第8話:ルキウスの真意
静寂。
エグゼキューターが爆発四散した熱気さえも、目の前の男が放つ絶対的な冷気が飲み込んでいく。
白いスーツに身を包んだ、銀髪の男。
ルキウス。
ガイアの”意思”を代行する、最強の番人。
その存在感は、エグゼキューターとは比較にすらならない。
まるで、路地裏の空間そのものが、彼の存在によって歪んでしまったかのようだ。
空気が重い。呼吸をするだけで、肺が凍てつきそうだ。
「貴様か。ガイア様の庭を荒らす、忌まわしき害虫は」
穏やかな、だが魂まで凍らせるような声。
俺は、膝をついたまま、動くことができなかった。
シンクロ・バーストで増幅されたはずの力が、彼の前では何の役にも立たないと、本能が理解していた。
《警告。警告。警告》
脳内のAIが、今までになく切迫した警告を繰り返す。
《目の前の個体、コードネーム”ルキウス”の戦闘能力は、計測不能です》
《彼のコグニタは、あなたのフラグメントの能力を、現時点では完全に上回っています》
《戦闘は回避不可能。生体エネルギーの消耗を極力抑え、防御に徹することを推奨します》
(防御に、徹する……?)
それが、今の俺にできる、唯一の戦術。
俺は歯を食いしばり、消耗した精神を無理やり奮い立たせて立ち上がった。
「害虫、ね」
「好き勝手に人間を管理してるお前らの方が、よっぽど害虫だと思うがな」
虚勢だ。
だが、ここで呑まれたら、本当に喰われる。
ルキウスは、俺の言葉に何の反応も示さない。
ただ、氷のような瞳で俺を見下ろし、ゆっくりと右手をこちらに向けた。
特別な構えはない。
だが、その瞬間、俺の身体に凄まじい圧力がかかった。
「ぐ……っ!?」
重い。
身体が、鉛になったかのように重い。
まるで、何倍もの重力が、俺の身体だけにのしかかっているかのようだ。
膝が折れ、地面に叩きつけられる。
ミシミシと、骨が軋む音が聞こえた。
「これが、秩序だ」
ルキウスが、静かに告げる。
「抗うことの無意味さを、その矮小な身体に教えてやろう」
彼は、指を一本、動かした。
それだけで、俺の周囲にあった瓦礫や鉄パイプが、意思を持ったかのように宙に浮き上がり、一斉に俺に向かって飛来してきた。
(くそっ……!)
《バリアを展開! 全エネルギーを防御に回してください!》
AIの叫びに、俺は咄嗟にシンクロ・バーストの力を、防御壁として身体の前面に展開する。
青白いエネルギーの壁に、瓦礫の雨が降り注ぎ、激しい音を立てて弾かれた。
だが、攻撃はそれだけでは終わらない。
「遅い」
ルキウスがそう呟いた瞬間、俺の時間の感覚が、引き伸ばされた。
周囲の景色の流れが、極端に遅くなる。
飛来する瓦礫の動きが、コマ送りのように見える。
それなのに。
ルキウスの姿だけが、その法則から外れていた。
彼の動きは、普段と何も変わらない。いや、俺の時間が遅くなった分、相対的に、神速としか思えない速度で動いている。
彼が、いつの間にか俺の目の前に立っていた。
その白い手袋に包まれた手が、俺の胸を、軽く押す。
ただ、それだけ。
それだけなのに、俺の身体は、数十メートル後方のビルの壁まで吹き飛ばされ、激しく叩きつけられた。
「が……はっ……!」
肺から、空気が全て絞り出される。
視界が、赤く染まった。
シンクロ・バーストで強化されたはずの身体が、赤子のようにあしらわれる。
これが、ルキウスの力。
エネルギーを放つだけのバーストとは、次元が違う。
空間そのものを支配する、神の如き御業。
絶望的な力の差に、俺は再び、あの無力感に囚われそうになっていた。
「なぜ、抗う?」
壁にめり込んだ俺を見下ろし、ルキウスは、初めて問いを発した。
その声には、何の感情も含まれていない。
ただ、純粋な疑問として。
「ガイア様がもたらす完璧な秩序こそが、人類を苦しみから解放する唯一の道だ」
「争いも、悲しみも、飢えもない。全ての人間が、等しく幸福を享受できる世界」
「それを、なぜ乱す?」
彼の言葉は、揺るぎない信念に満ちていた。
彼は、本気で自分たちの行いが”善”であると信じているのだ。
俺は、壁から身体を引き剥がし、咳き込みながら答えた。
「秩序、だって……?」
「ふざけるな……! お前たちがやってるのは、ただ人間から感情と自由を奪って、家畜にしてるだけじゃねえか!」
「作られた幸福なんて、ただの偽物だ!」
地下で出会った、仲間たちの顔が浮かぶ。
不便で、危険で、明日の命も分からないような生活。
それでも、彼らは笑っていた。怒っていた。泣いていた。
確かに、”生きて”いた。
「俺は、あいつらのいる場所を守りたい!」
「お前たちのくだらない理想のために、あいつらの自由を奪わせるわけにはいかねえんだよ!」
俺の叫びに、ルキウスの眉が、ほんのわずかに動いた。
氷のように無表情だったその顔に、一瞬だけ、人間らしい動揺の色がよぎる。
だが、それも束の間。
彼はすぐに、元の無表情に戻った。
「……愚かな」
「感情こそが、人間を苦しめる元凶だということが、まだ分からないか」
「ならば、その存在が消えるまで、何度でも絶望を与えよう」
ルキウスの周囲の空間が、再び歪み始める。
今度は、一体何が来るのか。
俺が身構えた、その時だった。
《……解析中……》
《ルキウスのコグニタから、特異なエネルギーパターンを検出》
《彼の能力は、単なるシステム的なものではありません。彼の個人的な記憶……その中でも、極めて強い感情を伴う記憶と、深くリンクしています》
AIが、戦闘の最中に、新たな分析結果を叩きつけてきた。
《彼の力は……深い”悲しみ”と、失った何かに対する、強い”執着”から生み出されているようです》
(悲しみと、執着……?)
