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其の二

 互いの息は荒い。

 半時ほど馬を走らせれば、薄い着物でも脱ぎたくなる。

 気の向くままに馬を走らせたはずだったが、残念ながら馬も迦具夜も実のところ冒険ができずにいた。

 川辺に沿うように赤と黄の反物が広がっている。地面にはこぼした葉が重なって茶色く変化し、馬の足を飲み込んで乾いた音を立てていた。

 迦具夜は下馬し、男も続いた。

「見事な紅葉だな」

 屋敷にももみじの樹は植えていたが、障子から見える一本だけであり、空の色と草の色、そして花の色を計算した上で造られた見目よき庭である。庭には息を飲むほど圧倒するなにかはなく、ただ美しき絵として存在しているにすぎない。

 だがここは違う。果てまで続きそうな樹木に、性急に流れる透明な水。ごつごつした岩肌が時折水面より顔を出し、獣が足場として利用する。自然の絵は乱雑で、時折乱暴なほど各所を強調する。

 季節は移ろいやすい秋。風は常に冷たく、静かではあるがざわめきに満ちていた。ひとりで立っていると飲み込まれてしまいそうで恐ろしい。

 吐き出す息は白い。

 景色にみとれて我に返ったときは、馬上で流れ落ちた汗が冷たくなって身体を冷やしていた。わが身を抱きしめる前に男が自分の羽織りを脱いで寄こす。

「春は一面に白い絨毯を敷き詰め、夏はそれが緑になって虫の音がうるさい。冬は全てが白くなる。見合いの後はいつもここに来ています」

 はあっと手のひらに吐き出す息をぼんやりと眺めながら迦具夜は呟くように言った。

「父が……お前は美しいからどこにでも嫁にいける。母は嫁に行けば幸せになれるという。結婚の結末が幸せというのなら、どこに嫁ごうが一緒ではないのでしょうか」

「少々極端だな。嫁に行かないというのなら、女に幸せはない。が、嫁に行ったところで幸せと感じるかは別問題だ。他人がどう思おうがな。だが少なくとも行かず後家よりは幸せなのだろう、と周囲は感じるわけだ。で、お前は納得しなかったんだな」

「……もうすぐ讃岐造さぬきのみやつこが来ます」

 だれだ、と男が目で問えば、迦具夜は薄く笑って答えた。

「竹細工を生業としている讃岐氏です。巷では竹翁ちくおうと呼ばれているようですが。私のお目付け役です」

「ではそれまでの間、お前と話をしたい。――嫁に来い。お前があの男どもに言った珍品の数々が欲しいならそう言え。たとえ偽物だとしても、お前の目を喜ばせる程のものを用意しよう。結婚が女の幸せなら、どこに嫁ごうが一緒だと――ああ、その通りなら、俺のところへ来い。どこも一緒だと嘲りながら、そこに留まれば朽ち果てることが目に見えていた。お前は結婚という女の幸せに興味を持ちながら、実際目の前にするとつき返す。ではなぜか。お前はただの飾りでしかないからだ。飾りとしか見ない男に我慢がならなかったのだ。お前に今あるのは、見目良い女だというただ一点に過ぎぬ。そこにお前の意志はまったくないからな。お前の景色を見て愛でる心にも、人を見分ける聡明な頭も、つまりはお前を受け入れているようで、自身を否定しているのだからな。また俺はお前の背後にある帝という地位も権力もいらぬ。お前ただひとり欲しい」

