第2話:暴走する魔法(バースト)
息が、続かない。
肺が焼けつくように熱く、心臓が肋骨を内側から叩きつけている。
俺はただ、走っていた。
ジャンク屋から飛び出し、入り組んだ裏路地を、当てもなく駆け抜ける。
背後からは、都市管理AIガイアの追跡ドローンが発する甲高いサイレンの音が、じりじりと距離を詰めてきていた。
(クソッ、クソッ、クソッ!)
脳内に直接、無機質な声が響く。
《警告。心拍数が危険域に達しています》
《現在の速度では、3分以内に追跡者に捕捉される可能性が高いです》
《即時、隠密行動への移行を推奨します》
『うるさい!』
俺は思考だけで怒鳴り返した。
『お前のせいだぞ! あんなもん見つけなければ、こんなことには!』
《私の情報提供が原因であることは事実です》
《しかし、指示に従わずデータ片に接触したのは、あなた自身の判断です》
《感情的な発言は状況の改善に寄与せず、非効率です》
正論だ。
正論だが、今はその冷静さが腹立たしくてたまらない。
こいつは俺の身体の状態をスキャンし、生存確率を弾き出すだけのただの機械。
俺の焦りも、恐怖も、何一つ理解しようとはしない。
サイレンの音がすぐ近くで聞こえた。
角を曲がった瞬間、目の前にガイアの警備ドローンが浮遊しているのが見えた。
赤いサーチライトが、俺の姿を捉える。
「ッ!?」
咄嗟に身を翻し、別の路地へと飛び込む。
ドローンの警告音が鳴り響き、複数の足音が追いかけてくるのが分かった。
(まずい、囲まれる!)
その時、AIが脳内UIに簡易的なマップを表示させた。
俺のすぐ左手、壁の汚れたパネルが赤くマーキングされている。
《地下メンテナンス用通路へのアクセスポイントです》
《この区画は旧世代のインフラであり、ガイアの直接的な監視網の死角となっています》
《突入を》
『ちくしょう……!』
選択肢は、ない。
俺はマーカーが示すパネルに全体重をかけてぶつかった。
錆びついた金属が軋み、パネルが外れる。
暗く、カビ臭い穴が口を開けていた。
俺は追手の声がすぐそこまで迫っているのを聞きながら、その暗闇へと転がり込んだ。
通路の中は、ひどい有様だった。
剥き出しの配管が壁を走り、床には正体不明の液体が溜まっている。
アトモスの輝かしい姿とは無縁の、都市の”内臓”だ。
俺は息を殺し、壁に背を預けて座り込んだ。
遠ざかっていくサイレンの音を聞きながら、荒い呼吸を必死に整える。
《追跡者の反応がロスト。一時的に追跡を回避しました》
《ただし、長時間の滞在は危険です。巡回ドローンが定期的にこのエリアをスキャンしています》
AIの冷静な報告が、少しだけ俺を現実に引き戻した。
『……なあ』
俺は、ポケットの中で硬い感触を放つ、あの金属片を握りしめた。
『俺は、なんでこんな力を持ったんだ?』
『この金属片は……この”魔法”ってのは、一体何なんだ?』
《……データ片の完全な解析には、さらなる時間が必要です》
AIは少しの間を置いてから、続けた。
《しかし、予備解析の結果、いくつかの事実が判明しています》
《この『魔法』は、あなた自身の生体エネルギーをリソースとして消費し、発動するようです》
『生体エネルギー?』
《はい。先ほどの『バースト』により、あなたの体内エネルギー値は平常時の42%まで低下しています》
《これは、極度の疲労状態に相当します。多用すれば、生命活動に支障をきたす可能性があります》
力の代償。
ただの便利な超能力じゃない。俺自身の命を削って放つ、諸刃の剣。
その事実に、背筋が冷たくなった。
どれくらいそうしていただろうか。
少しでも体力を回復させようと、目を閉じていた時だった。
『……力を、コントロールできないか?』
俺はAIに問いかけた。
このままじゃ、いざという時にまた暴発させて、自分の身を滅ぼすだけだ。
《制御の試みは有効です。生存確率が向上します》
《まず、体内のエネルギーの流れを意識してください。それを指先など、微細な領域に集中させるイメージです》
AIの指示に従い、俺は右手の指先に意識を集中させた。
体の中を流れる、温かい何か。それを、一本の糸のように手繰り寄せていく。
(こうか……?)
