第1話:虚無(ホロウ)の孤独
夜明けだ。
合成繊維の薄い天井を、人工太陽の光が白々と照らし出す。
秒単位で管理された都市国家アトモスの一日は、いつだって正確無比に始まる。
俺は固いマットレスの上で身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。
軋む身体のあちこちが、昨日の労働の痕跡を主張している。
プレハブの壁に埋め込まれた簡素なモニターが自動で点灯し、無機質な合成音声が空気を揺らした。
《おはようございます》
《現在のバイタルデータに異常はありません》
《睡眠スコアはC+。推奨される一日の活動計画を送信します》
脳内に直接、声が響く。
俺にだけ随行する支援AI。名乗るほどの名前もない、ただのシステムだ。
『ああ、今日もか』
口には出さず、思考だけで応じる。
こいつとの対話は、いつもこうだ。
(退屈な一日の始まり、か……)
俺はベッドから起き上がり、狭い室内の窓から外を眺めた。
雑居ビルの屋上に違法設置された、ただの箱。それが俺の城であり、鳥籠だ。
眼下には、ガラスと金属でできた摩天楼がどこまでも広がっている。
空を滑るように進む自動運転のエアカー、ビルの壁面を流れる巨大なホログラム広告。
その一つが、今日の都市全体の「感情ステータス」を映し出していた。
【本日推奨感情:JOY(喜び)78% / CALM(平穏)15% / OTHERS(その他)7%】
【アトモス市民の皆様、今日も最適化された幸福な一日を】
市民は脳に埋め込まれたチップ「コグニタ」によって、感情データさえ共有し、社会全体の幸福度を維持している。
広告が告げる「喜び」のパーセンテージは、大多数の市民が今、そう感じるようにプログラムされている証拠だ。
(だが、俺には関係ない)
俺の胸を満たしているのは、そんなデータ化された感情じゃない。
わずかな倦怠感と、腹の底に澱のように溜まった、どうしようもない孤独感だけ。
コグニタを持たない異端者、「虚無」と呼ばれる俺は、この完璧な世界のバグのような存在だった。
着古したパーカーを羽織り、プレハブのドアを開ける。
朝の冷たい空気が肌を刺した。
屋上の縁まで歩き、手すりにもたれながら階下を見下ろす。
通勤ラッシュが始まっていた。
同じデザインの機能的な服を着た人々が、同じ歩調で、同じ方向へと流れていく。
まるで巨大な生命体を構成する、意思のない細胞の群れだ。
彼らの口元が、同じタイミングで綻ぶのが見えた。
コグニタを通じて、今朝一斉配信された「流行のジョーク」でもダウンロードしたのだろう。
少し離れた場所では、数人の男女が「昨夜の共有夢で見た感動的なストーリー」について熱心に語り合っている。
それもガイアが提供した、作られた感動だ。
(くだらない……)
俺には、その会話の意味も、面白さも、感動も、何一つ理解できない。
作り物の感情で繋がった彼らの輪に、俺が入る隙間はどこにもなかった。
誰とも視線を合わせぬよう、フードを深く被る。
俺は彼らにとって、存在しないのと同じだ。いや、存在してはいけない異物か。
屋上の隅に置いたゴミ袋を担ぎ、階下へと続く外階段を降りる。
アトモスの隅々まで清潔に保たれた街で、俺の住処のような場所から出るゴミは、それ自体が異物だった。
ゴミ処理場へ向かう道すがらも、異様さは続く。
人々は耳元のインカムに触れるでもなく、宙を見つめたまま会話している。
コグニタを介した思考通信だ。
時折、彼らの瞳が一斉に同じ方向を向く。
きっと、面白い視覚情報でも共有されたのだろう。
そのたびに、俺だけが取り残されているのだと、改めて思い知らされる。
彼らの視界には、AR(拡張現実)で彩られた美しい街並みが広がっているはずだ。
味気ない配給食も、コグニタを通せば極上のディナーの味になるという。