 迦具夜は男の羽織りを強く掴んだ。同じように飲み下さなければならない言葉の数々。

「言え。言いたいことがあるなら」

 しばらく川の流れを目で追っていた。迦具夜は息を吐き出し、音を立てずに吸い込んだ。

「冬になっても凍らないのです」

 男は問う前に迦具夜がなにを見ているのかと、同じ方向に顔を向けた。大人がふたり程の幅しかない川には、さして大きな変化はない。

「当たり前だ。流れる水は、たとえどんなに冷たくとも凍ることはない」

「不思議なことに。今朝、庭の池で薄氷が張っていました。毎年なのです。同じ場所に薄氷が、冬になると割れない氷になるのです」

「さしずめお前は薄氷だ。留まれば凍るぞ」

「割れましょうか、その氷は。誰にも割ることができない氷になる前に」

 答える前に、迦具夜の鹿毛が鼻を摺り寄せてきた。

 馬の背の向こうに、赤に混じって緑の人影が見える。人影は一つから三つに増えた。影はまっすぐに迦具夜たちに近付いてくる。

「父が……」

「さらってくれと言っているようなものだぞ、それは」

 迦具夜はじっと男を見据えた。男の目はまっすぐである。

「逃げる理由をつけるうちは引かぬぞ」

 竹翁たちを気にしながらも、男の声に耳を傾けずにはいられない。すでに彼らは声をかける間をうかがっている。

「俺のところへ来い」

「私にそのような命令を下す殿方は、父以外は初めて見ました」

「俺も男を嬲り者にする女は初めてだ」

「何者でしょう、あなたは」

 無邪気な、という形容が望ましい表情で迦具夜は笑いかけた。だが割って入った竹翁の声に、彼女の表情は凍りつく。

「この男は地の者でございます」

 耳元でささやく老人の声は、苦いものを口の中でいつまでも咀嚼しているときのように、不明瞭な響きであった。その内容を反芻し、恐る恐る男を見上げれば、迦具夜の困惑を悟った男がいた。

 翁は鮮やかな若竹の衣を身に纏い、頭を下げていた。

「天の都に帰ります」

 それが真実かどうかも確認しなかった。

「姫様」

 背後でそっと促す竹翁。すでに居合いの構えで翁の命令を待っている侍従ふたり。一歩、二歩とあとずさりする。先ほどまでの楽しい時間は頭から抜け落ちていた。

「待て」

 背を向けようとする迦具夜の腕をすかさず男が引く。瞬間、迦具夜の心はまた男の元へと引き戻された。だが、と。

「天に帰らせてください」

 男の正体を思うと背筋が凍るようだ。引き離そうとする迦具夜の力とそれを戻そうとする男の強い力。だが男は本気で迦具夜を引き寄せなかった。結果彼女の身体は竹翁の懐に預けられることになる。迦具夜はそれでも男から目を離せなかった。

 彼は手を離したままの姿で立ち尽くしている。ふたりの間を侍従たちが遮った。竹翁は男を迦具夜の目にさらさぬよう袖で目隠しをした。

 竹翁がゆっくりと歩き出す。馬がいなないた。枯葉が複数の足によって踏み潰される。男が掴み離した手首が熱く、そして氷のように冷たかった。迦具夜は男を見た。男も迦具夜を見る。周囲の一切の色と音が消えた。

――そんなもの。

 追いかけることさえしない男の態度に、迦具夜はひどく絶望を感じた。

――掴み損ねれば、そんなもの。

 結局、石造の皇子たちが苦心の末に献上した宝も、迦具夜が否といえばそれで終りなのだ。

――私は物ではない。

 品物を献上すれば結婚をする、そんなたわごとを石造りの皇子たちは信じたのだ。まるで自ら物々交換の対象とする自虐的なやりとりを、初めて男が否定した。それは奇跡だったのではないか。

――私は割ることなどできない薄氷。留まって凍えるのだ。

 自ら流れることも、流されることもできず。

 はた、と凍える手に温かい雫が落ちる。拭いもせず、立て続けに落ちるそれを、迦具夜はただ呆然と見つめるばかり。

 抵抗を失った迦具夜は、竹翁に抱きとめられるようにして鹿毛に乗せられた。男が渡した羽織がはらりと落ちる。一方の鹿毛は、相方が去っていくのを見て寂しげに鼻を鳴らす。   

男は尚も仁王立ちである。迦具夜をつなぎとめられなかった手が、まだ虚しく空を掴んでいた。



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