夜明け前のエトランゼ
「これはなかなか完治は難しいでしょうねえ。どうしたもんでしょうかねえ。まだ二十四歳だというのに。」
目の前に座った、白髭を無造作に蓄えた年老いた医者はそう言った。
どこかで覚悟はしていた。もう治らないのではないかと。ただ、喉の奥と目の奥に沸々とくる熱さがあった。それを表に出すまいと必死だった。
誰が悪いわけでもない。自分も医者も周りの助けもあって、この結果になった。この世界には偶然に起こることもあれば、必然的に結果が決まっていることもある。これは必然的に決まっていた運命だと思いながら、不味くて喉越しの悪い酒を胃に押し込むかのごとく唾を飲み込み、私は言葉を発した。
「わかりました。また相談があったら来ます」
「八坂さん、本当に申し訳ない」
「いえ……」
やり取りは短かったが、一音一音を鮮明に思い出せるほど長く感じた。
「お疲れ様です」
翌朝、一言挨拶をしてコンビニのバックヤードに入る。
「八坂さん、来て早々にごめんなさい。男の人の方が高いところ届くと思うから、そこのポスター貼りに行ってくれる? タイムカード入れた後でいいからさ。朝七時までにお願い」
同じシフトの三崎さんが声をかけてきた。四十歳前後の女性スタッフだ。
「わかりました。やっておきます」
素早く制服に着替え、業務に取り掛かる。VTuberのキャラが五人ほど描かれたポスターには〈対象のお菓子三個でクリアファイル無料〉と書かれてあった。
貼りに向かっていると、棚の間から子供が走り出してきて、間一髪のところで避けた。
「ごめんなさーい。こら、湊、店内では走っちゃダメでしょ。」
後ろから二十代前半くらいの小柄な女性が小走りでやってきた。きりっとした顔立ちだが、目の奥にはどこか慈しさがあった。小綺麗にはしているがメイクは薄く、ネイルもない。その中で目についたのが、底がすり減り、色もかなり汚れた白のスニーカーだった。
「いえ、お子さんに怪我がなくてほんとによかったです」
「ごめんなさい。この子いつもそそっかしくて……。でも、よく避けられましたね」
「なんとなく来る予感がして」
「何ですか、それ」
微笑むと目が細くなり、どこか自分にしか向けられていない表情にさえ感じられた。
「あ、ごめんなさい。私もう行きますね」
籠の中には、お菓子が三個だけ入っていた。
仕事が終わりに差し掛かった頃、お菓子の補充をしていないことを思い出した。
「三崎さん、お菓子の補充行きますね」
「あ、もうやっといたわよ。あとこれ」
三崎さんが名刺入れを渡してきた。
「さっき子どもとぶつかってたでしょ。そこに落ちてたわよ。そこに入っている鳴川美容室ってところに届けてきて」
「ぶつかってはないですけど……」
開くと〈鳴川美容室 鳴川那胡〉と書かれていた。
「髪も伸びてるし、ちょうどいいんじゃない」
「髪を切るかは別ですけど、全然行きますよ。この後予定ないですし」
「あら、嫌がると思ってたけどすんなり行くのね。もしやあの女の人に惚れたとか。あんまり略奪愛はおすすめしないわよ」
「そんなんじゃないです。じゃあパパっと行ってきますね。」
俺はタイムカードを入れ、逃げるように「お疲れさまでした」と告げてその場を後にした。
鳴川美容室は大通りからはまるで見えない所にあった。農業高校の裏門側の道を進み、用水路の橋を渡る。住宅街ではあったが、それがむしろ見つけるのを困難にさせた。小さな看板の横は店舗兼住宅になっており、車が四台ほど止められるスペースがあった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。ご予約はされてますか。」
朝見かけたばかりの姿の鳴川さんがそこにいた。
「あ、朝コンビニでお会いした方ですよね。」
「はい、実は……」
「びっくりしました。こんなところでまた会うなんて。」
俺が話す間もなく矢継ぎ早にそう告げ、こちらの視線に気づくと微笑み返してくれた。
「今日は髪を切りに来たわけではなくて、こちらを渡しに来たんです。」
名刺入れを差し出すと、鳴川さんはまた驚きの表情を浮かべた。