指先に、静電気が走るような微かな感覚。
だが、次の瞬間にはその感覚は霧散してしまった。
『くそ、難しい……』
《再度、試行してください。思考のブレがエネルギーの拡散を招いています》
何度も、何度も繰り返した。
失敗するたびに、どっと疲労感が押し寄せる。
だが、十数回繰り返した頃だろうか。
俺の指先に、小さな青白い火花がパチッと灯った。
1秒にも満たない、本当に小さな光。
(できた……!)
その達成感も束の間、AIから非情な警告が叩きつけられた。
《警告》
《バーストのエネルギー痕跡から、追跡者の接近を確認》
《対象を識別。ガイアの特殊執行官……通称”パニッシャー”です》
《重武装。極めて危険です》
警告と同時に、通路の奥から重い金属の足音が響いてきた。
一つ、また一つと、確実にこちらへ近づいてくる。
姿を現したのは、人間ではなかった。
少なくとも、そうは見えなかった。
全身を黒い強化外骨格で覆い、ヘルメットのバイザーの奥では、赤いモノアイが不気味に光っている。
そいつが、パニッシャーか。
パニッシャーは俺の姿を認めると、右腕に装着された無骨な武装をこちらに向けた。
《追跡者の武装は、小型レールガンと分析》
《着弾時の衝撃は、この通路の壁ごとあなたの身体を貫通する威力です》
(冗談じゃない……!)
死の恐怖が、全身を支配する。足がすくんで動けない。
逃げ場は、ない。
《攻撃の瞬間、発射までに0.8秒のタイムラグが存在します》
《そのチャージ時間内にバーストを放ち、レールガン本体を無力化してください》
《成功確率は17%。ですが、現時点で最も生存可能性の高い選択肢です》
AIが、冷徹に活路を示す。
17%……。ほとんど死ねと言っているようなものじゃないか。
だが、俺にはもう、それに賭けるしかなかった。
パニッシャーのレールガンの銃口が、甲高いチャージ音を立てて光を収束させていく。
時間が、引き伸ばされたように遅く感じた。
(今だ!)
俺はAIの指示通り、チャージが最大になる直前に、地面を蹴って横に跳んだ。
コンマ数秒後、俺がさっきまでいた場所を、閃光が突き抜けていく。
轟音と共に背後の壁が砕け散り、爆風が俺の身体を打ち付けた。
「ぐっ……!」
だが、まだ終わっていない。
俺は体勢を立て直しながら、パニッシャーの右腕に狙いを定めた。
(集中しろ……!)
さっき練習したばかりの、力の制御。
体中のエネルギーを、右手の掌に。
「おおおおおッ!」
叫びと共に、俺は掌から青白い力の奔流を解き放った。
今までで一番、強力なバーストだ。
衝撃波は一直線にパニッシャーの右腕に命中し、凄まじいスパークを散らす。
レールガンはめちゃくちゃに破壊され、黒煙を噴き上げて沈黙した。
「はぁ……はぁ……やった、か……?」
だが、安堵したのも束の間。
急激なエネルギー消費に、視界がぐにゃりと歪む。
立っているのがやっとで、意識が遠のいていく。
武器を破壊されたパニッシャーは、しかし、まだ活動を停止していなかった。
左腕をこちらに伸ばし、俺を捕獲しようと歩み寄ってくる。
(もう、だめか……)
意識が途切れかけた、その時。
AIの声が、頭に響いた。
《あなたは一時的にパニッシャーを無力化しました》
《しかし、一体に過ぎません。より強力な追跡者が、間もなく複数投入されるでしょう》
《このままでは、あなたの生存確率は極めて低いです》
AIは、淡々と絶望的な未来を告げる。
《ですが、活路はあります》
《この世界には、あなたのようにコグニタを持たず、ガイアの監視から逃れて生きる人々が存在します》
《彼らと接触し、情報を、そして力を得る必要があります》
ガイアに支配されていない、人々。
そんな奴らが、本当にいるのか……?
《彼らのコミュニティの場所を、私は特定可能です》
《どうしますか?》
朦朧とする意識の中、俺は初めて、AIの提案に意味を見出した。
こいつは、俺を”生かす”ための選択肢を提示している。
『……わかった』
俺は、か細い声で答えた。
『どうすればいい? ……教えろ』
それが、俺が初めて自分の意思で、この未知の力と、無機質な相棒と共に歩むことを決めた瞬間だった。