第9話:帰還と再構築
どれくらいの時間、そうしていたのか。
旧市街区の、打ち捨てられた建物の影。
俺は、壁に背を預け、ただ荒い呼吸を繰り返していた。
ルキウスが去った後の静寂が、やけに耳に痛い。
奴が放った圧倒的なプレッシャーは、その場から消えても、俺の魂に深く刻み込まれていた。
(勝てなかった……)
シンクロ・バーストという、新たな力を手にしたはずだった。
エグゼキューターを倒し、万能感に似た高揚さえ感じていた。
だが、それは、井の中の蛙が見た、束の間の夢に過ぎなかった。
ルキウスは、次元が違った。
俺の全力は、彼にとって、ほんの座興にもならなかっただろう。
《警告。あなたの生命維持機能は、依然として危険な状態が継続しています》
《精神的消耗が激しく、体内エネルギーの回復が阻害されています。早急な治療と、安全な場所での休息が必要です》
脳内のAIが、冷静な、だがどこか心配するような響きを含んだ声で告げる。
その声さえも、今の俺には遠く聞こえた。
『俺の力じゃ……ルキウスには、到底敵わない』
思考だけで、弱々しく呟く。
『俺は……無力だ』
やっと手に入れたと思った力。
仲間を守れると、そう信じた力。
それら全てが、最強の存在の前では、あまりにも脆く、無価値だった。
絶望が、冷たい霧のように心を覆っていく。
立ち上がる気力さえ、湧いてこなかった。
どれほど時間が経ったのか。
朦朧とする意識の中、俺はふらふらと立ち上がり、無意識に、帰るべき場所へと足を向けていた。
地下都市。
レジスタンスのアジト。
俺の、唯一の居場所。
汚れた地下通路を抜け、見慣れた廃駅のホームに辿り着いた時、俺の体力は限界に達していた。
見張りをしていたレジスタンスのメンバーが、俺の姿を見つけ、驚きの声を上げる。
「ケイン!? おい、大丈夫か!」
「ひどい怪我だ! 誰か、エリシアとゼオンを呼んでこい!」
仲間たちの焦った声が、遠くに聞こえる。
俺は、彼らの前で、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
次に目を覚ました時、俺はアジトの医務室のベッドの上にいた。
隣には、心配そうな顔をしたエリシアと、険しい表情で医療端末を覗き込んでいるゼオンの姿があった。
「ケイン! 気がついたのね!」
エリシアが、俺の手をぎゅっと握りしめる。
その手の温かさに、俺が本当に生きて帰ってきたのだと、実感した。
「無事で……本当によかった……」
彼女の瞳が、安堵に潤んでいる。
だが、すぐにその表情は、俺の全身に残る傷跡と、虚ろな目を見て、曇っていった。
「一体、何があったの? フラグメントは……?」
俺は、力なく首を横に振った。
「……ダメだった」
「とんでもない奴に、出くわしたんだ」
ゼオンが、医療端末から顔を上げた。
「身体中の筋肉繊維が断裂しかけてる。特に、精神的な消耗がひどい」
「一体、どんな戦い方をしたら、こんなことになるんだ……。君のシンクロ・バーストは、まだ未知数のエネルギーなんだぞ。無茶をしすぎだ」
彼の声には、怒りよりも、純粋な心配の色が滲んでいた。
俺は、仲間たちの顔を見ることができず、ただ天井を見つめることしかできなかった。
身体がある程度回復した後、俺はレジスタンスの作戦室にいた。
エリシアとゼオン、そして主要なメンバーたちの前で、俺はルキウスとの遭遇について、全てを話した。
空間を歪め、時間を支配する、神の如き力。
俺のシンクロ・バーストを、赤子の手をひねるようにあしらった、圧倒的な戦闘能力。
そして、彼が語った、ガイアの秩序という名の、歪んだ正義。
俺の話を聞き終えたメンバーたちは、皆、言葉を失っていた。
部屋を、重苦しい沈黙が支配する。
その沈黙を破ったのは、俺の脳内にいるAIだった。
《要請に基づき、先日記録した戦闘データを、こちらの情報端末に転送します》
作戦室の中央モニターに、AIが解析したルキウスの情報が表示される。
その圧倒的な能力値のグラフに、誰もが息をのんだ。
《ルキウスは、単なる追跡者やエージェントではありません》
《彼のコグニタは、ガイアのシステムと直接リンクしていると同時に、極めて個人的な、強い感情データによって駆動しています》
AIは、淡々と、だが確信を持って続けた。
《結論として、彼の力の源は、深い”悲しみ”と、失われた過去の記憶に対する”執着”です》
「悲しみと、執着……」
エリシアが、モニターの情報を睨みつけながら、呟いた。
彼女の顔に、ある確信が浮かび上がる。
「……やっぱり。ガイアは、そういう非道なことをする」