「あ、ごめんなさい。失くしたと思ってたんですよ。今日はご迷惑かけてばかりですね。」
「いえ、無事届けられてよかったです。それでは……」
「ちょっと待ってください。良ければ髪切っていきませんか? ちょうど伸びてるみたいですし。無料でやりますよ。」
「いや良いですよ。無料なんて申し訳ないですし。……でもやっぱり、せっかくなんでお願いします。料金はちゃんと払います。」
歯切れは悪かったが、もう少しこの場にいたい気持ちがそう言わせていた。
「ありがとうございます。サービスして安くしときますね。」
鳴川さんは器具の棚へ向かっていった。
俺は二席あるうちの一つに座った。もう一席はきれいにしてあったが、コンセントは抜かれ、ひじ掛けには毛布が置かれていた。棚には器具が一セット分置かれたまま、今は使われているようには見えなかった。
「では、はじめますね。どんな髪型にしますか?」
「あ、えっと、こだわりないのでお任せでお願いします。」
「わかりました。じゃあ私の思うかっこいい髪形にしときますね。もし気にいらなかったら、また来てください。」
少し意地悪そうな口調だった。鏡越しに微笑まれ、髪が切られていく。
「隣の椅子は今使ってないんですか? まだあんなに綺麗で使えそうなのに。」
三秒ほどの沈黙があった。髪を切るスピードも遅くなった気がした。聞いてはいけないことを聞いたのではないかと、気道が狭くなるのを感じた。
「ごめんなさい。気になりますよね。今までは常連さんしか来たことがなかったので、質問されなくてびっくりしちゃいました。」
「いえ、自分もすぐ気になっちゃうタイプで、不躾な質問してごめんなさい。」
「気にしないでください。まだ現実を飲み込めてないだけなんです。八坂さんが悪い人ではないと思うんで話そうと思うんですけど、二週間前に夫が事故で亡くなったんです。」
俺は大粒の唾を飲み込んだ。高く語尾の上がる声が、明らかに低く、平らなものに変わっていた。
「夫は私と一緒にこの美容室で働いていて、隣の椅子は夫が使っていたものなんです。」
何も返せなかった。二週間前のニュースを思い出す。同じ市内でトラックにはねられ、意識不明の重体で運ばれた事故。映像には、さっき通った用水路が映っていた。息が詰まり、全身の毛が逆立つ感覚があった。俺の五年前の事故と状況が一緒だった。俺も意識不明の重体で運ばれ、命を取り留めた。しかし後遺症が残り、職場には復帰できず、夜には痛みでまともに眠れもしなかった。一人でいるときに急に涙が出てくることさえあったが、三年前にはその涙さえ枯れてしまった。
「その夫が言ってたんですよ。俺は誰かに変わることはできないけど、俺に変わることはできる。だから俺自身が生き続ければいいんだって。」
「良い……言葉ですね。」
枯れたはずの涙が、視界をぼやかすほどに溢れそうになっていた。
「ごめんなさい。どこか痛かったですか?」
「いえ……とても良いご主人ですね。」
「いつか帰ってくるといいんですけどね。」
彼女のトーンは元に戻っていた。鏡越しの目に涙はなく、優しく微笑んでいたが、目の奥の熱さや喉の震えのようなものが感じられた気がした。
料金を支払うとき、俺は一万円をプラスで置いた。
「え? 多すぎませんか?」
「一万円はご霊前です。ご主人様に渡しといてください。」
「いえ、そんなのもらえないです。」
「でしたら、今度来た時のお金として取っておいてください。また来ます。」
俺は逃げるようにその場を去った。背後で「え、でも……」という声がしたが、気にしなかった。
あの日から、わずか十日しか経っていなかった。
朝の光がまだ白く反射する午前八時半。俺は農業高校の裏門へ続く細い舗装路を、吸い寄せられるように歩いていた。昨夜も、骨と神経の継ぎ目に棲みついた炎は、俺の自由を奪い続けていた。
用水路の小さなコンクリート橋を渡ると、水のせせらぎが痛みを掻き消してくれるようだった。
控えめな看板が見えたとき、俺は立ち止まり、自分の前髪を指先でつまんだ。まだ十日だ。散髪の必要など欠片もない。それでも、押し付けてきた一万円札と「また来ます」という約束、そして会いたいという感情が、俺の身体を引き寄せた。
