夢の街は夢心地
「俺さあ、夢の中のトイレのバリエーション、豊富なんだよね」
窓の向こうは、絵の具でベタ塗りしたみたいな青い空。少し前に飛行機雲が出現して、窓枠の端から端まで横断しようとしている。太陽はとっくにてっぺんまで昇りつめているけれど、今は上手い具合に雲の後ろに隠れているのだろう。だからこんなふうにベッドに寝転んで、無防備に窓の外を見つめたりできる。
大量に出された宿題も終わらせたし、昼飯のチャーハンもおいしく作れたし、電線の上のスズメはあんなにも仲睦まじい。俺の平和な夏休みも、後半に差しかかっていた。
「あ? トイレ? さっさと行けよ」
出し抜けに的外れなセリフが耳に届く。同時に、スズメが落ちるようにして電線から飛び立った。
人の話をよく聞け。その前に返事が遅すぎる。何秒かかってるんだ。
そんな文句を全部のみこんで、俺は暁人の方に顔を向ける。対する暁人は、視線をノートに落としたままだ。
「お前、もっときれいに字書けよ。さっきからaだかdだか区別つかねーよ」
暁人は午前中から、小さな折りたたみテーブルの上でせっせと俺の宿題を写している。
「文句言うなら写すなって」
「文句じゃねーよ、お前のために言ってんの」
「……そりゃどうも」
「よし、このへんで休憩!」
からん、とシャープを置いて暁人は伸びをした。
「で、何? トイレのバリエーションがすごいって?」
「あ、ちゃんと聞いてたんだ」
「この至近距離で聞き逃すかよ。夢の中にトイレの精でも住み着いてるんじゃね?」
「あんまり嬉しくないな」
「じゃ、便器の精だ」
「もっと嫌だ」
「わがままなやつだな。……お前の夢の世界全体がトイレの霊に取り憑かれてたりして」
「やめろよ、精より霊のほうがリアルで怖い」
暁人は笑って立ち上がった。
「腹へった」
「さっきチャーハン作ってやったじゃん」
「何十分前の話してるんだよ。コンビニ行こうぜ」
「……眠い」
「残念。何かおごってやろうと思ったのに」
俺は少し考えて起き上がった。暁人はすでに部屋を出て、階段を下りはじめている。
「アイスがいい!」
そう言って俺は暁人のあとを追った。もちろん財布なんか持たずに。
ところで、この場所前にも来たことある、とか思ったことない? 現実での話じゃなくて、夢の中での話。この店にいる夢をよく見るとか、いつも夢の中でこの道を歩いているとか。そういう人は、夢の中で生きられる素質があると思う。それはたぶん、自分の夢の世界を形成しつつある証拠だ。
俺は物心ついたときから、現実と夢の中との両方を生きていた。
ベッドに入って現実での行動を一旦ストップすると同時に、夢の中での生活が再開される。夢の中は、ひとつの街だ。もちろんその人の脳内妄想やら何やらがいろいろ組み合わされてつくりあげられた街だから、へんてこなこと、この上ない。衣食住なんて考えなくていい世界だし。基本的に、自分以外の人間も存在しない。
だから俺は眠いとき以外にも、例えばひとりきりになりたいとき、よく夢の中へ――通称、『夢の街』へ行く。静かだし、誰にも邪魔されないし、考え事なんかするには打ってつけだ。だから俺は、他の人よりも眠るのが得意だ。いつでもどこでも、好きなタイミングで眠るという技を、物心ついたときから磨き続けてきた。
