文章講話
中学生の頃から小説なんてものを書き始めて十七年。ようやく文章の書き方というものが分かってきましたので、自戒備忘も含めて少し書き残すことにしました。どたなさまかの参考にもなれれば幸いでございます。
最近の小説を目にして思うのは、どうも口語と文語の区別が曖昧だということなのです。といいましても、この口語というのがそもそも文語調で、文語となるともう死語に近いので、まずこの辺からお話してゆこうと思います。
口語というのは、話し言葉のことで、私らが口にしあっている言葉はたいてい口語であります。
文語というのは、書き言葉のことで、文字にしている言葉のたいていは文語で、小説で使われる言語というのはこちらが主流でございます。
この口語と文語が小説の中でどのように扱われているかというと、「」内は作中人物の言葉ですから口語が許されて、地の文では随筆や技法を除いてはまず文語になります。
口語と文語の比率は、書き手とお話によりけりで黄金率なんていうのは、まずないでしょう。作中人物の会話だけで進むお話にも立派なものがあります。ただ、大部分のお話は口語と文語を順序よく効果的に組み合わせることで作られるものであります。
特殊な生活を送っているのでなければ、一言も喋らずに一日を終えるというのはまずありませんから、私らにとって口語は大変に身近なものであります。私はよく存じませんが、今や手紙代わりのEメールや携帯電話の会話アプリケーションソフトで交わされる言語はほぼ口語であるような印象があります。そんなご時世で私らが他人の文語と出会える場といえば、学生であれば教科書や参考書、社会人ならビジネス文書くらいのものであります。あまり気が楽になるようなものではありませんね。しかし、気が楽にならない、というのは文語の宿命なのであります。
それが文法というものであります。昔から様々な書き手を悩ましてきた張本ですが、ことに口語まみれの世の中で育った現代の書き手にとって、これほどの大敵はなかなかありませんでしょう。
口語というのは、用いられる場にもよりますが基本的に自由律です。話し方に上手い下手の評価はありますが、間違っている、と指摘されることはまずありません。行き足りない発言を、しどろもどろで継ぎ足ししてゆくことも寛容です。なんといっても、その躍動感が文語とは比較になりません。特に口語交換が極めて発達した現代では、日々新しい言葉が生まれて広まってゆく速度はかつてないほどです。
一方で、文語には一定の文法があります。作中人物の会話なら得意だけれど、地の文で行き詰まる書き手の多くは、これまで馴染んだ口語の法則や新語で済ませてきた言語を、定めの多い文法の下で上手に言い換えられないために戸惑うことが多いものと思われます。
「頭痛が痛い」
これは一昔前に書き手・読み手の間で流行った笑い話ですが、口語と文語の区別を曖昧にした例文でもあります。これを口語に直したら、
「頭が痛い」「頭痛がする」
となるでしょう。「頭痛」「痛い」だけならどちらかを口語文語と厳格に決めつけることはできません。単語だけでは文法にとらわれないからです。その一文を唱える人が「頭痛」「痛い」という言葉を、口語と文語のどちらに分けているのかということになります。そこが曖昧になってしまうと、まず文章の見栄えが悪いし、醜い。ふつうの会話でも、本当に頭が痛いのか、単なる笑かしなのか迷ってしまうから、理解・共感するのに障りがあるような気もします。こんな災いが、書き手が一生懸命書いたお話の肝の部分で起こってしまったらと思うと冷や冷やいたします。
口語と文語の区別、これは地の文だけでなく、作中人物に与えられた「」内の発言にも関わりがあります。頭痛を訴えているのは同じでも、
「あたまいたい」
「頭が痛い」
「頭痛い」
「頭痛がする」
という風に違いがあります。その人物がどのような言葉にしたのかは、その人物の中ではれっきとした根拠があります。私たち書き手が、これしかない、という単語を選び抜いて、これしかない、という文体で語り、これしかない、という文法に従うように、作中人物たちにもまたそうした根拠があります。それは私たちの日常生活での口調がほぼ無意識であるように、彼らにも無意識ではありますが、彼らの過去や心境を映してもいるのです。
そこで、その作中人物を動かす書き手が、自らとその人物の口語と文語の区別を曖昧にしたままだと、お話も人物も上手く動きません。根拠がある以上、言葉遣いは人物の役や格を決めてしまいますので、これまでとは違った不自然な動きをしてもらう際には、何らかの強い動機付けが必要になります。
頭痛を訴えるのに、
「あたまいたい」
と表現する人物の役を子供、格を無邪気とします。その無邪気な子供に、子供らしくない大人びた発言や行動をしてもらわなくなったら、読み手に納得してもらえるだけの逸話や状況を作る必要があります。
――以下例文
「頭痛えー」
ふだん無邪気なその子供は二日酔いの父の真似をしながら言った。
例文終わり――
こうすると、無邪気な子供はある日の父の真似をしながら、頭痛を訴えています。そこでは父に関する言及があります。お酒を飲み、二日酔いになったことがある、痛みのせいかそれとも普段通りなのか口調は少々乱雑ですね。そして以後、作中の父はこのような性格を踏襲してゆくことになります。無邪気な子供の方も、親の真似をすることを好む格が付与されてゆきます。