カラン、とドアベルが乾いた真鍮の音を立てる。
「いらっしゃいませ……あ」
鏡の前でハサミを拭いていた那胡さんが、驚いたように目を見開いた。淡い生成りのエプロンに、ゆったりとした薄手のニット。結い上げた黒髪の襟足に、数本のおくれ毛が遊んでいる。
「八坂さん……ですよね? どうされたんですか? 忘れ物でも……」
「いえ、その……」
俺は喉の奥から掠れた声を絞り出した。
「髪を……整えてもらえないかと」
那胡さんは一瞬きょとんとした後、吹き出すのをこらえるように口元を覆った。
「ふふっ、八坂さん、まだ切ってから十日ですよ? そんなに私の腕、悪かったですか?」
「あ、いえ! そういうわけじゃなくて……前髪が少し目にかかる気がして。それに、この前の料金も……」
「もう、冗談ですって。入ってください。」
黒いケープが首元に巻かれる。彼女の指先が首筋をかすめた瞬間、微かなホワイトムスクの香りが鼻腔をくすぐった。それだけで、背中を刺す痛みが和らぐような錯覚を感じる。
櫛が頭皮を滑るたび、サク、サクとハサミが小気味よいリズムを刻む。
「八坂さん、あの日置いていかれた一万円、引き出しにしまってあるんですよ。今日こそ持って帰ってくださいね」
「いえ、あれは……ご霊前ですから」
「ダメです。」
淡々とした声だったが、ハサミの先がわずかに震えたのを俺は見逃さなかった。
俺は空気を変えようと、棚の上の薄紫色のクリアファイルに目をやった。コンビニのキャンペーンの品だった。
「あのお菓子、湊くんが好きなんですか?」
「これですか?」
那胡さんは手を止め、鏡越しにそれを見つめた。
「ううん、湊じゃなくて、私が買ったんです。この真ん中の男の子のキャラクター目当てで」
「那胡さん……VTuberを見るんですね。」
意外だった。小さな子どもを抱え、美容室を切り盛りする生活に、そうした余白があるようには思えなかった。
「変ですよね。」
照れくさそうに、しかし慈しむような眼差しで彼女は語り始めた。
「二週間前、夫が亡くなってから……夜、湊を寝かしつけた後、この家がとても静かになるんです。時計の針の音が心を振動させるくらいまで。そんな時、偶然おすすめに出てきたこの人の配信を観たんです」
彼女の指が、濡れた髪を優しく梳く。
「声がね……夫に似ているんです。少し低くて、語尾が照れくさそうに上がる癖まで。目を閉じていると、まるで夫が楽しそうにお喋りしているみたいで……。それ以来、毎晩流しながら眠るようになったんです。コンビニで見かけた時、どうしても欲しくなっちゃって。お菓子三個抱えてレジに走っちゃいました」
自嘲気味に笑う瞳の奥に、薄く涙の膜が張っていた。
「……変なんかじゃ、ないです」
俺は鏡の中の彼女を真っ直ぐに見つめた。
「誰かの声を支えにしてでも、今日を生きなきゃいけない夜は……誰にだってあります」
那胡さんはハサミを持ったまま、息を呑んで俺を見た。
「八坂さんにも、そんな夜がありましたか?」
「ええ。毎晩のように……」
「……この靴もね」
ふと、彼女は足元のスニーカーに目を落とした。
「夫が去年の誕生日に買ってくれたんです。『立ち仕事なんだから、足だけは大事にしろよ』って。洗っても汚れが落ちなくなっても、捨てられないんです。」
汚れたつま先を愛おしそうに眺めるその姿は、失われた夫への愛そのものだった。
汚れたスニーカー。架空のキャラクターに重ねる夫の声。那胡さんは過去に縋りつきながらも、息子のために今日を懸命に生きていた。その柔らかな優しさは、気高い祈りのようだった。
散髪が終わる頃には、俺の心は完全に奪われていた。
彼女の痛みを、俺が背負うことはできないだろうか。身の程知らずな恋情が、疼く傷口の奥で芽吹いていた。
それからの日々は、まるで夢のように色づいていった。
きっかけは、帰り際に用水路へ落ちた湊くんのミニカーを、俺が身を乗り出して拾い上げたことだった。
「お兄ちゃん、すごーい!」
