女王陛下はかく語りき
朝からふて腐れる娘の姿を見て、王妃は思わず苦笑を漏らした。隣に座る娘の表情は不機嫌と顔に書いてあるようだ。もちろん理由は分かっている。
今日は娘の誕生日だ。娘は何よりもこの日を楽しみにしていた。夜には娘の誕生を祝う晩餐会も予定されているが、娘はそんなものよりも楽しみにしていたことがある。
「…約束したのに…」
「仕方がないでしょう。急に用事ができてしまったんですもの」
「私との約束の方が先だったのに」
今にも泣き出しそうな顔をする娘の頭を、王妃は優しく撫でた。本当なら今ごろは親子三人で王家敷地内の湖に、昼食も兼ねて散策に行くはずだった。急にやって来た隣国からの使者の訪問によって、それはなくなってしまったのだが。
娘はとても楽しみにしていた。政務に忙しく滅多に一緒にいることのできない父王。口に出さずとも、やはり寂しかったのだろう。だからこそ、今日という日を心待ちにしていたのだ。
「じゃあ母さまがお話をしてあげましょう」
塞ぎ込んだままの娘の頭を優しく撫で、王妃は娘にニコリと笑いかける。娘は興味を惹かれたように王妃を見上げた。王妃は優しくその体を抱き寄せる。
「昔々、とある国に意地っ張りで泣き虫なお姫さまがおりました――…」
* * *
フェリシアは森の中を歩いていた。それは不機嫌な顔で。勢いで飛び出してきたために、履いていた絹の靴はどろどろで悲惨なことになっている。それでも帰ろうとはフェリシアは微塵も思わなかった。
今日はフェリシアの誕生日。夜には豪華な誕生パーティーが予定されている。フェリシアは何よりもそれを楽しみにしていた。
父王の、あの言葉さえなければ。
「父さまのバカ…」
フェリシアは何度呟いたかわからない言葉を、もう一度恨みがましく呟く。楽しかった気持ちも台無しだ。
政務に忙しい父王。それでも母を亡くしたフェリシアのためにできるだけ側に居てくれた父王が、フェリシアは大好きだった。だからこそ、父王が計画してくれた誕生パーティーを楽しみにしていたのに。
『今夜のパーティーにはお前の婚約者も来るからな』
朝食の席で言われた衝撃的な一言。フェリシアは文字どおり固まった。婚約者なんて初めて聞いた。よりにもよってそれを当日に言うなんて。絶望がフェリシアを襲う。
嬉々として語る父王は婚約者の存在を気に入っているようだった。婚約者について色々語っているが、フェリシアの頭には何一つ入ってこない。それどころかだんだん怒りが込み上げてきた。
自分は王女だ。いずれは政治的駆け引きなどでどこかに嫁ぐだろうとは思っていた。それでも結婚というものに憧れはあるもので。そもそも、そういうことはもっと事前に本人に言うものではないのだろうか。
だから思わず飛び出してしまったのだ。婚約者に会いたくなくて。勝手に婚約を決めてしまった父王に対するあてつけの意味も込めて。
「父さまのバカ!」
怒りに任せてフェリシアは叫ぶ。侍女頭が聞いたらきっと卒倒するだろう。構うものか、とフェリシアは大股で歩いた。
足にまとわりつく草を蹴散らしながら当てもなくフラフラと歩く。このまま逃げてしまおうと思うほど、フェリシアは愚直ではなかったが、素直に帰ろうと思えるほど大人でもなかった。
フェリシアは道なき道を進んでいく。ただひたすら怒りに任せて足を動かしていた。だからフェリシアは、周りにまったく注意を払っていなかった。
「きゃっ!」
何かを踏んでフェリシアはその場に転ぶ。鋭い痛みが膝と手のひらを襲った。手のひらを見れば擦過傷がある。転んだときに小石で怪我をしたのだろう。
予想外の怪我にフェリシアは顔をしかめた。そのまま転んだ原因を確かめるために振り返り――目を見開いて固まった。
「…………」
目の前には巨大なヘビ。上体を起こして舌を出すその姿は間違いなく威嚇していた。とぐろを巻くその姿に、フェリシアの足が動かなくなる。
どうやらフェリシアはヘビの尾を思いっきり踏んだらしい。ヘビの尾は無惨にもへこんで靴の跡がくっきりと残っていた。
ヘビが徐々に距離を詰める。フェリシアは恐怖に足が固まり、動くことができなかった。鋭い牙がフェリシアの視界に入る。
「あ…っ」
食べられる。フェリシアはそう思ってギュッと目を閉じた。その瞬間、腰元を誰かに掴まれる。「っ!」驚く間もなくフェリシアは横に引っ張られた。
びっくりして目を開ければさっきまで居なかった男の人が居た。柔らかそうな茶色の髪がフェリシアの耳をくすぐる。何が起きたのか、すぐには分からなかった。
呆然としている間にその人はフェリシアの手を引っ張り走り出す。十分な距離を走ってから、ようやく男の人は止まった。
「大丈夫?」
「はぁ……はぁ…」
息切れもせず男の人はフェリシアの顔を覗き込む。一方、かつてないほど速く走ったフェリシアは息も絶え絶えな状態だ。男の人はフェリシアの背中を優しく撫でる。それでようやくフェリシアも落ち着いた。
