1 現実を見ろ
「お前の婚約者、いよいよ帰ってくるらしいな」
声をかけられて視線を上げると、幼馴染でもあるルストの顔が眼前にあった。
「……そうみたいね」
なんでもないことのように、さらりと答える。
でも私の心の中は、これ以上ないほどざわついていた。
そのざわつきを知ってか知らずか、幼馴染は目の前の椅子にゆっくりと腰かける。
「俺との約束、覚えてるよな?」
「約束って……」
「キリオンとの婚約が解消になったら、俺と婚約してくれるんだろ?」
「そんなの、まだどうなるかわからないじゃない」
真面目な顔でそう答えると、ルストはわかりやすく不満そうな顔をする。
私とキリオンの婚約が決まったのは、お互いが十歳のときだった。
フォルカ伯爵家の長女である私とレアード侯爵家の一人息子であるキリオンの婚約は、貴族間の派閥関係や利害関係を鑑みて結ばれた、政略的なものだった。
レアード侯爵家は、代々王立騎士団長を務める家系。
キリオン自身も剣術の才に長け、王太子センゲル殿下の側近候補として将来を嘱望されている。
おまけに、きらめく銀髪と菫色の瞳は常に人目を引き、端正で理知的な顔立ちは冴え冴えとして麗しく、ともすれば無愛想で素っ気ない物言いは硬派な印象を与えることもあって、多くの令嬢たちの人気を集めている。
「氷の騎士様ファンクラブ」なるものが発足するくらいだから、相当である。
そんなキリオンと私との関係は、政略的なものとはいえそれなりに良好だったと思う。
十歳で婚約が決まってから、キリオンは定期的な交流を欠かしたことがなかったし、誕生日のプレゼントも毎年きっちり贈ってくれたし、学園に入学してからは私のことを婚約者として正しく扱ってくれた。
いろんな令嬢たちから秋波を送られたり媚びた目つきで言い寄られたりしても、キリオンが令嬢たちになびくことは一切なかった。
むしろ無表情で眉根を寄せて、「手をどけてくれませんか」なんて淡々と言い返して、それでますますファンが増えるという有り様だった。
学園の二年生に進級するとき、王太子センゲル殿下が隣国ランガルに留学することが決まる。
センゲル殿下はランガル王国の第二王女、フェリシア殿下と婚約している。婚約者の母国ランガル王国に二年間留学して、世界各国の情勢を知り見聞を広めることになったのだ。
キリオンは、その留学に付き従うことになった。センゲル殿下の側近かつ護衛としてである。
それ自体はとても名誉なことだし、反対する理由は特になかった。本人は「面倒くさい」とぼやいていたけど、将来のことを考えたら行ったほうがいいと思ったし、寂しいと言ってキリオンの可能性を邪魔するようなこともしたくなかった。
だって、たった二年だもの。
そう思いながら、笑顔でキリオンを見送った。
はじめの半年くらいは、まめに手紙が送られてきていた。返事を書けばすぐにまた返事が戻ってくるような、頻繁なやり取りが続いた。
ところが、急にぱたりと手紙が来なくなった。
忙しいのだろうとあまり気にせず、こちらから何度か送ってみても一向に返事は来ない。
そうして一年が過ぎた頃、ある噂が聞こえてくるようになる。
それは、キリオンがランガル王国でとある公爵令嬢と懇意にしているという噂だった。
ランガル王国で一、二を争う絶世の美女と名高いベルセリウス公爵家のディオーナ様と『氷の騎士』キリオンが恋仲になり、ランガルの学園で密かに愛を育んでいるという噂。
はじめは、信じられなかった。
何かの間違いだと思った。
いや、思いたかった。
だって、あんなにたくさんの令嬢たちに言い寄られても粉をかけられても、まったく相手にしなかったキリオンが、まさか。
でもベルセリウス公爵家のディオーナ様が人外レベルの美しさを誇っているのは有名だし、その傾国の美貌にキリオンが目移りしたとしても仕方がない、とも思った。
対する私は、ごくごく普通の茶髪に薄い空色の瞳をした、ごくごく普通の伯爵令嬢。
キリオンが言い寄ってくるたくさんの令嬢たちに見向きもしなかったのが、不思議なくらいだったんだもの。
そうこうしているうちに、聞こえてくる噂はどんどん詳細かつ具体的なものになっていく。
例えば、ランガルの学園が主催するパーティーで、キリオンがディオーナ様をエスコートしていた、とか。
そのときディオーナ様が来ていたまばゆいばかりの銀色のドレスは、キリオンが贈ったものだ、とか。
学園でも常に二人は連れ立って歩いていて、二人の仲はセンゲル殿下やフェリシア殿下も公認である、とか。
二年間の留学を終えて帰国する際には、キリオンはディオーナ様を連れ帰り、もともと結ばれていた政略的な婚約を解消するつもりでいる、とか。
そんな噂は、とうとう私の両親の耳にも届いてしまう。
両親もキリオンの実直さや誠実さを知っているから、はじめは信じていなかった。