このように、逸話は横道に逸れやすく多方面に制約を設けるものでもあります。一度や二度ならお話を膨らませるのに有用で、三度四度もその荒波を乗りこなして読み手を面白がらせるのならば大したものです。が、長続きするものではありません。それを文才と言い切ることはできません。悪く言えば誤魔化しや小細工といったものです。その間にも口語と文語の区別が曖昧なせいで起こり続ける小規模な齟齬は蓄積されます。その一つ一つを説明付ける逸話を作れば作るほど、傷は広く深くなります。全体の進行も滞りがちになります。作中人物の意外な過去や壮大すぎる展開なんていうのは、概ねこうした大きすぎる負債を帳消しにする最後の手段のようなものです。しかし、この手を使うと、その手段にお話全体が引っ張られてしまって、書きたい話を書けないせいでお話を作り始めた当初の熱意も冷め、俗に言われる「エタる」という放棄状態に陥ります。
そこでは、書き手は文字を使っているのではなく、もはや文字に使われている状態になっています。地の文で用いる言語は、自ら分けた文語を文法に従って用いて、「」内の作中人物の発言は彼らが口語に分けた言葉を用いて、状況や心境にあわせて完璧に使いこなせていること。これができれば書き手として三流といえるでしょう。
次に文法のお話をしてみようと思います。そんなに難しい話にはなりませんから大丈夫ですよ。
口語文語のお話にもありますように、文法を厄介に思うのは口語に親しむ余りに文語に対応しづらくなっているからだと思われます。
先に口語と文語の簡単な仕分けかたを申しますに、難しい言葉と感じたらまず文語と思ってよろしいと思います。人と話すのに、自分が難しいと思っている言葉を選んで使うのはいませんから、自分の中の口語以外の言葉は文語と見なしてよろしいでしょう。
文語として残ったその言葉たちを読みやすく組み合わせる指針となるのが文法なのでございます。昔と今では言葉をめぐる環境が激変してしまっていますから誤解しがちですが、人の発明品が人を混乱させるために作られているものですか。本来、文法は人が文章を読み書きする上で分かりやすくするための指針なのであります。
まず文章というのは、人に伝えたいことを文字にしてある状態であります。言葉にしているのなら、聞き手も目の前にいることですし、足りなかったら付け足して、行き過ぎていたら言い直せます。身振りや顔色や雰囲気で補足することもできます。どれも文字にはできませんね。ですから、遠くの知らない人にも一切の誤解も曲解もない文章を作り上げること、それが書き手第一の務めなんでございます。
確実に伝わることが第一で、読み手を楽しませるというのは、まずそこができてからのことです。この順逆を誤ると文字に使われる羽目になります。
書き手というのは孤独なものです。自分の中にある言葉のうちどれが口語か文語かを把握し、文法に気をつける。作中人物の言葉のうちどれが口語か文語かを把握したら、その人物の役と格に気をつける。すべて書き手一人の責任です。誰も助けてはくれません。今になって、なんとまあ恐ろしい世界に足をつっこんだもんだ、と思います。
ただ、文法と技法は必ずしも同じものではありません。修辞、文飾、技巧、言葉はいろいろありますが、より効果的に読ませるため、ある程度は文法を無視して書き進めるのはよくあることです。すべてがSVO方式で語られる小説なんてつまらないでしょう。ですから、より面白味のある文章を書かなくてはいけません。はたしてこの場面は文法を無視して技法を優先してでも強調すべきか、こういう悩みもまた孤独な書き手にいつまでもついて回るものであります。
通常、一つの段落の中で同じ言葉を何度も使うことはありません。冗長だし、かえって分かりづらくなるし、「頭痛が痛い」というようなことになりますからね。ただ、そのお話で重要な語句、切迫した場面、緊迫した見せ場をより強調する際には許されてもいいと思います。
ほかに簡単なところでは『…』これは二つ繋げるのが決まりなのだそうです。どうしてかは知りません。ただ、二つ繋がった状態はどうにも間延びしすぎているし、地の文ならともかく口語文に当てはめてよいものか。躍動する口語の世界では、間ひとつにも大きな意味があると思われるのです。
「え…」
「え……」
「え――」
この三つの場面は、それぞれに間から受ける発言者の心境が伝わってきています。少し言い詰まっているような状態から絶句しているような状態までの段階を示しているように見えます。驚きは驚きでも(小)(中)(大)といった表現精度の問題になります。
作中人物の造形は、口語と文語の区別に加えて、反応の仕方によっても定まります。この表現精度が低いままだと、やはり人物は上手く動いてはくれませんから、文字に使われないために注意を払うべき点だと思います。
口語と文語、文法、表現精度について、かいつまんでお話して参りました。以上は書き手の自滅を防ぐ程度のものであります。より高度な文章規範、技法については、書き手一人一人の流儀とともに編み出されてゆくものでございます。ここまで読んでくださいました同士たちの健筆をお祈りしまして、おしまいにいたします。