ただ、当たり前の話だけれど、いつ目覚めるかは自分で決められない。だからどんなときでも唐突に現実に引き戻されてしまうのは、ちょっとしたデメリットだ。
普通の人にこんなことを話してもなかなか理解されないし、鮮明な夢を見ている程度にしか思われないことが多いからめったに話題に出さないけれど、親友のポジションにいる暁人にはこのシステムを詳しく話した。説明するのに何日かかったことか……。
だいたい、暁人は変なところで頭が回り、俺が予想できないツッコミを入れてくる。例えば……。
「考えようによってはさ、お前、一生眠れないってことじゃねーの?」
暁人に言われるまで、考えもしなかったことだ。
「だって寝ても覚めても絶対どっちかの世界で動き続けてるってことだろ?」
もっともな話だ。ということは、死ぬときが文字通り永遠の眠りにつけるときなのか? なんて思ったり。
「でも、夢の中で寝ちゃって夢を見ているときだってあるから……そのときは完全に寝てるんじゃないかな」
「劇中劇みたいな話だな……。じゃあもし夢の中で寝てて目が覚めなかったら現実には戻ってこれないのか?」
「うー……よくわかんなくなってきた。でもそんな事態に陥ったことは今までにないから大丈夫」
「これからもないとは言えねーだろ」
「まぁね……。そうなったらどうしよう」
この時、俺はわりと真剣に考えていたのに、暁人のやつときたら。
「白馬に乗った王子さまのキスを待つしかないだろ」
「バカ」
「眠りを覚ますのは王子さまのチューって相場が決まってるんだよ」
「それはお姫さまの話」
「じゃあここは逆転の発想で、お姫さまのキスを待つしかねえな」
「その発想をやめろ」
「なら意外性重視で白馬の――」
おもに印象に残っているのはこんなやり取りしかないけれど、そういうわけでとにかく暁人はこのシステムを理解してくれたようだった。
俺はあくびをしながらベッドにもぐりこんだ。カーテンの微妙な隙間を閉じようと足を伸ばしたら、余計に開いてしまった。起き上がるのは面倒なので放っておく。
月明かりにぼんやり照らされたテーブルの上には、暁人の筆箱とノートが置いてある。また明日、続きを写しに来るんだろう。チャーハンのもと、まだ残ってたっけ。そんなことを思いながら、俺は夢の街での生活を再開させた。
☆
夢の街は、今日も相変わらずぱっとしない天気だ。
それにしても、つくづく俺って単純。俺の家の出窓には、大きな箱が置いてあった。中身はケーキ。昼間、コンビニで無性に食べたくなったけれど、俺は一文無し、暁人も財政難だったので渋々諦めた。夢の街ではこういうささやかな野望が叶えられるからいい。満腹感は得られないけれど。
ちなみに、俺の家には玄関がない。だから窓から出入りする。観音開きの大きな窓だ。靴を脱ぐ手間もないし、入るといきなりリビングだし、効率的。リビングと言っても、家具の類は一切置いていない。もっとも置くようなスペースもないくらい狭いんだけれど。
天気に関係なく雨漏りしている渡り廊下の先には、台所がある。と言っても湯船のような流し台があるだけだ。料理なんてしないし。
――ピンポーン。
突然鳴り響いたチャイムに、俺は動きを止めた。
……チャイム?
そんなものあったっけ……? 玄関すらないこの家に。
いやそれよりも。この街には俺以外存在しないはず。まさか……トイレの霊?
