ。無精ひげを生やしいつもめんどくさそうな表情をしている。適当な性格が先輩の叔母さんと気が合いそうだ。

「入れ違いか、戻るぞ」

先輩と私は先生に頭を下げると部屋を出て、扉を閉めた。

「先輩の叔母さんって天文学者だったんですよね?」

「ああ。今となってはそのかけらもないが」

「どういうことですか?」

「じき分かる」

先輩は声をすぼめながらそう言った。私はそれ以上聞かなかった。

 部室の扉の前に来ると物理準備室を開けた時とは違った強さで一気に扉を開けた。そこには生徒用の丈夫な木に机の上に白衣のまま腰掛け、足を組みながら煙草を吸う先生がいた。

「あら、後輩ちゃんも一緒なのね」

私はまた先輩の後ろからゆっくりと中に入り、扉を閉めた。

「当然だ。大切な部員だからな」

当たり前のようにそう言った先輩の言葉に少し驚いた。

「愛されてるのね」

そう言って先生はふふっと笑った。

「そんなことありません……。愛しているのならもっと気を使ってくれると思います」

「あら、言われちゃったわね」

先生は力の抜けたからかう様な声でそう言った。

「そんなことはどうでもいい。それの螺子が欲しい」

先輩は床に置かれた天体望遠鏡を指さしながら強い口調で言った。

「その前に――」

「頼みがあるのか」

先生の言葉を遮って先輩は言った。

「正解」

「叔母さんがここで煙草を吸っていることを学校に報告しても良いんだぞ」

先輩の口角が少し上がった。しかし、先生の笑みには敵わなかった。お互いの考えを知った上での表情だろう。

「そんなことをしたら明日から食べていけなくなるなあ、少年。それに、君は優しいだろ?それに甘い」

その言葉の意味が私には分からなかった。

「で、なにすればいい?肉体労働か?」

先輩は観念したように先生にそういった。しかし、先生の口から出たのは意外な言葉だった。

「いや、そんなことをさせるつもりはないよ。強いていえばこれからもこの部屋を使わせて欲しいってことと……」

そこで一呼吸置きこう言った。

「二人ともずっと仲良く。っていうのが先生からのお願いだぞ」

少し冗談めかして締めくくった後、先生は煙草の火を消した。そして白衣のポケットから螺子を取り出し、親指で弾いた。先輩はそれを右手でキャッチする。先生はじゃあねと言い残すと、私たちの横を通り過ぎて部屋を出て行った。先輩は振り向かなかった。

 この時の私には部室からあるものが消えていることに気づかなかった。




 先輩は部室で組み立てを行っていた。私は本を読みながらふと空を見上げた。虹。雨はやみ、夕日に向かうように大きな虹がかかっていた。

「わあ!虹ですよ先輩!こんな大きいのなんて久しぶりに見ました!」

先輩は作業している手をとめ、ゆっくりと立ち上がり私の隣で虹を見上げた。

「きれい……」

私は感嘆の声がこぼれた。先輩は唐突に口を開いた。

「空気中の水滴によって光が反射・屈折する」

先輩は続ける。

「様々な波長が混ざり合った日光は、波長の違いによって生み出される屈折角の差によって分解され、色彩豊かな虹になる」

先輩は遠く虹を見つめ淡々とそう言った。

「先輩って残念な人ですね!そういう風にしかこの綺麗な光景を見れないんですか?」

呆れながら先輩にそう告げる。

「残念とはなんだ、現象を理解した上で見る景色はより深い感動がある」

「神秘は神秘のままでこそ夢を見れるんじゃないですか」

先輩はふっ、と少し笑い続けた。

「分光学を否定するのは天文部としてどうかと思うぞ」

「どうしてですか?」

「プリズムから始まった分光学は星の性格を教えてくれる。遥か遠い星から届く光を解析することによってね」

「それとこれとは話が違いますよ!」

先輩の夢のない言動に私は残念そうに言った。

「そんなことは決してない――。君のいうとおり謎は面白い。何故そうなるのか。それが分からないからこそ考えることも思うこともある。でも、謎が分かること、つまり発見も感動なんだ。そして発見は新たな謎を生む。これらは表裏一体で切り離せない」

