2 往生際の悪いやつだな
数日後。
朝食を食べ、学園に行く準備を終えて自室を出たところで、お父様に出くわした。
「アウロラ。キリオンが来てる」
「え?」
二人で、顔を見合わせる。
お父様の困惑が、手に取るようにわかる。
キリオンがすでに帰国していることは、昨日レアード侯爵家から知らせがあった。
でもまさか、今日うちに来るなんて思わないじゃない。
確かに留学する前は、毎日一緒に馬車で学園に通っていたけども。
わけがわからないまま玄関ホールに向かうと、学園の制服を着たキリオンが立っていた。
「……アウロラ」
一瞬、少しだけ切なそうに顔を歪めたキリオンは、すぐにあの柔らかな笑顔を浮かべる。
「元気だった?」
近づいてきたキリオンは、精悍な青年へと成長していた。
私より少しだけ高かった身長は見上げるほどになっていて、顔つきも体つきも最後に会ったときより明らかに大人びている。
でも飄々としてマイペースな雰囲気は、あの頃のまま。
キリオンはゆっくりと手を伸ばして、私の頬にそっと触れた。
「……きれいになったね、アウロラ」
「……え?」
「……会いたかった」
感極まったようにつぶやくキリオンに、私は動揺を禁じ得ない。
ちょ、ちょっと、待って。
これだとなんだか、時を越えてようやく巡り合えた愛し合う恋人同士みたいなんですけど……!
思った以上に甘やかな空気感を醸し出すキリオンに息も絶え絶えになりながら、私はようやく言葉を絞り出す。
「キ、キリオン、あの、ディオーナ様は……?」
「ディオーナ様?」
その名前が出た瞬間、キリオンは探るような訝しむような、なんとも言えない表情になった。
でもすぐに何食わぬ顔をして、冷静に答える。
「……ディオーナ嬢も一緒に来たこと、知ってるの?」
その言葉に、相槌も打てないほどの衝撃が走った。
――――やっぱり、一緒に帰ってきたんだ……!
噂は、本当だったのだ。
キリオンは、ディオーナ様を連れて帰ってきた。
私との婚約を解消して、ディオーナ様との婚約を結び直すために。
それなのに、こんなふうに気を持たせるような態度を見せるとは、なんて罪作りな人だろう。
ため息がもれそうになるのを必死でこらえながら、はたと気づく。
……私との婚約はまだ解消になっていないから、キリオンなりに義理を通そうとしているのかもしれない。
そう思ったら、立っているのが苦しいほどのめまいに襲われる。
意外に律儀な性格のキリオンのことだ。
私たちの婚約が正式に解消になるまでは、形式的な関係であっても婚約者としての義務を果たそうとしているのだろう。
そんなキリオンの誠実さが、非情にも私の胸をえぐる。
完膚なきまでに、私の心を叩きのめす。
学園に向かう馬車の中で、私たちはほとんど話をしなかった。
キリオンは何か話したそうにしていたけれど、私は決定的なことを言われるのが怖くて、ただ黙って下を向いていた。
◇・◇・◇
学園に到着すると、正門の辺りに何やら人だかりができていた。
輪の中心にいるのは、どうやらセンゲル殿下らしい。
その横には見覚えのない容姿端麗な令嬢が立っていて、上品なオーラを纏いながらにこやかに微笑んでいる。
「あれは……」
「フェリシア殿下だよ」
「え?」
「センゲル殿下がランガル王国での留学を終えたから、今度はフェリシア殿下がこっちに留学してきたんだ。学園を卒業したら、そのまま輿入れする予定になってるし」
「ああ、そういう……」
そういえば、そんな説明が事前にあったかもしれない、とぼんやり思う。
センゲル殿下とフェリシア殿下は肩を並べて、学園生たちからの歓迎の言葉を受けていた。
よく見ると、センゲル殿下はフェリシア殿下の腰に手を回して、がっちりとホールドしている。
