呪紋の覚醒21
鈍い音と共に、翔平の拳がリークの左頬へめり込んだ。
容赦のない殴り方だ。あまりの衝撃に、胸倉を掴まれていたにも関わらず、リークの身体は彼の手を離れて地面へ投げ飛ばされた。
地面を引き摺る音が辺りに響く。
翔平は息を荒く吐き出しながら、ゆっくりと起き上がる彼を尚も睨みつけていた。深い茶の瞳は、涙が滲んで揺らいでいる。
双眸が映し出すリークの姿は、口内を切ったのか口の端に血を滲ませて痛々しい。白い肌は薄紫色に変色している。表情は、酷く辛そうであった。
傷付けた翔平も傷付けられたリークも、互いの心に痛みを抱えてゆく。
「……気は済んだかい?」
リークが真っ直ぐに翔平を見詰めて、感情が高ぶった彼の心を射竦める。碧い瞳は凍えるように冷たく、今までの彼の印象を一掃させた。
「君の言う通りだ。僕は、君との全てをなかったことにするよ。僕にはやるべきことがあり、君にもやるべきことがある。そのやるべきことを前にして、必要のないものは捨て去るべきじゃないかい?」
「必要のない、もの……?」
リークの科白に、翔平は目を見張る。だが、やがて鋭い目付きへ戻っていく。
「それが、俺たちの今までだってのかよ?」
「そうだよ。覚悟とはそう言うものだ。君が彼を救いたいと思うのなら、僕を捨てるべきだ。君が僕を選ぶことは、僕が許さないよ」
リークの豹変振りに、翔平は戸惑いを隠しきれない。先程までは――村長の家へ向かうまでは、相変わらずの彼だった。それなのに何故、今になってこれまでと正反対のことを口にするのだろうか。
「僕はいつも、君の考え方は甘いと思っていたよ。僕も彼も護る?」
リークが嫌みたらしく鼻で笑う。
「夢のような考えだね。そんな考え方とその弱さで、二つの存在を護れるのかい? 魔物を殺す覚悟もない君が護れるのかい?」
翔平を見据えながら、リークが更に可笑しそうに笑う。
「護れるはずがないだろう? 翔平。君は弱過ぎるよ。――どうして、僕はそんな君を好きになったんだろうね?」
最後の言葉で、翔平の瞳に傷付いたような感情が過ぎる。リークは敢えて冷めた目で受け止めた。
翔平は耐え切れなくなって顔を俯かせる。
「……止めろ」
戦慄く両手を握り締めて、震える声で小さく呟いた。
そんな翔平を見て、リークは冷たく笑う。
「本当のことを言うよ。僕が君を好きになったのは、単なる気紛れに過ぎなかったんだ。君について来たのも、退屈な日常を紛らわせる為だ。君と居て、確かに退屈はしなかったよ」
「止めろ」
「僕のすることに、君は面白い反応を寄越してくれたね。単なる戯れに過ぎなかったのに、君はいつの間にか僕を受け止めていた。あまつさえ、僕を好きになるなんて……」
「止めろ!」
「自分を、おかしいとは思わないのかい?」
翔平が叫ぶのとリークがその言葉を口にしたのは、ほぼ同時だった。
顔を上げた翔平の表情は、今にも泣き出しそうだ。唇を噛み締めて、眉を寄せて、だが涙を流すことはしない。リークの全ての言葉が心に突き刺さって悲鳴を上げても、翔平のプライドが泣くことに耐えさせた。
感情を露わにした反応に、やはりリークは冷めきった目で見詰めている。
「君にもう飽きたんだ。明日の闘いが終われば、僕は勝手に別行動を取らせて貰うよ」
彼は無感情に言い捨てると、まるで興味はないとばかりにその場から踵を返した。
リークは翔平を振り返らない。――振り返れなかった。
翔平から背を向けた途端に、彼の表情は冷たい笑みから辛く苦しげな表情に変わっていた。碧い双眸も冷めたものではなく、酷く悲しげである。
「……ごめんよ、翔平」
謝罪の言葉が小さく漏れた。
(わざと、君を傷付けるようなことを言って……ごめん)
リークはさらに心の中で、翔平を傷付けたことを詫びる。
(僕は君から離れられないから、君を僕から離すには、こんな方法しか思い浮かばなかったんだ。……僕の方こそ、弱いね。けれど、君に言ったことの半分は本当のことだよ)
先程、翔平に指摘した言葉を思い出していく。
(明日の闘いは、君にも僕にも覚悟が必要だ。どちらかを捨てなければ、僕たちは彼らに勝てない。この村の人たちのように、両方を選び取ることは出来ないんだよ)
リークは歩きながら、自分の両手をじっと見据えた。彼の目に、それが天秤のように見える。片手に翔平の存在を、片手に自分と言う存在を――そして、リークが選択したのは、やはり翔平の存在だ。
彼は己の力量がどれ程のものかを、嫌と言うほどに解っている。どう足掻いても、ひとつの存在を護りきるのに精一杯だった。呪紋の所持者が相手でなければ容易いことだが、敵対勢力は間違いなく彼らである。その上、リークはもうひとりの自分を相手にするのだ。これで、二度目の闘いとなる。
(どうやっても、彼に勝てないことは解っているんだ。それならせめて、翔平が圭君を連れ戻せるようにしないと)