だが、俺の目に映るのは、灰色で無機質なコンクリートの壁と、排気ガスで汚れたアスファルトだけ。
俺が生きているこの世界は、彼らが見ている世界とは、きっと全く違う。
ようやく指定のゴミ集積所に辿り着き、ゴミ袋を放り込む。
その時だった。
すぐそばで談笑していたカップルの男の方が、俺の存在に気づいた。
「……なんだ、あいつ。フードなんか被って」
「ホロウよ、きっと」
「関わらない方がいいわ。感情が不安定で、何をするか分からないってガイアのセキュリティ情報にもあったでしょ」
女の声は、あからさまな軽蔑と、少しの恐怖に染まっていた。
彼らのコグニタが、俺という「異物」に対するアラートを発しているのだ。
(分かってるさ。俺だって、お前らに関わりたくない)
俺は何も答えず、彼らに背を向けて足早にその場を離れた。
心臓が嫌な音を立てていた。
怒りか、悲しみか。
分からない。
ただ、この喉の奥を焼くような感覚だけが、俺が”生きている”ことの唯一の証明だった。
向かう先は、街の最下層に位置するジャンク屋「鉄くず通り」。俺の仕事場だ。
そこは、アトモスがひた隠しにする街の「排泄物」が集まる場所。
壊れたドローン、旧世代の家電、用途不明の電子部品が、巨大な山となって積み上げられている。
オゾンと焼けたオイルの匂いが混じり合った、むせ返るような空気。
だが、管理された街の清潔すぎる空気より、俺はこの鉄と油の匂いの方がよほど落ち着いた。
ここにあるのは、役割を終えた”本物”のガラクタだけだ。
店の奥で、店主の老人が磁力リフターを操作して、廃棄コンテナを荷下ろししている。
俺は無言で会釈すると、いつもの作業台に向かった。
今日の仕事は、廃棄されたサーボモーターの山から、まだ使えるパーツを選り分けること。
単純作業だが、何も考えなくていいのは気楽だった。
黙々と手を動かし続ける。
モーターの硬い感触、指先に染み付く油の匂い。
五感が伝える情報だけが、俺の世界の全てだった。
何時間そうしていただろうか。
思考の海に沈んでいた俺の意識を、脳内の声が引き上げた。
《未確認信号を感知。解析します》
いつものAIの声だ。
このジャンクの山には、まだ微弱な信号を発し続けているパーツがいくらでもある。
『なんだ、また壊れた端末か? 無視しろ』
俺は思考で返し、作業を続けようとした。
だが、AIの次の言葉に、俺の手が止まる。
《……エラー。解析プロトコルがループしています》
《情報が定義外の形式です。再試行します》
《再試行。……エラー。参照可能なデータバンクに該当情報が存在しません》
(エラー……だと?)
こいつがこんな反応を示すのは初めてだった。
いつもはどんな情報も瞬時に解析し、冷静に結果だけを報告してくる。
そのAIが、珍しく「分からない」と白旗を上げたのだ。
まるで未知のウイルスに出会ったコンピュータのように、同じ処理を繰り返している。
『どういうことだ?』
《信号の発信源を特定。座標を提示します》
脳内のUIに、作業台のすぐ下にあるガラクタの山の一点が、赤いマーカーで示された。
何かが、いつもと違う。
胸のざわめきが、俺にそこを掘れと告げていた。
俺は工具を置き、AIが示す場所のガラクタをかき分け始めた。
ホコリと錆にまみれた電子部品の山を掘り返していく。
指先が傷だらけになるのも構わなかった。
やがて、硬い何かに指が触れる。
それは、この山に埋まっている他のどんなガラクタとも違う、奇妙な感触だった。
慎重に周りのジャンクを取り除くと、鈍い光を放つ手のひらサイズの金属片が姿を現した。
それは、今まで見たこともない金属でできていた。
表面には、電子回路とも違う、幾何学的な紋様がびっしりと刻まれている。
(なんだ、これ……。古代遺跡から掘り出されたオーパーツか何かか?)