小さな両手が俺の手を握りしめる。それを見た那胡さんは、申し訳なさと感謝の入り混じった顔で、お礼に夕飯をと俺を自宅へ招き入れてくれた。
「八坂さん、背中……痛むんですか?」
無理な姿勢をとったせいで強張った背筋を、彼女は一目で見抜いていた。
「少し、昔の傷が疼くだけです。気にしないでください」
「待っててくださいね」
那胡さんは温かい蒸しタオルを持ってくると、俺の背中にそっと当てた。
「無理しちゃダメですよ。事故の後遺症なんでしょう? 男の人って、すぐ平気なふりをするんだから」
タオル越しに手のひらの感触が伝わってくる。
「……あったかいです」
夜勤明け、俺は頻繁に鳴川美容室へ立ち寄るようになった。重いシャンプーボトルの搬入を手伝い、湊くんの保育園の迎えに付き添い、夕方には三人で食卓を囲む。
「八坂のお兄ちゃん、今日も泊まっていけばいいのに!」
「こら、湊。お兄ちゃんもお仕事があるんだから、困らせちゃダメよ」
そう叱りながらも、那胡さんはどこか甘えるような視線を投げかけてくる。
三人で出かけたスーパーでは、近所の人に「あら、那胡ちゃん、いい旦那さん見つけたのね」と声をかけられた。真っ赤になって否定する横顔には、微かな恥じらいと、満更でもない安らぎが浮かんでいた。
ある雨の夕暮れ、店じまいを手伝っていた時だった。
激しい雷雨で、店内の明かりがふっと落ちた。
「きゃっ……!」
暗闇の中で悲鳴を上げた那胡さんの身体が、俺の胸に倒れ込んできた。
「那胡さん……」
「ごめんなさい、私……雷が、どうしても苦手で……」
震える背中に、俺は思わず腕を回した。五年前の事故以来、誰にも触れようとしなかった腕が、自然と彼女を抱きすくめていた。
「大丈夫です。俺がいますから」
那胡さんは俺の胸に額を押し当て、微かにシャツを握りしめた。
「八坂さん……あなたの心臓の音、すごく力強い……」
「那胡さん、俺は……」
唇が触れ合うほどの距離。彼女の濡れた瞳が暗がりで潤んでいた。彼女が求めているのは、今ここにいる男の熱なのか。それとも、失われた幻影の温もりなのか。
その時、パッと照明が復旧した。
那胡さんはハッとしたように身を引いた。その視線が、毛布の置かれた「夫の椅子」へと泳いだのを、俺は見逃さなかった。そして彼女は、今も変わらずあの薄汚れたスニーカーを履いている。
彼女が俺を見つめる時、その瞳の奥には常に「誰か」が映っている。私を気遣う優しい手も、温かい言葉も、すべてあの亡き夫へ注がれていた愛情の残滓ではないのか。
『俺は誰かに変わることはできないけど、俺に変わることはできる』
かつて彼が遺したという言葉が、呪いのように木霊した。
翌日、俺は再び鳴川美容室を訪れた。空は鉛色の雲に覆われていた。
湊くんは奥の居間で昼寝をしていた。店内には有線のジャズだけが低く流れている。
「八坂さん、いらっしゃい。お茶淹れますね」
那胡さんは昨夜のことなど何事もなかったかのように、いつもの笑顔で湯呑みを置く。その献身的な仕草が、今の俺には耐え難い拷問だった。
「那胡さん」
「はい?」
「……俺、もうここには来られません」
那胡さんの手から茶筒の蓋が滑り落ち、トントンと床を転がった。
「え……? どうして、ですか? 私、何か失礼なこと……」
「そうじゃないんです!」
思わず声が荒くなった。喉の奥に、五年前と同じ煮え滾る塊がせり上がってくる。
「那胡さんが優しすぎるからです。俺なんかに……身体も壊れて、未来もないような、コンビニのバイトで息を切らしているような男に、どうしてそんなに優しくするんですか!」
「八坂さん、そんなこと……私は、八坂さんだから……」
「嘘だ!」
俺は立ち上がり、隣の空席を指差した。
「那胡さんが見ているのは俺じゃない! その椅子に座っていたご主人だ! Vtuberの声を聞いて泣くのも、あの汚れたスニーカーを履き続けるのも、全部ご主人を忘れられないからでしょう!?」
「それは……!」
「俺はね、那胡さんのことが好きなんですよ!」
叫んでから、視界が滲んだ。枯れたはずの涙が堰を切ったように溢れ、顎からボロボロと零れ落ちた。