フェリシアは隣に立つ男の人を見上げる。見たことない人だった。服装からして貴族だと思うのだけど。不躾に見続けるフェリシアに、男の人が首を傾げた。そこでフェリシアは、自分がまだお礼を言っていないことに気づく。
「あの…ありがとうございました」
頭を下げるフェリシアに男の人は驚くと、柔らかく笑って「怪我は大丈夫ですか?」と聞いてきた。思いがけず、優しい笑顔を正面で見たフェリシアは顔が微かに赤くなる。
本当は擦りむいた膝が痛かったが、そんなのは気にならなかった。それくらい目の前の笑顔に意識が向いている。フェリシアは戸惑った。
もちろんパーティーなどで貴族の男の人と話したりしたことはある。それでもこの奇妙な高揚感を感じたことはなかった。思わず顔を背ければ、男の人がフェリシアの足元に跪く。
「あの…?」
「失礼。止血だけでも」
血は既に固まっていたけど男の人は丁寧にハンカチを巻いてくれた。そんな扱いを受けたことがないので、フェリシアはやっぱり頬が赤くなった。
「どこかのご令嬢だと思うのですが…従者の者とはぐれたのですか?」
当たり前のように言われた言葉にフェリシアは固まった。考えてみれば男の人の言葉は当たり前のもの。フェリシアの格好を見れば貴族の娘と思うのが普通だし、こんなところを一人で歩いているのはおかしいだろう。
フェリシアの頭の中は真っ白になってしまった。言い訳が何も思い付かない。文字どおり固まるフェリシアに、男の人は優しい笑顔を向けた。
「お名前を聞いてもよろしいですか?」
丁寧な言葉にフェリシアは「フェリシア…」と囁くように答える。男の人はそれを聞いてきた驚いたように軽く目を見張った。意外な反応にフェリシアが首を傾げる。
「なにか…?」
「あ…失礼しました。僕の名前はエミリオです」
エミリオはまるでお姫様にするように――実際にお姫様なのだが――フェリシアの手を取り、その手の傷に眉を寄せた。慌ててフェリシアは手を引っ込めたが、時既に遅し。
ため息をつくエミリオにフェリシアは泣きたくなった。なぜかは分からなかったが、エミリオにがっかりされたくないと思ったのだ。
エミリオは自分のタイを外すとそれを二つに裂いた。それからフェリシアの手を掴み、それらを丁寧に巻いていく。フェリシアはただそれを黙って見つめていた。
「不格好ですが」
「いいの。本当にありがとう。私こそあなたのタイが…」
困った顔をするフェリシアにエミリオは大丈夫です、とだけ言う。フェリシアはなんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
自分の我が儘で城を飛び出して怪我をしたのに、見ず知らずの人に多大な迷惑をかけている。さっきは危なかったところを助けてもらった。
「知らない方なのに親切にしてくださって本当に感謝します」
フェリシアなりの心からのお礼を述べれば、なぜかエミリオは苦笑を漏らした。それから優しくフェリシアの手を取る。
エミリオの笑顔を見る度に鼓動が速くなっていたフェリシアの心臓は、その感触に悲鳴をあげた。まるで爆発寸前だ。初めての感覚にフェリシアは混乱する。
どうしたというのだろう。自分の心臓はおかしくなってしまったのだろうか。戸惑うフェリシアをよそに、エミリオはフェリシアの手を引っ張って森の中を歩き出す。
「どこへ行くんですか?」
「お送りしましょう。きっと従者もいないのでしょう?」
図星だったのでフェリシアは黙った。その様子にエミリオは笑う。大方、フェリシアの反応は予想通りだったのだろう。フェリシアはますます恥ずかしくなった。
さっきまで歩いていた道なき道を、今度は戻っていく。闇雲に走っていたように思えたが、エミリオには道が分かっているようだった。
「お聞きしても?」
「何をですか?」
「従者も連れずにこんなところに居る理由です」
思わず黙り込めばエミリオが笑った。嫌そうな顔をするフェリシアの頭をエミリオが優しく撫でる。その感触にほだされて、フェリシアは躊躇いがちに口を開いた。
「……今日、誕生日なんです」
「それはおめでとうございます」
「ちっともおめでたくないんです」
話しながらさっきまで忘れていた怒りが、また沸々と沸き上がってきた。そうだ。元はと言えば、父王の横暴が原因なのだ。
「今日初めて知ったんですが、私には婚約者が居るそうです」
「……そうなんですか?」
「えぇ。いくら父と言えど勝手すぎます。私に一言くらい説明があったって…」
いきなり見知らぬ人を紹介されて婚約者だって言われたって納得できるはずがない。だけどもしも会った人がエミリオみたいな人だったら、私は――…。
そこまで考えてフェリシアは真っ赤になった。待って。今、自分は何を考えた? 結婚するならエミリオみたいな人が良い?
