ずきんがらすの侍女
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「ああ……、何てこと……! からすちゃん。からすちゃんッ!」
ウアラーンの国は、海を臨む丘の上にある。
その頂にある泉のそばを、多くのばらの木が取り巻いていた。ここを庭として可憐に佇む小さな宮から、裸足のままとび出してきたタマーニャは悲痛な叫びをあげた……。
刻一刻と明るさを増す曙の光が、哀しい光景をあらわにしてゆく。
泉が湧き出ている岩々の重なりあい、そのすぐ傍ら。花びらと黒い羽とが無数に散乱する地面に、あのずきんがらすが翼を広げて横たわっていた。身体のすぐ下の短い草地には、赤黒く鳥の血が染みている。
間近にしゃがんで、タマーニャは右手でそっとずきんがらすの頭に触れた。閉じられていた目が、ゆっくり細くひらく。
「生きてるわ! ルニエさん、手巾に泉の水を含ませてきて!」
「はッ、陛下ッ」
さすが詩魂あふれる若き騎士。女王が地べたにあぐらをかいて鳥を抱きかかえるのを目の当たりにしただけで、すぱっと事情を察知した! いや何となくではあるが!
平生から詩情の源、すなわち詩神と仰ぐ女王陛下と鳥の取り合わせである。これだけ絵になるのだから、加えて関係性の説明なんていらないのだ。ルニエは垣根のようなばらの樹々を避けて、岩場へと走った。
「大丈夫よ、いま治すからね……。からすちゃん、しっかりしてちょうだい」
付け根からちぎれかけた左の黒い翼、そこから鳥の赤いいのちが流れ出しているのを見て、タマーニャは右手のひらをかぶせる。五つの指先が淡い金色に輝き始めた。
「ああ……! 陛下の≪治癒の手≫が……!?」
泉の水に浸した白い手巾を差し出しながら、ルニエが畏怖の念をこめて呟いた。
左手に受け取った手巾で、タマーニャはずきんがらすのくちばしを拭いてやる。どうやってシーエ騎士どもにはたかれたのだか、叩きつぶされてしまった右の目の上もそっと拭いた。
「からすちゃん。これはウアラーンの中心、わたし達の命の源である泉の水ですよ。かつてわたし達の祖先がここにばらを植えて、黒羽の女神さまに供えたの。女神さまのばらに通じる、力の水なのよ。お願い、……おねがい、帰って来てちょうだい」
鳥の身体を抱いたタマーニャの右手は光り続けている。けれど、ずきんがらすはもう動けない。
「行かないで、丘の向こうに行かないで。わたしのお着物、ずっとあなたに選んで欲しいのよ」
ぼたっ、ぼた。
女王の頬を流れた大粒の涙が、ずきんがらすの白い胸に落ちた。
ふるふるっ……一度だけ満足げに小さく身体を震わせると、……ずきんがらすは細く開けていた目を閉じた。
「……」
――およばなかった……!!
タマーニャの≪力≫は微力だった。ほんのちょっとのかすり傷しか治せないと、女王にはわかっていた。けれど彼女は、挑まずにはいられなかったのだ。
「陛下」
自身も双眸を潤ませて、近衛騎士ルニエは女王の背に慎ましく手を添える。
「……ルニエさん。この子は、色や香りや……きれいなものをたくさん、使って……」
ぼたっ。
「……この子がわたしに、わたし自身を取り戻させてくれたんですよう!!」
うわああああああん!
ぼた、ぼたぼた、ぼたーっ!
声を上げて、子どもみたいにタマーニャは泣いた。ぼたっ。幾粒もの涙が、やわらかい羽に包まれたずきんがらすの身体に落ちる。
ウアラーン女王でなく、友達をなくしてしまったただのタマーニャとして、彼女はそのとてつもない悲しみを嘆いた。鼻水が流れる。
女王陛下を探して静かにやって来た他の近衛と侍女らの十数人も、そういうタマーニャの姿をみとめて、近くに寄るのをためらった。
その時。
ずきんがらすの白い胸元が、ふぁっとさらに白く輝いた。
びくりと驚いたタマーニャとルニエの目に、それはまばゆく膨らむ明るい雲のように映る。その雲がふぁふぁっとうごめいて……、
……娘の姿をとった!