そう言った先輩の顔に虹の光が映った。先輩は私以上に夢を見ていた。私は何も言えなかった。手が届きそうな遠くて大きな虹を私はそこに見た。




 日は沈みとあたりは暗闇に落ちた。窓から見える住宅街からは明かりが見えた。涼しい風が窓から入りこみ、私の髪を撫でた。吹奏楽部の奏でる無作為な音楽はやみ、部室には先輩が天体望遠鏡をいじる軽い音と、私が本のページをめくる音だけが耳に入る。

「できた!裏山に行くぞ!」

先輩は唐突に声をあげた。

「今からですか⁉」

「そのつもりで残ってたんじゃなかったのか?」

私ははっとなり少し恥ずかしくなってそうですと肯定した。

「よしいくぞ」

先輩はバックパックに天体望遠鏡を丁寧にしまった。ほとんど人がいなくなった寂しげな校舎の空気に私は少しだけ酔いながら階段を降りた。昇降口とは反対の出口から外に出た。泣き始めた夏の虫の声が少しだけはっきりと聞こえた。先輩と一学期の間何度も登った階段を通り抜け少し開けた場所につく。先輩はバックパックを芝生におろし、ビニールシートを広げた。さらに組み立てた天体望遠鏡を引っ張り出した。私は靴を脱ぎビニールシートの上に膝を降りたたんで座った。先輩もふぅと一息つき私の隣に腰を下ろした。そしてゆっくりとした動作で天体望遠鏡を触り始めた。レンズカバーを外し、接眼レンズを取り付ける。ファインダーを覗き天体に目標を定める。接眼レンズを覗きながらノブを回しピントを合わせる。接眼レンズを付け替える。一つ一つ丁寧かつ慎重に行っていた。先輩は無言で私を一瞥する。私は先輩にゆっくりと近づき、天体望遠鏡を覗き込んだ。――火星だ。赤茶色のカラメルのような色をしたそれはいつも先月の大接近よりもはっきりとした像となって見えた。私はその星にしばらく魅入った。私はふと思い出して申し訳なさそうにレンズから目を離なし、先輩の方を見た。夜の寂しい風が芝生を撫でる。先輩の星を見る穏やかな表情に私の頬は赤くなった。先輩は視線を遥か遠くの南の空に向けてこう言った。

「あの赤く光る星が太陽系第四惑星――火星だ」


 *


 「あの赤く光る星が太陽系四番目の惑星、火星だ」

叔母さんは上を見上げ自慢げにそう言った。凛とした寒さの中、体の小さい僕はぶかぶかな叔母さんのコートに身を包んでいた。空には光を散りばめた満天の星空。僕ら二人以外、あたりには誰もいない。ここはどこだろう。

「私は火星が好きでね」

叔母さんはそう僕に言った。ぼくは叔母さんの服の裾をつまみ、黙ってその話を聞いていた。

「探査機が撮影した地表の画像を見たときは心が躍ったよ。この写真に写る石とか丘とか崖が、あんなに遠くにあるのかーってね」

ここで叔母さんはふふっと笑った。

「それに今では火星の環境を人間の手で変えようっとかいう研究も進んでるんだ。それが遠い未来実現したら火星出身の人類が誕生するかもしれない」

天文学者だった叔母さんはそれから少し火星のお話をしてくれた。火星の地下には水があるかもしれないといった話や、現在の人類は大昔火星から移り住んできた人々の末裔という説も囁かれてるだとかすこし眉唾なことも、僕にもわかりやすく簡単な言葉で教えてくれた。僕は既に星の虜だったけれど、火星はもっともっと好きになった。

「だから私は好きなんだ、火星が。」

叔母さんはここで一呼吸つき、心ここにあらずといったような落ち着いた声でこう言った。

「でも一番好きな理由はそこじゃないんだ。なんだと思う?少年よ」

叔母さんの目はどこか遠くの時を見ていた。

「うーん……、綺麗だから」

子供ながらに僕はそう答えた。叔母さんは再度ふふっと笑って僕の顔をちらりとみおろし、頭を乱暴に撫でた。

「正解だ」

熒惑星は冬の宙に明滅せず輝き、その光は今でも僕の中で返照している。


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