「フェリシア? 顔が赤いですよ?」
「っ!」
エミリオに顔を覗き込まれてフェリシアは思わず後ろに下がった。穴があったら入りたいとはまさにこの事だ。
会ったばかりの人なのにこんなことを思うなんて。恥ずかしさのあまりにフェリシアは泣きたくなった。
でもフェリシアがエミリオに惹かれているのは事実で。あの柔らかな笑顔を見るとフェリシアの胸が高鳴るのだ。
「――さぁ、着きましたよ」
エミリオの言葉に驚いて顔を上げれば確かに城の門が。正門ではなく、使用人が使う裏門の方に着いたようだ。
驚くフェリシアの手をエミリオは優しく取り、その甲に口付けた。触れられた場所が熱を持つ。
「気をつけて。……またお会いしましょう」
あの柔らかな微笑を浮かべてエミリオは去っていった。その背中をフェリシアはただ見送る。あの胸を焦がすような衝動を抱えて。
ただ、疑問が一つ。
「…私、ここから来たって言ったっけ…?」
フェリシアが城に戻ったあと、城内はまるで戦場のようだった。フェリシアの擦りむいた膝と手のひらを見て、侍女頭は卒倒しかかった。
とにかく膝と手のひらには丁寧に治療が施され、手のひらの包帯を隠すために手袋をした。膝はドレスで隠れる。
フェリシアはまだ誕生パーティーに出席することに納得していなかったが、みんなに上手く丸め込まれた。無理矢理に出席させられたフェリシアは、渋面のまま父王の隣に座っている。
「……フェリシア、もっと楽しそうな顔はできないのか?」
「無理です」
すっぱりと言い切ったフェリシアの言葉に、父王はしょんぼりと肩を落とした。ちょっぴり可哀想だって思ったけど仕方がない。
未だフェリシアの婚約者は姿を現さず、それがフェリシアを苛立たせ、また不安にさせた。そんな気持ちを知ってか知らずか、父王は何も言ってこない。
フェリシアは不服そうな顔を隠しもせずに辺りを見回した。どの人も楽しそうに談笑している。その中でこちらに向かってくる人影を見つけた。
「…まさか…」
その人は優しい微笑を浮かべながらフェリシアの側まで来ると、手の甲を取ってそこに口付けた。流れるような動作にフェリシアは何も言えず、その人を見つめる。
「お誕生日、おめでとうございます」
「なんで…」
エミリオはまるでいたずらっ子のような笑みを浮かべてフェリシアの側を離れると、今度は父王の元へと行く。楽しそうに話す二人は仲が良さそうに見えた。
二人はいくつか言葉を交わすとエミリオだけが戻ってくる。エミリオはフェリシアの手を取ると、テラスへとエスコートしていった。
テラスにはフェリシアとエミリオ以外には誰もいない。そのことに、フェリシアの心臓がまた速くなった。
「不機嫌そうでしたね」
「え?」
「婚約者の方には会えたんですか?」
「……まだです」
婚約者の話題が出ただけで顔をしかめるフェリシアに、エミリオが楽しそうに笑う。その笑顔にやっぱりフェリシアの心臓が跳ねた。
フェリシアはもう、自分の気持ちを隠せなかった。自分はエミリオに惹かれている。認めてしまえば、それは簡単にフェリシアの心を満たした。
助けられたあの瞬間に。優しい笑顔を見た瞬間に。自分はエミリオに恋をしてしまったのだ。
理解すると同時にフェリシアは悲しくなる。初恋の自覚が、婚約者と初めて会うこの日だなんて。自分の恋は終わったも同然だ。フェリシアは落ち込んだ。
「知ってましたか? 僕はあなたに会うためにここまで来たんです」
思いがけない言葉にフェリシアは目を丸くする。エミリオはフェリシアの頬を優しく撫でてから、フェリシアの両手を包み込むように握った。
「僕は顔も知らない婚約者を祝うためにこの国に来ました」
「エミリオ? 何を…」
「聞いて。この婚約に疑問を持ったことはなかったけれど、顔も見たことのない女性を妻に迎えることに抵抗はありました」
エミリオの真剣な目に、フェリシアは何も言えなくなる。今や心臓の鼓動は爆発しそうなくらい速くなっていた。
