呪紋の覚醒01
リュイール王国の関所を抜けて、セントウォール王国を目指す旅路の途中――その国へあと少しで辿り着く前のことだ。
翔平とリークは止むを得ず、森の中で野宿をすることになった。原因は何の前触れもなく、翔平の身に起きた異変の所為である。本来ならば、近くの町や村へ急ぎ足で向かうのだが、生憎とそこは建物の一つも見当たらなかったのだ。
森の中の開けた広くはない円状の空間に、彼らは身を落ち着かせていた。
青の空は、すでに藍の空へと彩りを変えている。森の木々に覆われることのないその空間は、二つの美しい月が地上を静かに照らす様と満天の星が瞬く様を見上げることが出来た。夜空に、流れ星が幾度か駆け抜けていく。
彼らの居る空間に、温かな明かりが灯る。
「気分はどうだい?」
円状の空間の真ん中で火を起こしていたリークが、木の根元で幹に凭れかかり、膝を抱えて座り込んでいる翔平を見やった。
「……何とか」
そう答えてみせるが、翔平の顔色は蒼白だ。全身が汗ばんでいるにも関わらず、寒気がするのか震えを刻み続けている。
風邪とは違うようだ。風邪ならば、薬草やリークの魔法で何とかなる。だが、どちらの方法を施しても効き目はなかった。
リークが翔平に近づいて、目の前で地面に片膝を突く。俯きがちな彼の顔を下から覗き込んで、目と目を合わせる。
「少し、立てられるかい? 火を起こしたから、あそこへ移動しよう」
そう言って、リークは翔平の片腕を肩に回させ、彼の身体を支えながらゆっくりと立ち上がった。
ゆっくりとした歩調でその場を歩き出して、小さな音を立てながら燃え上がる炎の前で立ち止まる。そして再び翔平を座らせ、リークは彼の片腕を外させると、震える肩を優しく温めるように抱いて引き寄せた。
「眠って治るかどうか判らないけれど、僕に寄りかかって眠るといいよ。一応眠りと癒しの魔法を、君にかけておくから」
そう言い終ると同時に、リークは手の平を翔平に翳して小さく呪文を唱え始める。
「……悪い」
リークの優しさに小さく謝って、翔平は意識を失うように眠りに落ちていった。
「おやすみ、翔平」
翔平の耳元で優しく囁いて、リークは燃え上がる炎を見詰める。その眼差しは、何処か厳しさに満ちていた。
夜は、これから更けていこうとしている。
『翔ちゃん』
圭の声が聞こえて、翔平は目蓋をゆっくりと開けた。
そこは翔平の知らない世界だ。目に映るものは、闇だけである。闇の中で、圭の姿が目の前に浮かび上がった。
どうやら、そこは人の姿は見えるようだ。
『翔ちゃん』
圭の呼びかけに、翔平は『圭』と彼の名を呼び返した。すると、圭が天使のような笑みを浮かべる。
『会えて良かった。――今、どうしているの? 何処に居るの?』
『それは俺が知りたい。お前こそ何処に居るんだ? 俺、お前を捜しているんだぜ?』
圭の問いに翔平が訊き返せば、圭は『判らないよ』と答えた。
『ぼくは、何処に居るのかな? 良く判らないよ。ぼくの中に、世界が二つ見えるんだ。悲しい世界と空を見上げる世界。ぼくは、どっちに居るのかな?』
自問自答のような説明に、翔平は首を傾げるしかない。そんな彼を余所に、圭が首を左右に振りながら言葉を継ぐ。
『ううん。ぼくは、悲しい世界に居るんだね。そこで、翔ちゃんを待っているんだ。……でも、ぼくから会いに行くかも知れない』
『……悪い、圭。俺、お前が何を言っているんだか解らない』
翔平がそう言えば、圭は小首を傾げてみせた。そして、彼に見せたことのない嫣然とした笑みを浮かべる。
翔平は、思わず圭をまじまじと凝視した。
『その内に解るよ――きっと。ぼくが翔ちゃんを迎えに行くから、その時は一緒に行こうね』
圭が翔平の片手を、両手で握り締める。握り締めて、色素の薄い金色の大きな瞳を輝かせた。
『……本当はぼく、このまま翔ちゃんを連れて行きたいよ。でもね、あの人がそれを止めるんだ。翔ちゃんを連れて行かせないって』
そう言って、圭は視線を横に走らせる。翔平がその視線を追ってゆけば、リークがそこに居た。
リークは、鋭い眼差しで圭を睨んでいる。
『リーク?』
圭に対するリークの態度に、翔平は驚きの声を上げた。
その声にリークは翔平に視線を移すと、ゆっくりと手を差し伸べてくる。
『おいで、翔平。ここは、君の居るべき場所じゃない』
のんびりとした口調ではなく、何処か切羽詰ったようなものだ。
翔平はその手を取ることに躊躇った。リークの手を取れば、圭を見失うと思ったからだ。
翔平の心情を察したのか、リークは安心させるような笑みを浮かべる。
『大丈夫だよ。僕がちゃんと、君を彼のところへ連れて行くから。――だから、今は僕のところへ帰っておいで』