「好きだから……苦しいんだ。笑いかけてくれるたびに、俺の傷を心配してくれるたびに、胸が張り裂けそうになる。俺は、あのご主人の身代わりになんてなれない!」
全身の神経が逆立っているのを感じた。
俺は五年前、休みの日に街を歩いていて、トラックに撥ねられた。訓練でも任務でもない、ただの帰り道だった。生き残ったのは奇跡だと言われた。だが、鍛え上げた肉体は失われ、重い荷物一つ持てない身体になった。仲間たちは前線へと旅立ち、俺だけが取り残された。
誰かの代わりにもなれない、空っぽの抜け殻。そんな男が、この尊い女性の愛の器を埋めることなど、許されるはずがなかった。
「八坂さん、待って、聞いて……!」
縋りつこうとした腕を、俺は振り払ってしまった。
「ごめんなさい。もう、忘れてください」
背後で「八坂さん!」と呼ぶ悲痛な声が響いたが、俺は一度も振り返らずに走り出した。
激しい痛みが背中を突き刺す。呼吸が喉でヒューヒューと鳴る。それでも俺は走った。彼女の優しさから、自分自身の卑小さから、逃げ続けるように。
気がつくと、俺は港のフェリーターミナルにいた。
雨が降り始め、冷たい潮風が頬の涙の跡を撫でていく。ポケットの小銭をかき集め、対岸へ渡る片道切符を買った。
甲板に立ち、遠ざかる街の灯りを眺める。対岸の街には、かつて俺が所属していた陸上自衛隊の駐屯地がある。
船が着くと、俺は憑かれたように坂道を登った。
高くそびえるフェンス、降りしきる雨の中、グラウンドからは野太い号令と、泥を蹴る足音が響いていた。
「――状況終わり! 駆け足、進め!」
迷彩服に身を包み、重い背嚢を背負って泥濘を走る男たち。彼らの吐く白い息は、生命の輝きに満ち溢れていた。
かつて、あそこに俺がいた。誰よりも速く走り、誰よりも重い荷を担ぎ、国を守る盾になると信じて疑わなかった。
だが今の俺は、コンビニのポスターを貼るだけで息を切らし、棚から飛び出してきた子どもを避けることしかできない。
フェンスを握りしめようとして、俺は手を引っ込めた。「おい、八坂じゃないか!」と駆け寄ってくるかつての同期を想像するだけで、胃の腑が痙攣した。彼らは今も戦っている。前を向いて生きている。
一方の俺は、過去の痛みに怯え、愛した女性の優しさにすら耐えきれずに逃げ出した負け犬だ。
「……何やってんだよ、俺は」
膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、俺は駐屯地に背を向けた。
引き返した港は、夜の帳が下り、最終の連絡船を待つ静寂に包まれていた。
ペンキの剥げた木製のベンチに腰を下ろす。海は暗く、底知れぬ黒い口を開けていた。
雨水が前髪を伝って滴り落ちる。それが雨なのか涙なのか、もう判別がつかなかった。背中の痛みがピークに達し、呼吸をするたびに肋骨の奥がきしむ。
俺は両手で顔を覆い、喉の奥から絞り出すような嗚咽を漏らした。
「う……あぁぁっ……!」
誰もいない埠頭に、俺の惨めな泣き声だけが木霊する。
死に損ないの五年間。何のために生き残ったのか。なぜあの日、トラックの下で息絶えなかったのか。
那胡さんの笑顔が浮かぶ。湊くんの笑い声が耳をかすめる。触れたかった。愛したかった。彼女の隣で、あの痛みを共に抱いて生きていきたかった。だが、その資格が自分にはない。
ポォォォ――ッ。
霧を切り裂くような汽笛が鳴り響いた。最終のフェリーが鈍い水煙を上げながら接岸する。
乗客を降ろすための階段が繋がれ、まばらな乗客が降りてくるのが視界の端に見えた。だが、俺は顔を上げることすらできなかった。
パタ、パタ、パタ。
濡れたアスファルトを叩く、焦ったような足音が近づいてくる。水たまりを撥ね散らかしながら、一直線にこちらへと向かってくるその音は、やがて俺の目の前でぴたりと止まった。
視線をわずかに向ける。
雨と泥にまみれ、ずぶ濡れになった――底のすり減った、白いスニーカーがあった。
「……あ」
ゆっくりと顔を上げる。
ずぶ濡れの髪を頬に張り付かせ、肩で激しく息を切らした那胡さんが立っていた。傘も差さず、薄いカーディガンは肌に張り付き、唇は寒さで震えている。
