呪紋の覚醒42
「教えてくれるのなら、聞くよ?」
圭の科白に、ケイオスが動く。彼の細い腕を掴み、荒々しくその背中を世界地図へ押しつけていった。
「っ!」
背中に痛みを感じ、圭の表情が僅かに歪む。
テーブルの上に積み重ねられていた書物は、ケイオスが圭を押し倒した勢いで床へと散らばってゆく。
「……どういうつもりなの? ぼく、冗談でもこういうのは好きじゃないよ」
圭の冷え冷えとした双眸が、真上にあるケイオスの顔を見据えた。
「何だ、驚かないのか」
「驚かないよ。だって、さっきの貴方の表情、ぼくをからかうような感じだった。――驚いてほしかった?」
そう言って圭は艶然と微笑み、ケイオスの頬へと手を伸ばしていく。彼の中で、何かのスイッチが入ったようだ。
「男のぼくを押し倒して……それからどうするつもりなの?」
その頬を誘うように撫で回し、圭の手はゆっくりと彼の首許へ滑り降りてゆく。そんな彼に対して、ケイオスは背筋を這い上る言い知れない何かに身体を強張らせた。
ケイオスの異変を知ってか知らでか、圭は彼の首に自分の両腕を絡める。次いで、彼の身体を強引に引き寄せ、その耳元へゆっくりと唇を寄せていった。
「止めといた方がいいよ。……そういう趣味はないから、どうなっても知らないよ?」
囁くようにそう忠告をし、ケイオスの耳に息を吹きかけて赤い舌でぺろりと舐め上げる。
ぞくりと、ケイオスの背筋に再び何かが這い上がった。
「……放せ」
努めて落ち着いた口調で言って、彼は圭から無理矢理に身を引き離すとすかさず退いていく。そんな彼に、圭はテーブルから上半身を起き上がらせた。
クスクスと、圭の口から笑いが漏れる。
「からかうのはいいけど、これからはちゃんと相手を選んでね」
ケイオスを一瞬だけきつく睨み、彼は静かにテーブルから下りていった。床に散らばった書物を簡単に片し、テーブルを挟んでケイオスと向かい合うように椅子を運んでくる。
口調そのものは変わっていないが、圭の唐突に変わる態度や行動に、ケイオスは訝しげな視線を向けるしかない。
(人間はこうもすぐに変わるものなのか? いや、有り得ん。そう易々と培ってきたものを変えることは出来ん)
当然だが、彼は圭を深く知らない。知らないが、ほんの僅かな時間でも接していれば、どんな性格なのかは大体予想がつく。今現在の態度や行動は、見るからに本来の性格と真逆に位置するものだ。
(だとなれば、演じているか或いは呪紋の影響から来るものか。……暫くは泳がせておく必要があるな)
圭の変化は今のところ、ケイオスにのみ向けられている。無論、そんなことを彼が知るはずもない。
「ケイオスさん、話をしようよ」
ケイオスの視線の先で、圭が運んできた椅子に座って会話を促した。単なるからかいの対象とは言え、自分よりも遥かに大柄な男に押し倒されたのにも関わらず、彼の態度から緊張した様子は見られない。その落ち着き振りは、一体何処からやって来るのだろうか。
「お前は、俺が恐くないのか?」
圭に問いかけながら、ケイオスは自分の椅子へと腰を下ろしてゆく。テーブルに両肘をついて手を組むと、圭を探るような鋭い目で見据えた。
「……似たようなことがあったからかな。怯えたって、何にもならないことがよく判ったよ。貴方こそ、ぼくを失礼な子供だと思ってるんじゃないの?」
その問いは、年上に対する口の利き方や態度などが含まれているに違いない。
「いや、どうとも思わん」
まるで興味がないとでも言うような、素っ気ない返答だ。そんなケイオスへ、圭は目つきを僅かに鋭くさせながら視線を注いでいく。
「ぼくに仕掛けてきた以上、ぼくはそれを知る権利はあるよね。ちゃんと説明してよ」
「冗談のままだと思わないのか?」
「ぼくはそこまで単純じゃないよ。今までの貴方を見る限り、貴方は無駄だと思うことは一切しない人みたいだ」
圭の冷静な指摘に、ケイオスは胸の前で腕を組むと小さな笑みを見せた。
「ただの甘ったれた子供かと思っていたが、意外と冷静に見ているのだな」
「その甘ったれた子供を押し倒しておいて、逃げるように離れたのは誰かな?」
「ふん、随分と口が動く」
そこで会話が途切れ、二人は互いを見据え合う。睨み合いのようなその行動は暫く続いたが、ケイオスが小さな溜め息を吐くことによって場の空気が動き出す。
「……分かった」
ケイオスの言葉に、圭がふっと表情を和らげた。そんな彼を眺めながら、ケイオスは無表情に語りだす。
「先程、歪みを作ることによって俺自身に影響があると言ったな。世界が安定していないとは言え、本来ならば呪紋の力で空間に歪みを作ることなど不可能なことだ。それを可能にすべく無理に力を行使し続けることによって、自我を持ちながら呪紋の暴走とよく似た状態に陥りやすくなる」
「――それで、さっきの行動に繋がるんだ」
「ああ、そう言うことだ。あれは単なる戯れに過ぎないが、そうなってしまえばお前に何をするか判らん。俺の部屋に居る以上、用心するんだな」