でも、考えてみれば、留学して半年を過ぎた頃から手紙がぱたりと来なくなっている。こちらから出した手紙に、返事もない。
本来なら、キリオンの生家であるレアード侯爵家に確認したいところだけど、格上の、しかも騎士団長を務める侯爵に噂の真偽を確かめるのはちょっと憚られる。
どうしたものかと頭を悩ませていたある日、お父様の親友でもあるシェルデン伯爵からある提案があった。
シェルデン伯爵領はうちの領の隣に位置し、父親同士は昔から仲がよく、その縁もあって私たち子ども同士も幼馴染として仲良く育ってきた。
その幼馴染のルストが、実は私と婚約したいと言っているという。
だからキリオンが帰国して婚約解消の話が確実になったら、ルストと婚約してくれないか、という提案だったのだ。
これには家族全員驚いた。
でも四歳年下の弟のロビンだけは、驚いていなかった。
「ルストはずっと姉上のことが好きだったんだよ。でもうかうかしてたら別のやつに取られたって、悔しそうに言ってたんだ」
そんなことを急に言われて、平常心を保てるわけがない。
それから数日後、ルストとシェルデン伯爵が我が邸にやって来た。
婚約について、話し合うためである。
お父様とシェルデン伯爵が今後のことについて話し合う間、私はルストと二人きりにさせられた。
ルストは私にとって、気の置けない友だちの一人。
同じ伯爵家という家柄もそうだし、幼い頃から知っている相手だし、ルストの妹と私とロビンと、いつも四人で走り回って遊んだ仲だもの。
それが、いきなり、婚約だなんて。
「お前としては、驚いてるんだろうけどさ」
向かい合って座ったルストは、とても真面目な顔をしていた。
普段はどこかふざけてお茶らけていて、チャラチャラと軽薄な言動ばかりのルストが、思い詰めたように硬い表情をして私を見据えていた。
「ずっと、アウロラが好きだったんだ」
「え……」
「だからアウロラの婚約が決まったとき、ショックだった。家同士のつながりで決まった婚約だから仕方がないとはいえ、なんでもっと早く自分から言い出さなかったのかって後悔したんだ。だからもう、このチャンスを逃したくない」
「チャンスって……」
「アウロラには悪いけど、俺は神に感謝したよ。キリオンがこっちにいた頃は、ちゃんと婚約者としての義務を果たしていたから何も言えなかった。つけ入る隙もなかったから、お前のことはすっぱり諦めて気心の知れた幼馴染として見守っていこうと思ってたんだ。でもあの噂を耳にしたとき、俺はもうアウロラのことをキリオンに任せる気はなくなった。キリオンがあっちで別の女にうつつを抜かしているなら、俺がアウロラをもらう。俺がアウロラを幸せにする」
「ちょ、ちょっと待ってよ。まだあの噂が本当かどうかなんて……」
「お前、まだあいつのこと信じてるのか?」
「信じてるっていうか、本当のことはまだわからないって思って――」
「今やあの噂を知らないやつなんかいない。キリオンがなんとかっていう公爵令嬢を連れて帰ってくるのは、周知の事実だろう?」
「だからまだわからないって――」
「いい加減、目を覚ませよ。現実を見ろ。キリオンは留学先で、別の女を好きになったんだ。お前との婚約も、きっと解消になる」
噛みつくような声は、容赦なく私を追い詰める。
ルストは懇願するかのような目をして、じっと私を見つめている。
「俺はお前を泣かせたり悲しませたりしない。絶対に幸せにすると誓う。だから、キリオンとの婚約がなくなったら俺と婚約してくれよ」
その日から、ルストはまるで私を婚約者のように扱い、丁寧に接し始めた。
といっても、まだ私とキリオンとの婚約は解消になっていない。
だから身体的な接触はないし、最低限の節度は保っている。それでも常に私のそばを離れず、あれこれと気にかけてくれる。
ルストの優しさは、弱っていた私の心に響いた。
ルストがそばにいてくれたから、キリオンとディオーナ様の噂が聞こえてきても、なんとかやり過ごせた気がする。平静を装うことが、できた気がする。
でもルストの優しさに触れるたびに、私はキリオンを思い出した。
そっと触れる指先や、優しく私を見つめる菫色の瞳や、不意に見せる柔らかい笑顔や、旅立つ寸前突然抱きしめられたときの腕の強さを思い出して、切なくなってしまう。会いたくなってしまう。
この状況になって初めて、私はこんなにもキリオンのことが好きだったのだと、思い知らされた。
キリオンに会いたい。会ってちゃんと話を聞きたい。
でももし、噂が本当だったら?
キリオンの気持ちはとっくにディオーナ様に向かっていて、彼女を愛していると言われたら?
私のことなんかもうどうでもいいと、婚約は解消してくれと冷たく言われたら?
考えれば考えるほど、奈落の底に沈んでいくようで怖かった。
そうして泣きながら眠った夜は、一度や二度ではなかった。
そのキリオンが、いよいよ帰国する。
本編5話、おまけ1話の予定です。
よろしくお願いします……!