リークの言葉に、翔平は躊躇いがちに片手をゆっくりと伸ばしていった。すると、リークはその手を即座に引き寄せ、翔平を腕の中に閉じ込めてしまう。
『何だよ、リーク』
その行動に、翔平は戸惑いをみせる。だがリークは、その身体を決して離すことはしなかった。
リークが翔平の肩越しで、圭を鋭い眼差しで見据える。
『翔平はまだ、行かせないよ』
その言葉に、圭が声もなく笑ってみせる。
『貴方はどうして、翔ちゃんの傍に居るのかな? おかしいよね? 本当の貴方は、貴方じゃないのに』
ぴくりと、リークの片眉が動いた。圭はその様子を気にもせず、さらに言葉を紡ぐ。
『その内に、ぼくと本当の貴方が会いに行くよ。そしたら、貴方は消えちゃうね。翔ちゃんは、その時に連れて行くよ』
リークにそう宣言して、圭は翔平の背中を見詰めた。
『待っているだけじゃ駄目だよね。ぼくは必ず翔ちゃんに会いに行くから――待っていてね』
翔平の心の中にその言葉を刻んで、圭は嫣然とした笑みを浮かべて、闇の中へと紛れてゆく。
『――圭?』
翔平がリークを何とか引き剥がして、慌てて圭を振り返った。だが、そこに圭の姿はなく、闇ばかりが広がっている。
そこで、翔平ははっと目を覚ます。
リークは驚いたような顔で、間近にある翔平の顔を凝視する。
「翔平?」
リークの呼びかけに、翔平は彼を見返した。その顔色はまだ蒼白い。だが、少しは良くなっているようだ。
翔平は目を何度か瞬かせて、辺りに視線を巡らせる。
圭の姿は何処にもなかった。目の前にある炎と横に居るリーク、炎に照らされて仄かに明るい空間だけが翔平の目に映る。
(……ただの夢か)
心の中でそう呟いて、翔平は安堵の息を吐き出してゆく。
夢に出てきた圭は、何処か翔平の知らない圭だった。翔平の昔から知っている彼は、少し甘えん坊なところがあるが、明朗快活で誰からも好かれていたはずだ。夢の中の圭が実際の圭だと言うのならば、翔平は恐らく驚き戸惑ってしまうだろう。
(夢なら、夢でいいんだ。――だけど、何でこんなに気になるんだ?)
心の中でざわつく何かに、翔平は嫌な予感を覚える。まだはっきりと覚えている夢の内容が、これから起こり得るような気がしてならない。
「翔平」
リークの再度の呼びかけに、思考に耽っていた翔平が再び彼に視線を移した。
二人の距離は、翔平が眠りに落ちる前と変わらない。必要以上の近い距離に違和感を覚え、翔平はリークから離れようとした。だが、彼がそれを許さない。
リークが真剣な面持ちで、端正な顔を近づけさせてゆく。翔平は思わず仰け反った。
「僕の魔法が、効いていないようだね。……夢でも見ていたのかい?」
その問いに、翔平は何と答えればいいのか判らない。夢の内容をありのままに話すことを、翔平は躊躇った。
夢はあまりにも突拍子もないものだ。圭は翔平に「会いに行く」と言っていた。リークは何故か、それを阻止しようとしていた。そして最後に、圭は「リークは消える」と言い残して消えていった。状況の全く読めないそれが、単なる夢だったとしても、リークにその内容を言えるはずがない。
ふいに、リークの翔平を支えていない腕がゆっくりと動いた。
質の良い旅人の服の袖で、汗に濡れる翔平の額を優しく拭き取る。彼は微苦笑を浮かべていた。
「ごめん、翔平。僕に言えない夢なら、無理に訊きはしないよ。明日の為に、また眠った方がいいね」
そう言いながら、リークは翔平に有無を言わさずに魔法をかけてゆく。そして、また意識を失うように眠る彼の身体を引き寄せた。
翔平の肩を抱き直しその身体を安定させると、リークは空いた手の平を地面に押し当てる。
小さく呪文を呟けば、リークと翔平を中心に蒼く淡い光を放つ魔方陣が広がっていった。それは開けた円状の空間の全体へ広がり、淡い光は柱のように夜空へ立ち昇ってゆく。
リークが施したそれは、リークにしか扱うことの出来ない結界だ。呪紋を所持する者ならではの、魔法と原理の異なる特殊な能力である。
「これで、安心して眠れるよ。――今度こそ、君に安らかな眠りを」
地面から手の平を離して、リークは深い眠りにつく翔平に小さく言った。次いで、翔平の額にそっと唇を落としていく。
その最中で、赤々と燃える炎が消えようとしていた。リークは炎が消えないように、枯れ枝を足してゆく。静まり返る森の中に響く虫の音や梟の鳴き声と共に、炎の中にある枝が小さな音を立てた。
それを眺めて、リークは翔平の寝顔を見詰める。その瞳がふいに、哀しみと寂しさを帯びたものになった。
(……そろそろ、なんだね)
心の中でそう呟いて、リークは夜空を見上げる。その横顔は、何かを決意するような眼差しだ。
その夜、リークは翔平の重みや温もりを感じながら、夜が明けるまで眠らずに夜空をずっと眺め続けた。




