儚い青春
後に強制的に徴兵される事になる為、好太郎の進路の迷いは意味のないものになる。好太郎は、大学では経済学部に籍を置いていた。それも全ては、山久呉服店を継いで、立派な店にする為の経営手法を得る為のものであった。彼は、高校(高等専門学校)の時は、卒業したら直ぐに店を継ごうと考えていた。ところが、美術の時間をサボることを黙認していた担任教師の勧めと、父親も、これからの時代は学問が出来る奴が出世する、という考え方を持っていた為に、何となく言われるまま大学に来ていた。今も昔も、大学という所はどちらかというと自由な雰囲気である。学生の自主性に任せて、特に問題がなければスタッフは関与しない、というものである。学校によって校風も異なれば、男女比だって違うだろうし、力を入れている教育のスタイルも違うだろう。いずれにしても、好太郎はこの開放的で自由な学生気分を満喫していた。海軍の予備航空団も、さしずめハードなクラブ活動のような感覚であった。ただ、そんな生活も長くは続かないものであった。泥沼の日中戦争の最中に、パールハーバーを日本海軍機動部隊が奇襲攻撃に成功したのは、彼が大学3年21歳の時であった。山久は決して愛国者でもなければ、天皇様の為に死にたいとも考えてはいなかった。開戦当初、日本中が浮き足立つ中でも、彼は冷静になって、こりゃあ大変な事になったと思っていたと、弟に語っていたという。海軍予備航空団は、学徒動員が開始される前に、大学生や高等専門学校に所属する軍人ではない者に、飛行機の操縦を教え、いざという時の為に戦力を確保しておくのが狙いだった。最も、将来的には海軍に入隊してもらうという狙いは見え見えだった。何十人も、好太郎には同期生がいたが、練習機とはいえ、彼に敵うパイロットはいなかったようである。教える側の海軍の教官ですら、絶賛する腕前だった。そんな彼が、海軍の飛行機乗りになるのは、運命だったのかもしれない。好太郎には、大学2年の時に知りあって以来、付き合っていた彼女がいた。名を優花と言った。好太郎の通っていた大学の近くの喫茶店で働いていた、今で言う所のウェイトレスである。優花は好太郎の4歳年下で、まだ国民学校を出たばかりの若い娘であった。好太郎は、この娘目当てに、当時決して安くはないコーヒーを、毎日のように飲みに行っていた。