リークが決心したのは闘いを目前にしたときだが、そう考えていたのは今に始まったことではない。もうひとりの彼と闘ったあの日から、彼は翔平に悟られないように心の奥底で考えていた。
思考からふと現実に戻って、リークは自分が村の入り口付近に立っていることに気付く。黒い馬まで進んでいくと、彼は馬の尻に近い背中の部分にある、二つの荷物の内のひとつへ視線を向けていった。翔平の荷物だ。布袋の底では、以前に翔平へ宛てた手紙が眠っている。
(君の言葉に応えていた僕も、君へ対する気持ちも、何もかもが本物だよ。出来れば、全てをなかったことにしたくはない。それが僕の願望だ。けれど、そろそろ夢から覚めないといけないよ。――翔平も、僕も)
布袋を暫く見詰めた後、リークは自分の荷物を手に取った。馬の背中を労わるように優しく撫でていくと、彼はその場からゆっくりと歩き出す。
向かうところは、彼が翔平と濃密な接吻を交わした所だ。そこへ行くのは、甘い思い出に浸りたい訳ではない。翔平との距離を置く為である。村から差ほど離れずに居られる場所は、ここしかない。
そして、翔平が居心地の悪さに結界の外へ出ないようにする為の配慮だ。それ程までに、リークは彼の身を案じ考えていた。
木の幹で腰を下ろして、疲れたように背中を預けていく。そして、腰元にある鞘から長剣を引き抜くと眼前に翳していった。
長剣の刃が二つの月の光を反射して、リークの顔を柔らかく照らしてゆく。ただじっと無機質な刃を眺めて、やがて彼は祈るように目蓋を閉じていった。
暫くして、ゆっくりと開かれたリークの目は、揺るぎない覚悟と静心が宿っている。彼の中にある僅かな迷いは、静かに断ち切られた。
翔平は――まだ、その場を動けずにいる。
リークから放たれた言葉の矢が心に深く突き刺さって、彼が居なくなった後でも抜き取ることが出来なかった。
(……リーク)
噛み締めていた唇を一文字に引き結んで、痛みに震える胸の部分を鷲掴みにする。
リークが何故あんなことを言ってきたのか、翔平は冷静に考える余裕がない。平常心なばら察するところもあるだろうが、今は戸惑いと混乱、そして苦痛に心を支配されて適うはずもない。
翔平にとって、リークから投げかけられた言葉は、様々な意味合いでどんなものよりも勝るのだ。
(畜生。……胸が痛いぜ)
彼への気持ちを自覚した途端に、翔平の心は確かに弱くなっていた。
泣くことはない。けれど、心は泣いていた。
(俺の考え方って、やっぱ甘いのか? 夢みたいな考えなのか?)
翔平は心の中で、自分自身とリークに問いを投げかける。
(どっちかを捨てることが、本当の覚悟って言うのか? 俺じゃあ、お前を護れない? お前も圭も護れない?)
リークの言葉が、翔平の頭の中でぐるぐると駆け回ってゆく。
(……なあ、リーク。今までのお前の言葉は嘘で、さっき言った言葉が本当なのか?)
リークを殴った右手の手の平を見つめながら、彼は混乱しながらも何かの答えを導き出そうとしていた。
(お前は全部なかったことにしようとしているけど、俺には出来ない。……お前の気持ちも、俺の気持ちも忘れたくない)
自分に言い聞かせて、翔平は何かを掴むように手の平をぐっと拳に握り締める。
その時、彼の頭上で小白竜の鳴き声が聞こえた。夜空を仰げば、二つの月を背景にリュークが翔平に向かって飛んできている。
「……リューク」
翔平が名前を呼べば、リュークは嬉しそうに鳴き声を上げる。そして、彼の肩へ降り立つと、穏やかに身を落ち着かせていった。
「……おかえり」
優しく頭を撫でてくる翔平に、リュークが円らな瞳を心配そうに向けていく。可愛らしい鳴き声は、「どうしたの?」とでも尋ねているようだ。
「リューク。俺は、どうすればいいんだろうな? 明日闘いだってのに、何かを捨てる覚悟なんて出来そうにないんだ」
翔平の独り言のような物言いに、リュークが小さく首を傾げる。
「好きな奴に全てを忘れろって言われて、単なる気紛れだったんだって言われて……。その言葉を信じられない俺って、やっぱ甘いのかな? ……リークが、そんなことを本気で言うはずがないって思っているんだ」
翔平の表情が、優しさと愁いを帯びたものになった。
「今までのことを思うと、あいつってさ、馬鹿みたいに俺命って感じでさ……。俺はそれにどうすればいいか戸惑ったけど、あいつの気持ちが嘘じゃないことは感じていたつもりだったんだ。だから、あいつがさっき言ったことを信じられないのかもな」
リュークの小さな頭を撫でていた彼の手がふいに止まる。途端に、リュークの乗っていた翔平の肩が小刻みに震え出した。
地面に小さな光を放つ滴が幾つも落ちる。
「……っ……俺、あいつの言うようにまだ強くはないけど、リークを失くしたくないんだ。……俺のことを好きじゃなくても、全部が嘘でなかったことにされても、俺がリークを好きだから……失くしたくない」
涙に震える声音で、翔平は自分自身に言い聞かせていた。流れ落ちる頬の涙を、リュークが慰めるように小さな口で掬い取っていく。