俺はゆっくり深呼吸した。大丈夫。夢の街では、死なない。出刃包丁で刺されようが銃で撃たれようが命に別状はない。ロールプレイングゲームの世界に似てるな。違うのはゲームオーバーにならないところ。
そんなことを考えているうちに徐々に好奇心なんてのが湧き上がってきたりして、俺は出窓に近寄った。……一呼吸置いて窓を開けると。
「あぁ、よかった。お留守かと思っちゃった」
俺を見上げていたのは、ひとりの女の子。トイレの霊だなんて疑って悪かった。
「えーと、どちら様かな?」
思わず笑顔をつくって優しい声を出してしまうくらい、彼女は好みをばっちりおさえている。
ゆるやかにうねった黒髪に、眩しいくらいの白い肌。遠慮がちに見上げる大きな瞳に、ほんのり赤い、頬と唇。
「ごめんなさいね、どうやら迷い込んでしまったようで……」
慣れない場所で眠ったものだから、と申し訳なさそうに付け足す彼女。
「ああ、気にしないで。よくあることじゃないですか」
にっこり笑う俺。彼女も安心したように笑った。そこだけ花が咲いたように、空気が華やぐ。
よくある、といっても半年に一度くらいだ。迷い人がやって来るのは。
「とりあえず、上がって」
現実では、初対面の女の子を家に入れるなんて絶対にできないけれど、夢の街ではこんなふうに大胆になれる。
「お邪魔します」
彼女もわかっているだろう。現実と夢、両方の世界を生きる人間たちの、暗黙の了解だ。同じ種類の人間というだけで、妙な親近感が湧いてくる。
彼女は窓枠に手をかけ、反動をつけてよじ登った。それほど高い位置にあるわけじゃないから、女の子の力でも楽に入って来られる。ほんの少しスカートが翻って、俺は不自然に目を逸らした。
「えっと……適当に座って。……ちょうどいいときに来たね、ケーキがあるんだ」
「あら……男の人の街にもケーキなんてあるの? 意外」
「今日、コンビニで見かけたケーキに未練が残ってね」
嬉しそうに笑う彼女には、生クリーム山盛りのいちごケーキ。自分にはいちごがまるごといくつも突き刺さったケーキ。折りたたんであったきりかぶの根を広げてテーブルにする。彼女と向かい合って座るだけで、センスの悪い俺の家が、おしゃれなカフェの雰囲気に似ているように思えた。
「修学旅行でね、立派な旅館に泊まってるの」
「ああ、それで」
慣れない場所で眠りにつくと、稀に、他人の夢の街へ入り込んでしまうことがある。仕組みはよくわからないけれど、現実と夢の街とをつないでいる道に何か変化が起きるんじゃないかと、俺は勝手に分析している。
俺の場合は、バスで居眠りしているときに迷い込んでしまうことが多い。夢の中も、現実のようにさまざまなひとの街が隣り合っているのかもしれない。自分の街へ行く途中に間違えやすい道が何本かあるんだろうな、と思う。まあ、現実の方で目が覚めてくれればその瞬間に抜け出せるし、同じ人の街に再び迷い込むこともなくはないけれど、ありがちな事故として軽く受け入れるのが常識だ。
「今日が最後の夜で、本当は起きているつもりだったんだけど……寝ちゃった」
彼女は小さく肩をすくめて笑った。
「わかるわかる」
「それに二日連続で徹夜だったし」
「最後にハメはずそうなんて言ってても、もう体力が限界なんだよな」
「そうそう」
中学のときの修学旅行がまさにそうだった。噂では、俺が一番最初に寝たらしい。
「それにしても、今時期に修学旅行? 俺、今夏休みだよ」
「そうなの? 夏休み、長いのね」
住んでいる地域が全く違うのだろうか。こんなに近くで話しているのに、現実は地図の端から端くらい遠く離れているかもしれないのだ。そう思うと、急に空しくなった。
目の前の彼女は、いつ消えてしまうか、わからない。現実の方で目を覚ましてしまったら、その瞬間に、あとかたもなく消えていなくなってしまう。
俺はいちごをまるごと口に押し込んだ。だいこんのような味がした。
「ありがとう。おいしかったわ」
「あ……うん。ごめんね、バランス悪いケーキで」
「そんなこと。夢の街が完璧だったら嫌じゃない? 夢らしくない」