「森で出会ったあなたを見て、僕は初めて恋や愛といったものを理解しました」
「っ、」
「くるくると変わる表情や、素直な言葉に惹かれたんです。ですが僕には婚約者が居ます」
強く手を握り込まれる。フェリシアは自分が期待していることに気がついていた。そんなフェリシアの気持ちが分かったのか、エミリオが微笑みかける。
「そんなあなたが僕の婚約者だと知ったとき、僕がどれだけ喜んだか分かりますか?」
「え……?」
エミリオの両手がフェリシアの背中に回る。そのままフェリシアはエミリオに優しく抱き締められた。フェリシアは自分の顔が真っ赤になるのが分かる。思わずエミリオの肩に顔を埋めれば、エミリオが笑い声をあげた。
「婚約者だったからとか、そんなのは関係ありません。どうか僕の妻になってください」
それはエミリオから告げられた愛の告白。そんなことを言われたことのないフェリシアは、どうしたら良いのかわからず固まった。
いくらなんでも、フェリシアにだって理解できた。エミリオがフェリシアの婚約者だったのだ。なんという偶然なのだろう。あまりのことにフェリシアは何も言えなくなった。
「フェリシア?」
「……私でいいんですか? 子供っぽいし無鉄砲だしあなたにたくさんの迷惑をかけるかも…」
実際、森の中でたくさんの迷惑をかけてしまった。だからうんざりされたかな、とフェリシアは思っていたのだ。まさか好意を持たれていたとは。
エミリオはフェリシアの不安が分かったのか、両手でフェリシアの両の頬を優しく挟んだ。それから全てを包み込むような笑顔をフェリシアに向ける。
「あなたがいいんです。フェリシアに妻になってもらいたいんです」
その言葉をどれだけ期待していただろうか。フェリシアは思わず涙を溢した。
エミリオがそう言ってくれるなら、もう迷うことは何もない。
フェリシアはありったけの想いを込めてエミリオの胸に飛び込んだ――…。
* * *
「…――こうしてお姫さまは王子さまと結婚しましたとさ」
話し終わった王妃が娘を見ると、目を輝かせて王妃を見上げている。どうやら娘はこの話が気に入ったようだった。
「母さま、お姫さまは幸せに暮らしたの?」
「さぁ…それはどうかしら」
意味ありげな声に娘が不満そうな顔をする。王妃はそれを見て思わず笑ってしまった。
やがて侍女が王の訪問を告げると娘が嬉しそうに駆け出す。そんな娘を見て、王妃も王を迎えるためにソファーから立ち上がった。
「なんだか楽しそうですね。何かありましたか?」
「母さまがお話をしてくださったの!」
すっかり機嫌を直した娘は王に嬉々として語る。話を聞いていた王は少しだけ目を見張って王妃を振り返ったが、王妃は知らないふりをした。
そんな王妃に少し笑うと、王は娘を抱き上げる。王は娘の目を覗き込むと柔らかな微笑を浮かべた。
「それでお姫さまは幸せに暮らしたんですか?」
「分からないの。母さまに聞いても教えてくれないのよ」
娘の言葉が意外だったのか、王は目を丸くする。そんな王の姿に王妃は思わず吹き出してしまった。
楽しそうに笑う王妃を娘は不思議そうに見上げる。王は娘を抱え上げたまま、未だに笑っている王妃に近寄った。
「これは僕の愛が足りてないってことですか?」
「そう思うのでしたら、どうぞ愛を示してくださいな」
王妃の言葉に王が楽しそうに笑った。王は抱き上げていた娘を降ろすと、王妃の唇に優しく口付ける。
柔らかな陽射しの下で、幸せな笑い声が響くのだった――…。
―END―
「かく語りきシリーズ」と言っていいのだろうか…。
またまた思い付きで書いてしまいました。
女王陛下というか王妃さまが正しいですね(汗)…語呂が良かったので女王陛下で押し通してしまいますが(笑)
誤字脱字を見つけたら報告くださると助かります。感想をくださると泣いて喜びます!
今回は読んでくださってありがとうございました。
*藤咲慈雨*