青年期
小学校から大学に行くまでは(今とは少し異なり、お金がないと中学や高校には、行けなかった。また名称も今日のものとは、少し異なっていた)成績は中の上位のもので、特段頭が良い訳ではなかった。ただ、山久呉服店の経営が順調であった為に、金銭的には不自由をした事がないどころか、当時は卒業するだけでエリートであった大学まで行って、卒業しているのであるから、間違いなく富裕層であった。好太郎は運動が得意で、泳ぐのも走るのも、球技もクラスに彼を上回る者はいなかった。ただ、授業で一つだけ嫌いな科目が美術であった。恐ろしい程に絵が下手で、描いた絵が馬鹿にされるのが嫌だからという理由で、美術の時間だけは、学校を飛び出して近くの川でサボっていた。当時はそんな事をする風潮にはなく、そんな事をしていたのは好太郎くらいであった。彼は保健室に行くと言って嘘をついていたが、美術の時間毎に保健室に行くのを不審に思った担任に呼ばれ、事情を聞かれた。担任も好太郎の話を聞き、彼の行動を理解し、黙認してくれるようになった。好太郎は、学校が終わると父や母の手伝いをするのが、日課になっていた。しかし日本が、中国との戦争に突入する頃には、父の勧めで、海軍予備航空団へ入団。学校を終えた彼の日課は、航空団での厳しい訓練に変わった。好太郎が航空団に入団して間もなく彼は大学生になっていた。その後の進路については、海軍予備航空団での経験を活かして海軍に行くか、父の後を継いで呉服店の主人になるか、その二択であった。大学の授業の後は寄り道をする事なく、そのまま近くの海軍航空基地へ行く、そんな毎日を繰り返したのである。当時は、現代と違い大学への進学率は極端に低かった。中学や高校でさえ、当たり前に出られないご時世において、大学生は将来の日本を背負う、言わば金の卵であった。どこへ進むにも彼等は優遇され、将来が約束されたようなものであった。一般の大学とは異なるが、そういった点においては、陸軍兵学校や海軍兵学校や、その中でも優等生のみが進める陸軍大学校や海軍大学校も、命の危険こそあるものの、ある程度の出世は保証されていた。つまりこの時代の大学生は、色々な意味で金の卵であったと言える。好太郎は、進路の相談を父にした。すると、父からは以外な答えが返って来た。
「お前の人生だ。お前自身で決めろ」
何だか好太郎は突き放すような父の言葉に、驚きと戸惑いを隠せなかった。彼は、もっと明確な返答を父に期待していた。例えば、御国の為に尽くせ、とか、店を継いでくれ、といったような具合で言ってくれた方が、案外簡単に決心がつくと思っていたからだ。