「そっか……そうだね」
最後のいちごを俺が食べ終わると、彼女は立ち上がった。
「あなたの街、案内してほしいな」
そう言ってぱたぱたと小走りに出窓へ近づく。
「……開かない。入口と出口は別なの?」
俺は笑って立ち上がった。
「最新セキュリティだよ。俺の手じゃないと開けられない」
俺の街に入り込んでしまった迷い人はこれまで何人かいたけれど、こうして案内して歩くのは初めてだ。
彼女はふわふわとした足取りで、辺りを見回しながら歩いている。何日かぶりに散歩に連れて行ってもらった子犬のようだ。
草むらから生えてきたような高層ビルを見上げて、彼女は言った。
「これは何?」
「チャーハン屋さん。どこの階にもチャーハンしか置いてないんだ」
「あたしの街にも同じようなのがあるわ。壁一面にさくらんぼがなってるお城」
「さくらんぼの城か。メルヘンチックだね」
ふと空を仰ぐ。珍しい。いつもは晴れと曇りの間をさまよっているようなはっきりしない天気のくせに。今の雲ひとつない空は青く波打って、宝石みたいにきらきら輝く星を浮かべていた。
「あれなぁに?」
彼女が指さしたのは、線路の上のコーヒーカップだった。遊園地にあるようなくるくる回るものではない。ひたすらまっすぐに線路の上を進んでいく、街唯一の交通機関だ。俺はめったに乗らないけれど。
「乗りたい?」
「乗れるの? 遊園地みたい!」
「もちろん。目がまわらないから安心して乗れるよ」
言うや否や、彼女は俺の手を引いて走り出した。指先の冷たさが伝わってきて、俺は少しだけ強く手を握り返した。
「あたしね、あなたの家に行くまでにちょっと探険してみたの」
「えっ? ……なんか変なものなかった?」
彼女は笑いながら首を横に振った。
「変なものじゃないけど。……トイレがたくさんあるのね」
空のきらめきが雑巾で拭い取られたように消え失せた。耳が熱くなるのを感じる。
「そ、そう? そんなにあった?」
俺のバカ。いや、俺の意思ではどうにもできないんだけれどさ……。何だかものすごくトイレが好きな人みたいに思われるじゃないか。トイレマニアとか思われていたら最悪だ。せめて風呂ならよかったのに。トイレ好きより風呂好きのほうが絶対にイメージがいい。
「お店かと思ってのぞいてみるとすごく豪華なトイレだったり、プールだと思って見てみると水中トイレだったり」
「水中トイレ……」
それは俺も最近発見した。プールの底にトイレが規則正しく並んでいるのはなかなか異様な光景だ。
落ち込んでいるのを悟られたくなくて、思わず何度も咳ばらいしてしまった。コーヒーカップに乗り込み、ベンチに彼女と並んで腰掛ける。よかった、コーヒーカップの中にトイレが陣取ってなくて。
「あの、ごめんね……変な街で」
「え? すごくおもしろい街だと思うけど。あたし、よく他の人の街に迷い込んじゃうんだけど、本当に怖いところもあるのよ。迷い込んだのがここでよかったって思った」
彼女の言葉からは、お世辞とかフォローとかそういったものが一切感じられなくて、俺はやっと心臓を落ち着かせることができた。
ゆっくり流れる景色は、何だか新鮮だった。風が彼女の髪をなびかせると、シャンプーに似たいい香りが鼻腔をくすぐった。
「あそこ、行ってみたい」
「え、どこ?」
彼女の横顔を盗み見ていた俺は、視線を慌てて指さした方向へ向けた。丘の上にそびえる、白い塔だ。
「ああ、俺のお気に入りの場所なんだ。最上階から手を伸ばすと空に触れるんだよ。コーヒーカップの終点はあそこ」
俺がそう言うと、彼女はいたずらっぽく笑った。
「空の星もとれる?」
「たぶんね」
気が遠くなるほど高い塔だけれど、階段を三段のぼると最上階に到達する。
俺の街が一望できるそこは、風が気持ちよくて、いつもは殺風景な石造りの空間のくせに、今日は色とりどりの花が咲き乱れていた。
開け放しの大きな窓から、彼女は手を伸ばした。背伸びをしているけれど、届きそうで届かない。もがく指先が一瞬空に触れると、空はゼリーのようにぷるんと震えて小さな波紋が広がった。