こんなものが、なぜ電子機器の墓場にあるのか。
《警告。高エネルギー反応を検知。接触は推奨されません》
AIの警告が響く。
だが、俺はまるで何かに引き寄せられるように、その金属片へと手を伸ばしていた。
指先が触れた、その瞬間。
「ッ――!?」
閃光が弾けた。
いや、物理的な光じゃない。脳内で、白いノイズが爆発した。
凄まじい量の情報が、濁流となって俺の意識に流れ込んでくる。
それはアトモスのデジタル情報とは全く違う、もっと生々しくて、混沌とした、理解不能な力の奔流だった。
(頭が……割れる……!)
視界が明滅し、立っていられなくなる。
《警告! 未登録データを受信!》
《危険です! 即時破棄を推奨します!》
AIが悲鳴のような警告を発している。
だが、もう遅い。
俺はその金属片――データ片を、強く握りしめてしまっていた。
まるで、それが最後の命綱であるかのように。
「ぐっ……あ……ぁ……!」
意識が遠のいていく。
膨大な情報量に脳が焼き切れそうだ。体が痙攣し、膝から崩れ落ちた。
その時だった。
――バチッ! バチバチッ!
俺の意思とは無関係に、身体から青白い火花が迸った。
それはまるで、俺自身がコンデンサになったかのように、溜め込んだエネルギーを暴発させたかのようだった。
「バースト」――後から思えば、それが俺の最初の魔法だった。
放たれた衝撃波は、周囲のジャンクパーツや電子機器に襲いかかった。
作業台の照明が弾け飛ぶ。山積みだったサーボモーターがショートし、火花を散らして爆ぜる。
近くにあった監視ドローンの残骸が、バチン!と音を立てて完全に沈黙した。
連鎖反応は一瞬で広がり、ジャンク屋の一角は破壊的な静寂に包まれた。焦げ臭い匂いが立ち込める。
「な……んだ、これ……」
俺が、やったのか?
呆然と自分の掌を見つめる。
そこには、先ほどのデータ片が静かに収まっていた。
あれに触れたせいで、こんなことに?
恐怖が背筋を駆け上った。
(俺はただのホロウじゃなくなった……)
(正体不明の、危険なバケモノになってしまったのか……?)
その変化は、俺だけが気づいたものではなかった。
ジャンク屋の外から、甲高いサイレンの音が微かに聞こえ始めた。
都市のあらゆる場所に設置されたガイアの監視網が、この異常なエネルギー放出を感知したのだ。
ふと空を見上げると、遠くを巡回していた監視ドローンが、一斉にこちらへと機首を向けるのが見えた。
無数の赤いレンズが、俺という「危険因子」を正確に捉えようとしている。
全身の血が凍りつくのを感じた。
その時、混乱していたはずの脳内AIが、元の冷徹で無機質な声に戻って、最終報告を告げた。
《……解析完了》
《受信したデータは、現行の科学技術体系では説明不可能なエネルギー操作術》
《データベースの抹消領域に残された僅かな痕跡から、これは”魔法”と呼称される、過去の遺物です》
(魔法……? なんだそれは。ゲームやファンタジーの話じゃないのか)
だが、思考する暇は与えられなかった。
AIは淡々と、しかし決定的な事実を宣告する。
《あなたは現在、ガイアの第一級監視対象に設定されました》
全身に鳥肌が立った。
(逃げろ)
本能が叫んでいた。
俺は握りしめたデータ片をポケットにねじ込み、ガラクタの山を蹴散らして走り出した。
どこへ?
分からない。
ただ、このまま捕まれば、俺は分解され、研究され、消されるだろう。
サイレンの音が、急速に近づいてくる。
こうして、俺の退屈で孤独な日常は、唐突に終わりを告げた。
虚無だった俺の、逃亡者としての日々が始まったのだ。