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序章 屍霊術士と少女

 大陸の南方に位置するディローダル王国の、北側一帯を領地に持つベンタブルグ領。その領地の西方の辺境の名もない農村が、盗賊の襲撃を受けた。作物の刈り入れが終わり、税の納入を間近に控えた時期の襲撃。小さな農村には、大規模な盗賊から村を自衛するだけの能力を持っていなかった。


「……はっ、はっ、はっ……」


 雨の降る森の中を、一人の少女が歩いていた。歩いていると言えるかどうかも疑わしいほど、ずるずると足を引きずって進んでいた。泣き腫らした顔は涙と雨に濡れ、血と泥に塗れた草鞋は、ほとんどその意味を成していなかった。


「お父、さん……おか、あ、さん……!」


 盗賊に連れて行かれそうになった少女を庇って、両親は盗賊に立ち向かった。両親の言葉の通り、振り返らずに走って逃げた少女の耳には、二人の断末魔の声が焼き付いている。


「……ひゃっ!」


 木の根に足をとられてつまづき、転んだ。襲撃があった夜に走り出して、今では太陽の光が雲の向こうから届いている。両親に言われる通りに逃げ続けて来たが、睡眠さえ満足にとっていない少女の体は既に限界を迎えていた。立ち上がろうとした足が、泥に滑って再び地面に倒れた。


「ぐすっ……ひっく、ひっく……」


 恐怖と疲労と悲しみに、少女は嗚咽を漏らした。雨の音にかき消されたその小さな嗚咽は、時間と共に小さくなり、やがて止まる。


 時を同じくして、雨の降る森を一人の妙齢の女性が歩いていた。帽子つきの雨具から覗く双眸は緑色で、雨具を押し上げて胸部の二つの塊がその存在を主張していた。


「全く、これだから頭の堅い神殿の司祭は嫌いなのです。私の研究はあのイカレた戦争馬鹿どものそれとは違うと言っているというのに、わざわざ呼びつけておいて研究をやめて市井に戻れなどと……全ての判断を神に任せて、自分の頭で考えるということをしないから生きながらに脳みそが腐っていくのですよ……おや?」


 ぶつくさと文句を垂れながら森の小道を進む女性の目に、木の下に倒れている少女の姿が映った。近づいてしゃがみ込み、じっと少女を見つめる。


「おや、こんなところに息絶えて間もないと見える幼子が……可哀想に、確かあちらの方角には村がありましたね。盗賊も出るという話でした。恐らくこの幼子は、襲撃を受けて村から逃がされたものの、あてもなく彷徨っているうちに体力が尽きて倒れた、というところでしょうか」


「しかし、このタイミングで私が通りかかるとは運が良い。きっと神もいよいよ私の研究を認めてくださったに違いありませんね……ん?」


 女性が少女の遺体だと思っていたものを見ると、僅かに体が上下している。濡れた鼻に近づいた雨水は、息を受けて僅かに動いているようだ。


「……なんと、まだ息が残っているようですね。髪はやはり私の研究を応援してはくださらないようだ。しかし見つけたのが私だったのはこの幼子にとっては幸運ですね。あのイカレた連中に発見されてしまっていたらこのまま見殺しにされて、そのまま実験材料にされていたでしょう。我が家(うち)まで運んで、出来る限りの手当てをしてから、それでも助からなかった場合は奥の手を使いましょうか」


 そう呟いて、女性は少女を背負って走り出した。少女の体を労わりつつ、かつ最大限の速度で、少女を背負って足場の悪い雨の森を、その女性は駆け抜けていった。


「……さて、まずは雨に濡れた衣服を脱がせなくては。このままでは体温が奪われて危険です。怪我をしている足も消毒し、病毒の侵入を防がなくてはいけませんね」


 独り言をつぶやきつつ、女性は医薬品の類を手早く準備し、熾き火に炭をくべて火を熾した。雨に濡れた衣服を脱がせ、体を拭いてから膝まで毛布に包む。それから足を湯で洗い、薬液を塗って綿布で包み、包帯を巻いて固定した。一連の作業が終わって、ようやく女性は息をついた。