センゲル殿下の溺愛と独占欲をこれでもかというほど見せつけられて、なんだか妙に気分が沈む。
「俺たちも挨拶に行こうか」
そう言って、キリオンは当たり前のように私の手を取った。
引っ込めたいのに、そうできない自分がいる。
優しく手を握られて、舞い上がりそうになっている自分に気づいて、浅ましさと情けなさに泣きたくなる。
「……アウロラ?」
歩き出そうとしていたはずのキリオンは立ち止まり、心配そうに眉根を寄せた。
「どうかした?」
「え……?」
「具合でも悪い?」
「いや、あの……」
「なんか、顔色が悪いけど」
「……大丈夫」
取り繕うように笑う私を見て、キリオンが何か言いたそうに口を開きかけたそのときだった。
「アウロラ!」
聞き覚えのある声が、棘を含んで飛んできた。
目を向けると、案の定、駆け寄ってくるルストが視界に入る。
「どうした? 何かあったのか?」
慌てたように息せき切って駆けつけたルストは、キリオンが私の手を握っていることに気づいたらしい。
腹立たしげにキリオンを睨みつけながらもそのことについては何も触れずに、深刻そうな表情で私の顔を覗き込む。
「アウロラ、どうした? 大丈夫か?」
「う、うん」
「顔色が悪いな。保健室にでも行くか?」
「え? ううん、大丈夫」
「……君は、確か……」
私たちのやり取りに、キリオンが平然と口を挟む。
そのときなぜか、私の手を握る力がぎゅっと強くなった。
絶対に放すまいとする揺るぎない意志さえ感じられて、思わず心臓が跳ねる。
「俺? 俺はルスト・シェルデンだよ。お前、自分の婚約者の友人関係も把握していないのか?」
ルストは不愉快そうにムッとして、キリオンを見返した。
「……いや、――」
「自分の婚約者が誰と仲良くしてて誰を大事に思っているかなんて、気にしたこともないんだろ」
吐き捨てるような口調は、そこはかとなくキリオンを見下していて、辛辣だった。
言ってやったとばかりになぜか得意げな顔をするルストは、追撃の手を緩めない。
「だいたいさ、なんで二人でいるんだよ? キリオンが一緒にいるべきなのは、アウロラじゃないだろ」
「は?」
「お前が学園に連れてくるべきなのは、アウロラじゃないって言ってるんだよ」
「……何を言ってるんだ?」
「まったく、往生際の悪いやつだな」
ルストはわざとらしく、大きなため息をつく。
全部言わないとわかんないのか? とでもいうような、尖った目つきをしている。
「どういうつもりか知らないけど、いい加減アウロラを解放してくれないかな? いい迷惑なんだよ。振り回されるアウロラの身にもなれよ」
「振り回す? 俺が?」
「そうだよ。お前にはもっと相応しい相手がいるんだろ? だったらもうアウロラのことは放っておいて、本命のところへ行ってくれよ」
「は? 本命?」
「いいからアウロラのことは、俺に任せろって言ってんの」
「……なんで?」
ルストの勢いがどうにも解せないらしいキリオンは、戸惑いがちに私の顔を見下ろして尋ねる。
「アウロラ。どういうこと?」
「え?」
「俺って、アウロラのことを振り回してた? 迷惑になってた?」
「そ、それは……」
「やっぱり、俺の愛が強すぎた?」
「……はい?」
予想外の、想定外の、本当に思ってもみないワードが返ってきた。
……あ、愛が強すぎる……?
なんだそれ。ちょっと待って。
いったい、どういう――――?
「キリオン様!」
そのとき突然、今度は後方から悲鳴にも似た声が飛んできた。
振り返ると、そこには聖なる女神と見紛うばかりのまばゆいオーラを放つ令嬢が立っている。
そしてすぐさま、キリオン目がけて一直線に近づいてくる。
「キリオン様、わたくしも来てしまいました……!」
頬を赤らめ言葉を詰まらせるこの令嬢が誰なのか、嫌でもわかってしまった瞬間だった。