序章 否 終章
「欲しい殿方がいます」
小川の清涼な音だけが響いた。
迦具夜の父である天の帝が大きく息を吸い込み、同時に目を見開いて感情をあらわにする。迦具夜は、つと視線を上げて帝を見上げた。
彼女の表情に迷いはなく、普段在るべき困惑も不安も混在せず、強い意志のみが帝に訴えている。
帝は怒りに震えていた。天の国と対立する地の国の男にたぶらかされ、戒めのつもりで牢に入れたものの、育ての親である竹翁に解放された娘。どんな顔をして戻ってきたのかと思えば、吐き出す言葉の数々は帝の予想を大きく外したものばかり。
「――ほう。ほうほう。貴族どもをないがしろにし、お前が見初めた男はどこの男だ」
白々しいとは思いつつも、帝は顎をしゃくり震える語尾に力を込めて問うてみる。
「買えぬ殿方でありました」
即答する口調には、どこかしら嘲りが含まれていた。
いぶかしむ父が首を傾げる。
「値のついた価値のあるもので買えぬ殿方でございます」
帝の顔が一瞬にして紅潮する。憤怒に耐えるよう、彼の拳は膝の上で震えていた。
迦具夜の嘲りは、男にではなく帝に向けられていたのだと悟ったのだ。
「帝の上に人はおらぬっ」
買えぬ、とは不可能ということであり、帝の権力を持ってしても動かし難い事実があり、意志があるということ。身分の上で帝の上位にいる者など、誰一人として存在しない。にもかかわらず、帝の実子である迦具夜にどうにも出来ぬという事実に我慢がならなかった。
「故に」
言葉を区切り彼女は言う。
恭しく手をつき、ゆっくりと頭をさげた。
「真実、私の夫になられました」
これに帝は立ち上がり、側の茶器を迦具夜に向かって投げつけた。頬を掠めこそしたが、傷みに迦具夜は顔をゆがめることなく、代わりに艶やかな赤い唇に孤を描いた。