「ふう……ひとまずの処置はできましたか。あとは衰弱した身体を眠って回復させ、起きてからなにか消化に良いものを食べさせてあげればよいでしょうかね……くしゅん!」


 雨具を脱いだだけの状態で手当てをしていた女性は大きくくしゃみをして、濡れた体をぶるっと震わせた。


「おっと……このままでは私が風邪をひいてしまいます。人の看病をすべき時に看病が必要になっては本末転倒と言ったところですからね。私も着替えて、暖まらせて貰いましょうか」


 少女を暖炉の前に用意した布団に寝かせ、自分も火に当たって暖まりつつ、女性はうつらうつらと、眠りの世界に引き込まれていった。



「……うぅん」


 少女が目を覚ました時、そこは見知らぬ家屋の暖炉の前に敷かれた布団の中だった。全身を毛布に包まれ、足には包帯が巻かれていた。布団も毛布もふかふかとして暖かく、まだ目覚めておらずぼーっとした頭は、再び心地よい眠りの中に落ちて行こうとする。


(……わたし、どうしてこんなところに?)


 ふと思い浮かんだ疑問は、少女の意識を覚醒させるのには十分だった。盗賊の下卑た笑い声、父と母の断末魔、無力な自分の嗚咽。一瞬にしてフラッシュバックした記憶に、少女は反射的に立ち上がろうとした。しかし、


「……っ!!」


 痛い。全身が痛い。どこもかしこも痛い。包帯の巻かれた足だけでなく、腕も、肩も背中も、脇腹さえも痛かった。丸くなって痛みをこらえていた少女に、穏やかな声がかけられた。


「無茶をしてはいけませんよ。今のあなたはとても動くことのできる状態ではありません。今はとにかく休んで、怪我を治すことを考えるのです」


 振り向いた少女の目に映ったのは、亜麻色の髪と緑色の目を持った妙齢の女性だった。少女の横に座り、緑色の目で穏やかに少女を見つめる女性に、少女はか細い声で問いかけた。


「……ぁ、あなたが、助けて、くれたのですか?」


「道端で倒れていたあなたをここまで運んだのは私です。しかし、助けたわけではありません。私はあなたが助かる可能性を高めるための処置をしたに過ぎず、助けたと言うには程遠い。……もしあなたが命を落としていたら、私は私の目的のために、あなたの肉体と魂を弄んでいたかもしれないのですから」


 そう答えた女性は、あなたが助かってよかった、とつぶやいた。そして少女は、女性に再び問いかける。


「肉体と……魂を?」


「ええ。もしあなたが命を落としていたら、私はあなたの遺体に、あなたの身体から抜け出したばかりのあなたの魂を、再び押さえつけ、定着させようとしたでしょう。そうやって、肉体と魂が離れ離れになる『死』という現象を、冒涜的な方法で無理矢理に回避しようとしたでしょう」


 少女はその答えに、村で何度も聞かされた言いつけを思い出す。もし悪いことをして死んだら、森から魔女がやってきて、死んだ身体に幽霊になった魂を縫い付けて、動く死体にして働かされてしまうのだと。そうなったら、身体が崩れて壊れてしまうまで、永遠に魔女に逆らうことはできないのだと。


「……あなたは、あなたは魔女、なんですか? 私の体を使って、働かせるために、助けようとしてくれたんですか?」


 自分を助けてくれた相手が、善意ではなく、悪意をもって代償を求めて来るのではないか――そんな恐怖の表情を浮かべた少女に、女性は首を振ってこう言った。


「いいえ、私は魔女なんかではありませんよ、お嬢さん。あなたを動く死体(アンデッド)などにしたりはしたくありません。死体を動かして、働かせたりなんてしませんよ。私はただ、あなたを死なせたくなかっただけなのです。なぜなら――」


 女性は続ける。


 なぜなら。


 私は。


「人類の死からの開放を研究する――」


 屍霊術士(ネクロマンサー)なのですから。

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