「とってあげる」
彼女と場所を入れ替わり、俺は手を伸ばした。
青空の上にふわふわ浮かぶたくさんの星。どれもこれも陽の光を受けて、レモン色のきらめきをこぼしている。
「髪飾りにでも、どう?」
映画か何かできいたような、似合わないセリフを言ってみる。ひときわ大きくて輝いている星を取って振り向くと、そこに彼女はいなかった。
☆
「それで星を貢ごうとした瞬間、逃げられちゃったってわけか」
「逃げたんじゃないよ。現実の方で目が覚めただけ。自分ではどうしようもできないことなんだから」
はいはい、と軽く受け流す暁人は昨日と同様、俺の宿題を写している最中だ。ポテトチップスを数枚一気に口に押し込んで、暁人は言った。
「でも珍しいな。お前が好きな女の話するなんて」
好きな、女。
ストレートな物言いに、何だかこっちが恥ずかしくなる。
だけど否定はできなくて、俺は彼女に恋をしたのか、と妙に納得したりする。
「夢の中の女に恋か。普通ならバカけた話だけど、お前の場合は違うもんな。夢で出会ったとはいえ、現実に存在する人間なんだから」
「でも、たぶん、もう二度と会えない」
口に出してしまうと、切なくて仕方がなかった。どっちにしろ事実は変わらないのに。
「また迷い込んでくるかもしれないだろ」
「それは……ないとは言えないけど」
彼女は修学旅行の最後の夜だと言った。今日の夜には自宅にいるということになるだろう。今日から普段どおりの生活。彼女は迷うことなく、夜には自分の街での生活を再開させるはずだ。
自棄になってキャンディを次々と口に詰め込む。サイダー味のそれは、何故か温泉の味がした。
窓の外を見ると、チョークで描いたようなくっきりと細い飛行機雲が伸びていた。雲ひとつない青い空によく映える。
「修学旅行ねえ……」
暁人はつぶやくと、急に真剣な表情で俺を見た。
「お前、寝ろ」
「は?」
「いいから、寝ろ」
「え?」
「子守唄でも歌ってほしいのか?」
「いや……」
「オレがいたら寝にくい?」
「そりゃ、ひとりでいるよりは。……それよりどうしてこんな真昼間に」
「会える、かもしれない」
「なんで……?」
「いや……期待させすぎると悪いから理由は言わないでおく。もし会えなかったらショックでかくなるだろ」
「まぁそうだけど……」
「だから絶対とは言えないけど、ためす価値はあるね」
何を根拠にという気持ちと、とにかく会いたいという気持ちが絡まる。
「ほら、おやすみなさーい」
暁人は小声で急かして、にやりと笑った。
少しでも可能性があるなら……。
俺はささやかな希望を胸に、ベッドに横になった。
「オレも一眠りするかなー。あ、いびきかかないから大丈夫」
そう言って暁人も床に寝転んだ。
俺は仰向けになって、目を閉じた。聞こえるのは、二人分の呼吸だけ。何だか修学旅行みたいだ。
思い浮かぶのは、彼女の笑顔。可愛らしくのぞく八重歯や、少しだけ鼻の頭に寄るしわ。声だって鮮明に思い出せる。ほのかに香る髪も、わずかな間だけ握りしめていた、指先の感触も。
☆
街は、いつもと変わらなかった。
祭りが終わった後の神社のような、そんな静けさ。
誰もいないグラウンドにひとりで立っているような、そんな寂しさ。
いつもと変わらない。
台所に行くと、流し台は大量のさくらんぼに埋め尽くされていた。適当に何個かつかんで口に押し込むと、俺は家を出た。
たいてい水が溢れているプールは干からびていて、規則正しく並ぶトイレが地上にせりあがっていた。
「いいよな、お前らは悩みがなくて」
トイレの集団に向かって、何を言っているんだ、俺。
当たり前だが答えは返ってこない。空しさを紛らわすように、俺はひとつの便器に向けてさくらんぼの種を飛ばした。ナイシュー。いい音だ。
重々しい灰色の空は、いつにも増して低い気がする。と、見上げた先に。
「――!」
白い塔の最上階に、人。
考えるより先に、足が動く。
塔は、もどかしいくらい遠くにあった。
走る。走る。