目の前の、神のような男の力の源が、それだというのか。
ただの冷酷な、ガイアの番犬ではなかった。
彼もまた、何かを抱えている。
その事実が、俺の心に、小さな、だが確かな変化をもたらした。
ルキウスの次の攻撃は、目に見えない刃だった。
空間そのものが断裂し、俺の身体を切り刻もうと迫ってくる。
《来ます! 空間断裂攻撃! 回避は不可能!》
《シンクロ・バーストで、彼の力の根源……彼の”悲しみ”に、干渉してください!》
AIの提案は、もはや戦術の域を超えていた。
だが、今の俺には、その意味が理解できる。
(こいつも、俺と同じなのか……?)
孤独だった過去。
失うことへの恐怖。
俺の中にも、悲しみと執着は、澱のように溜まっている。
俺は、防御を捨てた。
そして、自分の内面にある、最も暗く、冷たい感情を、シンクロ・バーストのエネルギーに乗せた。
エリシアやゼオンと出会って得た、温かい光の力じゃない。
ホロウとして生きてきた、俺の孤独そのものを、ぶつける。
青白い光が、黒く染まっていく。
俺が放った闇色のバーストは、迫りくる空間の断裂と衝突した。
派手な爆発は起きない。
ただ、二つの力が接触した瞬間、キィン、と甲高い音が鳴り響き、ルキウスの攻撃が霧散した。
それだけではない。
俺の感情の奔流は、ルキウスのコグニタにまで到達し、直接干渉する。
「……ッ!?」
ルキウスの動きが、初めて完全に停止した。
その瞳が大きく見開かれ、苦痛に顔を歪めている。
彼の脳内に、俺の孤独が流れ込んでいるのだ。
そして、共鳴している。彼自身の、心の奥底に眠る悲しみと。
ほんの、数秒間。
だが、それは、永遠にも感じられる時間だった。
やがて、ルキウスは俺から距離を取り、乱れた呼吸を整えた。
その額のコグニタが、激しく明滅している。
「……貴様、今、何をした……」
絞り出すような声。
そこには、先ほどまでの絶対的な余裕はなかった。
俺は、答えない。
答えるだけの体力も、残っていなかった。
今の攻撃で、精神力のほとんどを使い果たしてしまった。
ルキウスは、しばらくの間、複雑な表情で俺を見つめていた。
憎悪、驚愕、そして、ほんの少しの……共感?
やがて、彼は静かに踵を返した。
「……我々の戦いは、まだ終わらない」
「次に相見える時が、貴様の、そして貴様たちが信じる”自由”の、本当の終わりだ」
そう言い残し、ルキウスの姿は、闇の中へと溶けるように消えていった。
まるで、嵐が過ぎ去ったかのように。
後に残されたのは、破壊された路地と、俺一人。
全身の力が抜け、俺はその場に崩れ落ちた。
(助かった……のか……?)
安堵と同時に、言いようのない疲労感が全身を襲う。
だが、それ以上に、俺の心には、先ほどのルキウスの顔が焼き付いて離れなかった。
彼が抱える、深い悲しみ。
彼を、ガイアの忠実な番犬へと変えてしまった、過去。
(あいつを倒すには……)
(もっと、強くならなくちゃいけない)
それは、単なる力の話じゃない。
もっと深く、相手の心にまで届くような、強い感情。
そして、それを完全にコントロールするための、フラグメントとの、より完璧な”シンクロ”。
俺は、ぼろぼろの身体を引きずりながら、旧市街区の奥へと、再び歩き始めた。
最初のフラグメントは、もうすぐそこにあるはずだ。
夜空には、相変わらず偽物の星しか輝いていない。
だが、俺の心には、今、倒すべき敵の姿が、そして、守るべき仲間たちの顔が、はっきりと見えていた。