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誕生

大正10年8月15日、東京都立川市に山久一文と敦恵の夫婦の長男として、山久好太郎は誕生した。後に生まれる弟富久と、妹久美子を合わせ三人兄妹の長男として、成長する。山久家は、代々陸軍や海軍を相手に、軍服を売る事で生計を立てていた。明治以前は、徳川の御家人や名のある大名を相手に呉服屋を営んでいた歴史がある。山久呉服店は、日露戦争以来の戦続きで、繁盛に繁盛を重ねていたという。一文はこう話す。

「戦争が起きて欲しいとは願ってはいない。でも戦争が起きると忙しくなる。それは嬉しい悲鳴だが、素直に大手を挙げて喜べない。自分自身日露戦争に従軍しているからね。複雑な気分だよ」

山久一文は、帝国陸軍の上等飛行曹長であった。20歳そこそこで徴兵され、日露戦争最大の激戦地である203高地を奪取する作戦で、生き残った手練れであった。戦後は急速に発達した陸軍航空隊に配属され、5年ほど東京を離れ、関東の各基地を転々とした。それは後世の為に航空戦力を育成する為の基盤作りであり、その指導役となる下士官を大幅に増強したいという、陸軍側の狙いがあった。一文は、訓練中の事故で右足を切断してしまったのを機に20年近くに及んだ軍隊生活に終止符を打ち、高齢の父母が何とか切り盛りしていた呉服店を継いだ。その時既に40歳であった。妻敦恵は、予備役に入った頃に出会った15歳年下の若い女性であった。今でこそ、年の差婚などと言われ流行っているが、当時は非常に珍しい事であり、周囲は反対した。しかし、その反対を押し切り、一文は敦恵と夫婦になった。一文は陸軍時代の伝手で、軍服を作ることを考え、それが成功した。呉服店は文明開化と共に廃れていくだけであったものの、彼は上昇気流に乗せた。その後、一文の両親は亡くなるが、敦恵と二人で必死に生きる為に服を作り続けた。その服の品質の良さが評価され、陸軍だけではなく海軍にも裾野を広げる事になった。二人ではとても間に合わなくなり、従業員も3人追加した。こうして山久呉服店は、何とか三度の飯に困らない程度にまで成長した。好太郎は徴兵されていなければ山久呉服店を継ぐつもりではあった。この山久呉服店は、終戦直後に弟の富久が復員してきて、後を継ぐことになる。のではあるが、それはまだ少し先の話である。


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