枯れ草が足にまとわりつく。時々つんのめりながら、それでも俺は塔の人影から目を離さなかった。
プールの底から噴水のように水が湧き出るのが横目に映る。溢れ出した水は渇き切った地面を流れた。ぬかるみに足をとられながら、走る。
心臓がミキサーにかけられているような気分だ。落ち着きなく小刻みに暴れ、時おり何の脈絡もなく跳ね上がる。全力疾走のせいじゃない。高まる、期待。俺は塔に飛び込んだ。 今日に限って、階段の段数が増えている。ひとつ飛ばしで駆け上がった、その先に。
彼女が、いた。
息が乱れて上手く言葉を紡げない。空気を取り込むので精一杯だ。
「……会えた……」
けれど、目を大きく見開いている彼女のそのひとことで、充分だった。俺が言いたかったのもまったく同じことだ。
床に這いつくばっていた枯れ草たちはみるみる元気を取り戻し、色とりどりの花を復活させる。彼女を照らすように陽が射しこんで、彼女が余計に眩しく見えた。
俺は彼女に、そっと歩み寄った。消えてしまわないうちにと焦る気持ちとは裏腹に、足音を立てないよう、空気を動かさないよう、慎重に近づく。
「どうして、また……?」
「今ね、帰りの飛行機の中なの」
ああ……そういうことか。暁人は本当に勘が働く。抱きしめてやりたい気分だ。
「ありがとう、嬉しいよ」
心の中で暁人に叱られた。相手が違うだろって。
……飛行機か。目的地には、あっという間に着いてしまうだろう。飛行機という名の人力車ならよかったのに。
そんなくだらない考えを、慌てて頭から追い出す。
……予感がした。
俺は一歩、彼女に近づいた。まっすぐ俺を見上げる彼女の瞳は、とてもきれいだった。
俺は、彼女の、名前も知らない。住んでいるところも、もちろん知らない。
けれど、ここは夢の街。現実とは違う。名前だの何だの、そんなものは大した意味を持たない。同時に、約束、だなんていう確かなものも存在しない。
だから。
俺は彼女に笑いかけた。
せっかく夢で出会ったのだから、うつつを抜かしたことをしよう。
彼女の肩はこわれそうなほど細かった。指に、ふわふわとした髪が絡む。
彼女は俺を見上げたまま、まつげを伏せた。肩がわずかに上下し、頬に赤みが増す。そんな彼女を脳裏に焼き付けて、俺も目を閉じた。
触れたところから甘酸っぱい痺れが広がって、その軌跡をたどるように、感覚が消えてゆく。
全身が浮き立っているような気がした。自分が地に足をつけているのかどうかさえあやふやで、俺は腕に力をこめた。 感じたのは、確かなぬくもり。
ほんの少しの間だけ、時が止まったように思えた。
やがて、からだ全体に感じていた体温が、消えてゆく。
風の音と、わずかに聞こえていた彼女の息づかいが、消えてゆく。
次に消えたのは彼女なのか、それとも俺自身なのか、それを確かめることはできなかった。
☆
窓の向こうは、夕焼け空だった。飛行機雲はとっくに消えていて、かわりに朱に染まった雲が長く伸びている。
「おかえり」
はっきりとしない頭のまま、声のした方に顔を向けると、のんきにケータイをいじっている暁人と目が合った。
「サンキュ」
「いい夢見たか?」
「あぁ……」
暁人は口笛を吹いて立ち上がった。
「オレ、バイトだからもう帰るけど。あとで聞かせろよ」
「うーん……どうしようかな」
「お前、誰のおかげだと」
「わかってるよ」
「……その幸せそうな顔、ムカつくな。今聞かせろ」
「大したことじゃないよ」
「そんなわけ……やべ、間に合わなくなる。絶対きかせろよ!」
慌ただしく荷物をまとめて、暁人は部屋を出て行った。
階段を降りる音。お邪魔しましたーという声と、それに応える母さんの声。玄関のドアが開いて、閉まる音。
俺は目を閉じた。眠る気はない。ただ、現実の世界でも少しは夢に浸っていていいじゃないか。
ふと、いつかの暁人の言葉を思い出す。
お姫さまは王子さまのキスで目覚めたっていうけれど。
それじゃあ、言葉足らずだ。
同時に王子さまも、お姫さまとのキスで目覚めたんだよ。
真夏の夕暮れは、どうしようもなく夢心地だった。