やせぎす小柄な生白い肌に、きれいな黒ぐろ髪を長く振り乱して、あどけないような褐色の瞳でその女はタマーニャを見る。
鼻水を二本たらしたまんま、タマーニャは口を四角く開けてぽかーんとした。
ささーっ!!
そこで動く衣擦れの音。詩魂の騎士ルニエがすごい速さで自分の紫紺外套を脱ぎ、女王と膝つきあわせて座り込んでいる娘にかぶせてやったのである……。
怪異でも何でも、いきなり目のまえ全裸の女性が出現して出たのなら、何ぴとたりともルニエに倣うべきであろう。
「あ、まんづ~あんがとない!」
実にさりげなくじつに自然に、娘はぴょこんとルニエに頭を下げた。続けて自分の両手をひょいと見る。
「……おれぇ……??」
ぱかっ! 弾けたような笑顔を浮かべる!
「はああああああ!! 人間さ、戻れだっだーーーあ!?」
ルニエの差し出した二枚目手巾で鼻水を拭きつつ、タマーニャは娘から目を離せないでいる。
「が、外国語だわ。ルニエさん、おわかり?」
「いえ……、わたくしにもさっぱりでございます」
二人がもそもそ話しているのを聞いて、娘ははっとしたらしい。ぽわっと白桃みたいな頬を紅くして、照れた。
「あー、すみません。わたしカログリアと言います。助けていただいて、すんごいありがとうございましたー。女王さま↑」
微妙に語尾が上がって妙な抑揚だが……、ともかくイリー語にて娘は言った。
「助けて、って……? どういうこと。わたしがあなたを、助けたの??」
「ええー。わたし昔、ずーっと東に行ったところの宮廷で侍女さやってたんですげんちもー。そこのお妃さまに怒られてー、呪われて~、はぁーずきんがらすさ、姿を変えられてしまったんですねぇー↑」
ウアラーン女王と詩魂の近衛騎士の双眸が、ちいさき点々となった。とっても描きやすい。
「人間に戻るためには、同じ人の涙を八粒、からだに浴びねばいかんかったのですー↑」
「涙はっつぶ……」
「な、何と厳しい呪い解除条件!!」
詩魂の騎士は、上品に恐れおののいた。
「じゃあ……、じゃあ! あなた、からすちゃんなの!?」
「はぁいー↑」
「わたしを助けてくれた、お着物係のからすちゃん!!」
「え~、助けたなんて……。わたしは、はぁ、女王さまに元気になってもらいたかっただけで↑ ……くろぁっ!」
ルニエの羽織らせた紫紺外套の上からぎゅうと女王に抱きしめられて、カログリアなる娘は思わずからす的に鳴いてしまった。
「よかった良かった、よかった! ほんとに!」
泣き上戸の女王は、嬉し涙をぼろぼろ流した。
その脇でルニエが、さらに背後で紫紺のウアラーン騎士らと侍女達が、両手を胸の前で握り合わせて、……上品に喜び微笑んでいた。
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こうしてウアラーン女王のおかげで人間の姿を取り戻したカログリアは、そのままタマーニャの侍女として勤めた。
彼女の故郷はすでに滅びて失われていたし、翼なき今カログリアも戻りたいとは思わなかったのである。
温故知新、いにしえの重ね色目の知識に生来の閃きの良さをまじえて、カログリアはタマーニャの気分体調にあわせ絶妙な着こなしで女王を装わせた。
タマーニャがめでたくルニエを夫に迎え、子らが生まれ、カログリア自身が家庭を持っても、毎朝の儀式は変わらなかった。
髪と同じ百花蜜色の長衣に、紫紺の外套を重ねて羽織りながら、鏡台前から女王は立ち上がる。
鏡の中のタマーニャに、カログリアはにこーっと歯を見せて笑いかけた。
「ばっちりですー↑ 女王さま! 今日も元気に、いってらっしゃいませ!」
タマーニャも笑う。左耳上に挿したばらが、ふわっと上品に香った……。
女王の外套胸元にほどこされた、ウアラーン国章がきらりと煌めく。
意匠化された黒羽の女神を、四つのばらの花刺繍が明るく誇らしげに飾っている。
・・・