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赤い月

作者: 壱岐津 礼

 駅に行った。

 長い間音信不通だった兄とう約束だった。駅は、やたらだだっ広いだけで、荒れ果てていた。プラットホームに列車の影はなく、地を揺るがすレエルをむ車輪の音も無く、それを待つ人影もまた、無かった。ちた枕木まくらぎにかろうじて支えられているびた金属が、古い道のを示している。何かの法則に従って、草生くさむ砂利じゃりの上に謎めいた文字を記している。

 空も、地も、薄く墨を塗り伸ばした絵のように、くすんだ午後に沈んでいた。

 兄が家を離れたのは。長らく連絡を寄越よこさなかった理由は、私に在った。かつて、私は彼をひどく苦しめた。私の身代わりに、私の盾として危険の前に彼を差し出し、私自身は安全な場所に逃げ込んだのだ。相手を好ましいと思うかどうかは関係無かった。血の繋がりさえも、おそらくは意味が無い。私は身近な存在を、利用できるかどうかのただ一事だけで評価する。

 彼に許しを乞うのだろうか。一人ホームで待ちながら、そんなことを考えていた。

 多分、そうなるのだろう。

 会えば何かが変わるのだろうか。例えば人並みな愛情や温もりなどが驟雨しゅううのように突然に、私達に祝福を注ぐのだろうか。

 そうはならない気がする。

 ならない予感の方が強い。

 何の利益も得られそうもないのに、私は待ち続けていた。右を向き、また左を振り向いては、二本のレエルが一つの点に収束する彼方を見渡していた。

 彼は左から現れた。最初はレエルの上にうごめく細長い影と見えた。やがて影は一対いっついの手足をそなえ、そして兄の姿になった。私はホームから線路に降り立ち、兄の方へと歩いていった。そうして、私達は再び互いのひとみに互いの姿を映した。

 心臓は驚くほど静かなリズムを刻んでいた。私の両目は濡れているようだった。兄に向かって両手を差し伸ばし、腕に触れ、肩に頬をもたせかけて詮無いことをくどくどと歯の間から零し続ける自分を、私は少し後ろから冷たく乾いたまま見守っていた。不思議な心持ちで眺めていた。

 しかし、これも一つの儀式なのだろう。約束を守るということで、何かは成就されたのだろう。或いは長年欠落していた要素を、私は取り戻したのかもしれない。舞い立つような充足感は無かったが、この時確かに安堵は覚えたように思う。

 二人で家に向かった。私の住まう場所へと向かった。帰りつけば今日一日が完了する。

 駅のホームから階段を降り、地下道へと潜った。湿気た生温い空気が床の上によどんでいた。壁はすすけて元の色を失っていた。そこに更に何種類ものかびが毒々しい絵の具となって、抽象的ちゅうしょうてきな模様を描き出していた。外は人一人として居なかったのに、地下には多くの人の気配があった。大勢の肺で温められ吐き出された息で地下道の空気は揺らぎ、一層に蒸し暑さを増していた。

 地下は幾つものサロンの集合体となっていた。十数メートルも進めば壁の両側にアーチをかたどった出入り口が並び、洩れ聞こえる多種多様の会話を交わす声がわんわんと反響して耳を傷めた。しまいには私達の進む道そのものがアーチの中に飲みこまれてしまった。

 広い空間だった。天井は高く、何重にもアーチを絡み合わせたような形をしていた。踏みにじられ色褪せた幾何学模様を組んだ石畳の床の上に、数え切れないほど多くの丸いテーブルが、ほとんど無作為にバラバラに設置されていた。一つにつき三人以上はテーブルを囲んでやかましく言葉を交わしていた。入ってきた反対側に、やはりアーチがぽっかりと口を開け、狭い通路に続いていた。

 兄は先に立ってテーブルの隙間を縫って人をかき分け対向線上の出口を目指した。私も後を追って広間に踏み込んだ。なかなか先に進めない。周囲から何本も差し伸ばされる手が藻のように絡みついて私を放さない。手の主に目をやると皆、不幸そうな、疲労と心労に荒んだ、ぞっとするような人懐ひとなつこい笑顔を私に向けていた。振り払い振り払い出口に辿り着くと、もう兄の姿は見えなくなっていた。

 道は一つしかないのだから、私は先を急いだ。

 通路は打って変わって静かだった。地下にはあれだけの人が居ながら、通りを移動しているのは私と兄だけのようだった。この地下道を抜ければ家に帰れる。ここから地上に出たらすぐ近くに家が在る。地上に出れば、兄も待っているだろう。

 剥き出しのコンクリートの通路を駆け抜け、葛折つづらおりに折れ曲がって登る階段に足をかけた。

 階段は折り返し折り返し、いつまでも終着点に至らず上を目指し続けた。地下に入る時はほんのニ、三周で終ったのに、どれほど登れば地上に出るのだろうか。

 百遍も折り返しを数えた頃。それまで窓一つなかった階段から、ようやく外の光りの差し込む、一面にガラス張りになった踊り場に出た。透明なガラス越しに外の光景を目にした私は、自分が既に地上はおろか、遥かに高い、空に近い地点に到達していることに初めて気付いた。胸に鈍痛が走った。葛折れの行程を反芻はんすうする。出口は無かった。道は一つしか無かった。

 振り向いて、更に上に続く階段を見上げた。上方にも外の光りが見えた。大きな重い鉄製の二枚扉が開かれていた。地上ではなかったが、少なくとも外には繋がっていた。

 その階段の中ほどに、数人の男女がたむろしていた。真ん中に赤黒く爪を染めた女が腰をかけている。唇も赤黒く肌は真っ白に塗りたくられ、目の周辺はくまのように黒々と縁取られていた。

 頭の隅で警戒を促す響きを聞きながら、私は女の前に立った。彼女に問い掛けた。

 「兄を見なかったか?」

 女は曖昧あいまいにニヤニヤと笑って長い爪を噛むばかりだった。

 押しのけて通ろうとした時、背後に大きな影がさした。

 振りかえった視界の端をよぎって落下していったそれは、人の形をしていたように見えた。


 私はだまされたと思った。

 罠にはまったと思った。

 最早取り返しがつかないと知った。


 何時の間にか女も、周辺の男女も姿を消していた。開け放たれた扉からも踊り場の窓からも光すら消えていた。

 窓の向こう、立ち並ぶ異形の建造物群の遥か彼方から、赤い光りを滴らせた月が昇った。不吉な輝きは私のもとにも届き、私を包み、皮膚と心臓を焦がした。

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