「かつて、事故や病気で失われた人間……。その脳のデータをスキャンし、コグニタを埋め込んだ機械の身体で蘇らせる」
「そして、過去の記憶を人質にして、忠実な兵器として利用するのよ」
エリシアの言葉に、部屋が再びざわめく。
「ルキウスも……きっと、そうなんだわ」
「彼もまた、ガイアの被害者。失われた何かを取り戻すために、ガイアの秩序を信じ、戦わされている……」
その言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。
そうだ。だから、俺の孤独のバーストが、彼に届いたんだ。
彼は、ただの敵じゃない。俺と同じ、痛みを抱えた存在。
俺は、無意識に拳を握りしめていた。
「俺は……」
気づけば、声が出ていた。
「あいつを、救いたい」
「救う、だって?」
レジスタンスの一人が、訝しげな声を上げる。
「あいつは、お前を殺しかけたんだぞ! それに、俺たちの敵だ!」
「分かってる!」
俺は、叫んでいた。
「分かってるさ! でも、あいつは、ただ操られてるだけなんだ!」
「悲しみや、誰かを想う気持ちを、ガイアに利用されてるだけなんだ!」
「そんなの、あんまりじゃねえか……!」
俺の脳裏には、苦痛に顔を歪めた、ルキウスの最後の表情が焼き付いていた。
彼を、あのままにはしておけない。
それは、理屈じゃない。俺の魂が、そう叫んでいた。
シーンと静まり返った作戦室で、俺の言葉を聞いていたゼオンが、ゆっくりと口を開いた。
「……面白い」
彼は、いつものように、探究心に満ちた目で俺を見ていた。
「君のその考え、面白いよ、ケイン」
「敵を倒すんじゃなく、救う。その発想は、僕にはなかった」
ゼオンは立ち上がり、モニターの前に立つと、猛烈な勢いでコンソールを操作し始めた。
「君のシンクロ・バーストは、相手のコグニタに直接干渉する力がある」
「あの時、君は無意識に、ルキウスの心に触れたんだ」
「だとしたら……その力を、もっと増幅させることができれば……?」
ゼオンの指が、設計図を組み立てていく。
「ルキウスのコグニタに、直接語りかけるんだ」
「君の感情で、彼の心を揺さぶり、ガイアの呪縛から、彼を解放する!」
「理論上は、可能だ! いや、やってみせる!」
それは、あまりにも希望的で、無謀なアイデアだった。
だが、今の俺には、それが唯一の光に見えた。
その日から、俺の特訓が始まった。
それは、単なる戦闘訓練ではなかった。
ゼオンが夜を徹して開発した、新しいデバイス。
それは、俺の感情の波形を読み取り、それを魔法のエネルギーへと、より効率的に変換するための装置だった。
俺は、そのデバイスを装着し、来る日も来る日も、自分の内面と向き合い続けた。
喜び、怒り、悲しみ、楽しみ。
ホロウとして生きてきた俺が、蓋をしてきた全ての感情。
そして、レジスタンスに来てから得た、仲間との絆、守りたいという想い。
それら全てを、一つ残らず引きずり出し、魔法の力へと変えていく。
《興味深い……》
訓練中、AIが珍しく感想を漏らした。
《あなたの感情の深化が、フラグメントとのシンクロ率を飛躍的に高めています》
《その影響で、私のアルゴリズムにも、予測不能な変化が生じている》
《論理と確率だけでは説明できない、新しい思考パターン……これが、あなたたちが”心”と呼ぶものに近いのかもしれません》
AIもまた、俺と共に、変化し、成長している。
俺たちは、もう単なるユーザーとシステムの関係ではなかった。
共に戦い、共に未来を切り開く、唯一無二のパートナーだ。
何日経っただろうか。
特訓を終えた俺は、以前とは比べ物にならないほど、自分の力と感情を、精密にコントロールできるようになっていた。
作戦室に、レジスタンスの全員が集まっている。
俺は、皆の前で、静かに告げた。
「もう一度、地上へ行く」
「ルキウスに、会いに行く」
誰も、反対しなかった。
俺の目を見れば、その決意が揺るぎないものであることが、分かったのだろう。
エリシアが、俺の隣に立ち、力強く宣言した。
「今度は、一人じゃないわ」
「私たちも、君と共に戦う」
その言葉に、ゼオンが、そして他のメンバーたちも、次々に頷く。
「そうだ! お前一人に、いい格好はさせねえぜ!」
「俺たちの技術も、前よりパワーアップしてるんだ!」
そうだ。
今度の戦いは、俺一人じゃない。
ルキウスを救うため。
そして、ガイアが支配する、この歪んだ世界の真実に立ち向かうため。
仲間と共に、もう一度、あの光り輝く牢獄へと、旅立つ時が来たのだ。