其の四
天の帝と御簾越しに対面した迦具夜は、このとき帝の激昂に触れることになる。天の国と対立する地の国に嫁ぎたいと言い出す娘に対し、極刑を言い渡された迦具夜は地の帝と共に地下牢に幽閉された。
ひかりが届かないかび臭い石造りの部屋で、伝わってくる冷たさにふたりは身体を寄せ合った。地の帝の方はどうにか脱出の策を巡らしたが、迦具夜は地べたに座り込んでじっと耐えていた。もしかすると父が考えを改めてくれるかもしれない。だが迦具夜が助かったとしても地の帝は助かる見込みはまったくない。
「なぜ、天の国へ」
状況には似合わず迦具夜は落ち着いた声で地の帝に訪ねる。地の帝は一瞬鼻白んだ。そんなことを言ってどうなると言わんばかりだった。
「お前をただ――救いたかったのだ」
天の国より奪い返したかったのだ。
「他国のことなのに、余計なお世話……」
「会って思った。薄氷に留め置くにはもったいない」
「……」
「軽はずみな行動に、お前をこんなことに巻き込んで申し訳ない。皆から軽率な行動は慎めと、散々言われているが――どうしても嫁に行かぬ姫を見てみたかった」
「あなたが来なくても、いずれ私が地の国へと向かっていました。地の国ではなくとも、どこか見知らぬ国へ。あなたに会えなければ、迦具夜の心は死んでいたでしょう。感謝いたします」
どこか遠くで雫が落ちる音が響く。小窓もないのであれば、外界の様子など判りようがない。凍える冬がまたやってくる。
迦具夜は頭を地の男に預けた。笑みをたたえ、それだけで迦具夜は満足だった。たとえ死が間近に迫っていようとも、覚悟ではなく、あきらめでもなく、ただ男の胸を温かく感じたのだ。なるほど、地の帝はようやく焦る心から解き放たれ迦具夜をさらに強く抱き寄せる。
「石の鉢も火鼠の皮衣もみんな欲しいわけではなかったのです。欲しかったのは」
そこで初めて迦具夜は嗚咽を飲み込んだ。これは悲しみではない。男の袖を強く掴み、見上げる。互いの顔など、闇夜に慣れた目でも見つけることは困難である。もう二度と見ることはない。そのことだけが悔やまれた。
「もう欲しがるこどもではあるまい」
「ええ」
ほっと嘆息し、さらにきつく互いの着物を引き寄せたとき、鉄の扉の向こうからくぐもった声が響いた。地の帝は瞬時に反応し、扉に飛びついて耳を傾ける。空いた手は変わらず迦具夜の小さく細い手を握り締めている。握った手に地の帝は迦具夜が反応するほど力を加えた。
「なにか」
「内側から駄目なら外側から氷は溶かせとな」
髪をかきあげ、帝は扉から数歩離れた。
「ここだ」
太い声を響かせると、外でなにやら声がする。やがてさび付いた音がどこからともなく聞こえ、飛び込んでくる閃光に目がくらんだ。
「姫様っ」
「帝っ」
竹翁と地の侍従である。光のなかに彼らはいた。
目を手で覆い隠し、隙間からよくよく見て相手の正体を確認した迦具夜はぱっと顔を輝かせ竹翁に飛びつく。
「ご無事でしたか。さ、急いで行きますよ」
再会の感動もそこそこに、竹翁は牢の中のふたりを急きたてる。身体を冷やした迦具夜は身体の動きが鈍かったものの、事情を察して着物の裾をたくし上げる。
警備は薄かった。それも竹翁の采配か。天の帝の横暴は、警備兵たちに受け入れ難い事実だったに違いない。
地下牢から裏庭に出たときは、日は沈んだ後だった。
急いで用意された馬に乗る。
「竹翁」
馬上で迦具夜は竹翁に手を伸べた。事が天の帝に知られたなら、彼こそ地下に閉じ込められるだろう。だが翁は柔肌の手を取らず、代わりに首を振って微笑んだ。行け、翁は馬の尻を叩く。迦具夜の気持ちなどお構いなしに馬が走り出した。
「ちく」
叫ぼうとする迦具夜の口を、相乗りしている地の帝が口を塞ぐ。
「翁の様子はそのうち調べさせる。今は」
鞭で馬の速度を上げ、すでに屋敷は背後で小さくなっていた。
迦具夜は何度も後ろを振り返る。竹翁にあのような仕打ちをしたことだけが心残りだ。だが彼は最後まで微笑んでいなかったか。
「門出は笑え」
「……はい」
零れ落ちそうな涙を拭う。天の国を憎み不忠をするつもりは毛頭ない。できれば、自分こそ閉鎖的な天の国を開ける大事な橋でありたい。それには今すべきことがある。それが、それこそが「溶ける」ことであり、使命である。
「嫁に来い」
「あなたは、私の欲しいものすべてをくれますか」
不安そうに見上げる迦具夜を、地の帝は笑い飛ばした。
「いくらでもくれてやる」
それが物でないことはわかっていた。
「では――なりましょう」
力強く決意する迦具夜に、地の帝は破顔した。
こうして地の帝は天の国から迦具夜姫を奪い取ることに成功した。否、父の束縛から奪い取ったのだ。そして数年後、迦具夜は天の国の帝の前に現れることになる。
腹にひとつの光を宿して。