「那胡……さん……? どうして……」
「探した……探したんだから……っ」
大粒の涙が、雨水と混じり合いながら顎を伝って落ちた。
「家を飛び出して……港に向かったって聞いて……。湊を三崎さんに預けて……次の船に乗って……っ」
「どうして……俺なんかを追ってくるんですか。俺は那胡さんを傷つけて、酷いことを言って逃げたんだ。俺なんかいなくなれば……」
言葉は最後まで紡がれないまま、那胡さんが俺の胸へと飛び込んできた。
両腕が首筋に回され、濡れた顔が首元に強く押し付けられた。冷え切った体温。だが、その芯から放たれる熱が、俺の凍てついた皮膚を溶かしていく。
「ばか……っ!」
彼女は俺の背中に爪を立てるようにして、力のかぎり抱きしめてきた。
「誰が……誰が身代わりにしようとしたなんて言ったの!? 勝手に決めつけないでよ……っ!」
「那胡さん……」
「確かにね、最初は重ねて見てたかもしれない。同じような事故に遭って、同じ言葉を言ったあなたを見て、夫のことを思い出してた……。でもね、違うの。違うのよ!」
彼女は顔を上げ、俺の目を間近から見つめた。その瞳には、見たことのないほど激しく、揺るぎない光が宿っていた。
「私のスニーカーの汚れに気づいてくれたのは、あなただけだった! くだらないVtuberの話を、馬鹿にしないで『生きなきゃいけない夜がある』って言ってくれたのは、八坂さん、あなただけだったのよ! 痛む背中をかばいながら湊を抱き上げてくれた時の、あなたの優しい手が……私の凍りついていた心をどれだけ救ってくれたか、わからないの!? 私が今、隣にいてほしいのは夫の亡霊じゃない! 傷だらけで、不器用で、泣き虫で……それでも一生懸命に今日を生きようとしている、八坂さん、あなたなの!」
「でも……っ」
俺は彼女の肩を掴み、苦渋に満ちた声を絞り出した。
「俺は身体も心も壊れた男だ。昔のようには働けないし、ご主人のように立派な人間にもなれない。俺は、あのご主人の代わりには……どうしてもなれないんだ……!」
那胡さんは再び俺を強く、そして包み込むように抱きしめた。
柔らかな唇が、俺の耳元にそっと触れる。
「代わりになんて、ならなくていいの」
彼女の手が、俺の強張った背中を、傷跡の奥を愛おしむように撫でた。
「夫の代わりなんて、この世のどこにもいない。……それと同じようにね、八坂さんの代わりも、どこにもいないのよ」
声が、涙で微かに潤む。
「代わりになれなくても……そばにいて良いんだよ」
その瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れ去った。五年間、自らを縛り付けていた重い鎖が消えていった。
代わりにならなくていい。役に立たなくてもいい。ただ、この壊れた身体のまま、この不完全な命のまま、彼女のそばにいていいのだと。
「あ……あああ……っ!」
俺は那胡さんの細い腰に両腕を回し、力いっぱい抱き締め返した。背中の激痛など、もうどうでもよかった。彼女の体温が、彼女の涙が、俺の魂の奥底に巣食っていた暗闇を、光で満たしていく。
二人は雨に打たれながら、波止場のベンチの前で、互いの存在を確かめ合うように抱き合い続けた。
黒く冷たい海はいつしか波を静め、遠くの水平線には街の微かな光が揺れていた。
翌朝、雨は完全に上がり、透き通るような秋の青空が広がっていた。
港から最初の船に乗り、俺たちは街へと戻ってきた。
那胡さんの手には、ずぶ濡れになって役目を終えた白いスニーカーの入ったビニール袋が握られていた。そして足元には、港の売店で買ったばかりの、安っぽいが真新しいスニーカーが光っていた。
「那胡さん、それ……どうするんですか?」
俺が袋を指差すと、那胡さんは柔らかく首を横に振った。
「ちゃんと洗って、乾かして、靴箱の奥にしまっておくの。今までありがとうって、夫に言いながらね」
その横顔には、もう過去に縋る影はなかった。大切な記憶を愛おしみながら、新しい一歩を踏み出す人間の、清々しい強さが宿っていた。




