海軍予備航空団
海軍予備航空団は、所属こそ帝国海軍には所属しているが、正規の作戦部隊ではない。また、航空団で飛行機の操縦をするだけの、所謂訓練所のような位置づけであり、訓練団の所属者は兵士ではなく、訓練生・練習生といった扱いであった。その為、航空団に所属していた者全員が、陸軍や海軍の航空部隊に行った訳ではなかった。ただ、好太郎のように位の高い司令や、飛行隊長などを連れて来て訓練生に、スカウトじみた事をすることはよくあったようである。ただ、断ったからといって、嫌がらせを受けたりする事はなかった様である。好太郎の場合も、笑って浅井少将にこう言われた。「来たくなったら、いつでも来なさい」彼は、正直に言って浅井少将や京野少佐が嫌いではなかった。海兵出身・海大出身のエリートというと、無能で口ばかり達者な人をイメージしがちだが、そういう人ばかりではなかった事も、事実である。名将と後世に語り継がれる人物達が、そこにあてはまる。ただ、日本海軍程、短期間の間に栄枯盛衰を経験した、つまりは栄光と滅亡を経験した組織は、近代史において見当たらないだろう。日英同盟を結び、帝政ロシアの誇る当時世界最強のバルチック艦隊を破り、有色人種が初めて白人から勝利を奪った頃を栄光とするなら、米英仏蘭中などの連合国に戦いを挑み、米軍との激しい殴り合いの末、原爆2発で破れ去った頃を滅亡とすると、誕生から滅亡まで100年もなかったのではなかろうか?今も、その伝統を色濃く残した部隊が日本にはある。海上自衛隊だ。大日本帝国海軍は亡くなったが、その意志を残した海の防人は現在も健在である。話がまたそれた。山久は、生粋の飛行機乗りだった。視力は裸眼で4.0はあったし、高身長の割には痩せていたようだ。そして、彼は何よりも空を飛ぶ事を愛していた。海軍予備航空団には、招集のかかる昭和18年2月までいた。予備学生(予備士官)としての徴兵である事は、京野少佐や浅井少将にも伝えた。彼は編入される部隊をただ待っていた。少佐も少将も、にっこり笑って海軍に迎え入れてくれた。自分が海軍に入隊するか否か、ずっと答えを保留していた訳を知りながら。悪口一つ言わないその姿は、清廉潔白を重んずる、帝国海軍の軍人らしい器の大きさであると、好太郎は感動したという。山久好太郎は、大学の卒業と同時に少尉となり、横須賀海軍航空隊で、戦闘機パイロットになる為の教育練習過程を受け、約1年で前線の部隊へ派遣され、米英軍戦闘機と対峙する事になった。