「要するに意識があるかないかの違いだけで、暴走することに変わりないんだね。……忠告をありがとう、ケイオスさん」
そう言って、圭はにこりと笑んだ。微笑みながら、さらに言葉を継ぐ。
「もしも貴方が暴走に陥って、ぼくの方に矛先が向いたら、その時は遠慮なく歯向かうからね?」
小首を傾げる様は、その容姿と相まって無邪気で可愛らしいことこの上ない。だが、口から出てきたものは、それとは裏腹な言葉である。
あまりの違和感と居心地の悪さに、ケイオスは僅かに眉間へ皺を寄せた。そんな彼の様子を見取り、圭は表情から笑みを消してゆく。
「そう言えば――明日からみんな、ここを出払うんだよね。ひょっとして、その間は貴方がぼくを見るの?」
「ああ、そうだ。俺では不満だ、とでも言いたいのか?」
ケイオスの言葉に、圭が否定するようにゆっくりと首を左右に振る。そして、彼の心を見透かすように目を細めていった。
「それは貴方の方でしょ? ぼくと一緒に居て、大丈夫?」
「何故、俺にそんなことを訊く?」
「解らない? それとも気づかない振りをしてるの? それなら、別にいいけど」
それでこの話は終いとばかりに、圭は口を閉ざし静かに笑む。そんな彼に疑問を残しつつも、ケイオスはその件は不必要なものだと判断し世界地図に視線を落とした。
圭は何をする訳でもなく、作業を再開するケイオスの姿をじっと眺めてゆく。そんな彼に気付きながらも、ケイオスは努めて作業に集中していった。
ケイオスの作業を暫く眺めて、圭はふいに椅子から立ち上がる。そして、彼に行き先を告げることもなく、静かに部屋を出てゆく。それに対して、ケイオスが彼を咎めようとする様子は見られず沈黙したままだ。
圭が向かう先は塔の外である。螺旋状の階段を立ち止まることなく下り、塔の一階へ辿り着くと躊躇なく外へ出て行った。
古の森の空を見上げれば、時はゆっくりと夕刻へ近付いてゆこうとしている。夜が訪れ暗闇に閉ざされるまでまだ時間に余裕があり、昨日よりは彼らから逃げ遂せられる可能性が高い。しかし、圭の頭に逃げ出すと言う選択肢はもうない。
守護の塔の前から足を進め、圭はリークとイディアに連れられて行った場所へ訪れた。塔から離れた木々の開けた空間の中心部で立ち止まり、ゆっくりと目蓋を閉じて二回ほど深呼吸をする。
(何とかして、早く力の制御を身につけなきゃ……)
やがて精神が落ち着くと、圭は双眸を開き真剣な面持ちでリークに教えられた力の制御を黙々と無心に繰り返してゆく。彼をこうして突き動かすものは、やはり他でもない翔平の存在だ。
圭の自主的な訓練は、時間を忘れたかのように続けられる。夕陽が沈み暗くなった空に二つの月と星々がはっきりと姿を見せ、ケイオスがランプを持って迎えにやって来るまで終わりを知らなかった。
温かな火が灯るランプで辺りを照らしながら近付いてくる存在に気付き、圭はふっと息を吐き出し肩の力を抜く。
「ぼくが心配になって、迎えに来てくれたの? 安心してよ、もう逃げないって言ったでしょ?」
ケイオスに視線を向けながら圭が開口一番に言えば、彼は僅かに呆れたような表情を見せた。
「生憎だが、心配などしていない。――そろそろ時間だ。今のお前でそれ以上の力の酷使は、毒としかならん。明日サンデストへ向かうのであれば、さっさと部屋に戻れ」
「……なんだ、やっぱり心配してたんだ」
心配の意味合いが違うことに、圭は口許に微笑を浮かべる。
「もう終わらせるから、安心してよ。創造の紋章の全てを手にするまで、そう簡単に倒れるわけには行かないもん」
その言葉に対して、ケイオスが何かを言うことはない。無言のままでその場から踵を返してゆく。圭は努めてその歩調に合わせ、彼の後を追っていった。
梟の声や虫の音が響く中、ケイオスに案内されるように元来た道を辿り、守護の塔へと歩き進んでいく。呪紋の所持者たちは明日に向けて寝に入ったのか、塔に明かりはなくしんと静まり返っている。唯一の明かりは、古の森の全てを微かに照らしている二つの月のみだ。
二人の間に会話は交わされることはなく、塔の最上階を目指して螺旋状の階段を黙々と上る。そうして、漸く目的の部屋へと着いた。
彼の部屋を改めて見回し、圭は僅かに困ったような表情を浮かべる。
「あの、ケイオスさん。毛布を一枚貸してくれませんか? 床で直に寝るのは、ちょっと背中が痛くなっちゃうので」
圭がベッドの隣の床を見詰めながら言えば、ケイオスは不思議そうな表情で首を捻った。
「何を言っている。そこにベッドがあるだろう? 俺はまだやることがある。自由にベッドを使って構わない」
それだけを告げると、彼は彼の返事を待たずにテーブルへ向かう。そしてランプを静かに置くと、分厚い書物を広げ出した。
(ひょっとして、ケイオスさんはあそこで寝るつもりなのかな?)
ケイオスの様子を窺いながら、圭は逡巡を見せるが意を決したようにそこから歩き出す。
「……おやすみなさい」
書物に視線を落とす彼に遠慮がちな声をかけ、圭はゆっくりとベッドへ上がって行った。




