寝言で聞いた名前
「……イナ……レイナ……」
聡の寝言で、私は目を覚ました。カーテンの隙間から覗く月が、隣で眠る彼を照らす。夫が寝言でその名を呼ぶのは、もう何度目だろう。妻である私は瞳であり、レイナではない。
その名前に、私は最初見当がつかなかった。
「聡さんが浮気?!」
職場の休憩室で、後輩の安部ちゃんがおにぎりを片手に声を上げた。一年前の私たちの結婚式で、彼女は聡と顔を合わせている。二人は好きな野球チームが一緒で、えらく盛り上がっていた。
「最近、聡が寝言で女性の名前を呼ぶのが気になって」
「スマホとか見ました?」
「ロックが解除できなくてさ」
「何か変わった行動は?」
「群馬の実家にはよく帰ってるかな」
安部ちゃんが探偵のように質問を繰り出す。
浮気の証拠はまだ掴めていない。こっそり部屋に仕込んだカメラからも、それらしい形跡は窺えなかった。
「寝言じゃ何も証拠にならないですよ。気にしすぎですって」
仕事に戻る前に、給湯室で珈琲を注ぐ。片隅にあるお菓子置き場が、ふと目に入った。生八つ橋。お菓子に添えてある付箋を手に取ってみる。
“旅行のお土産です! 安部玲奈”
「こら! 聡! レイナって誰だ!」
夜、仕事から帰宅した聡を、私は泥酔状態で迎えた。缶チューハイを6本飲み干した。顔を真っ赤にし、覚束ない足取りで彼に詰め寄る。
「え! 何?!」
「隠してもムダ! 浮気してるでしょ!」
聡は観念して息を吐いた。心臓が早鐘を打つ。ゴクリと唾を飲んだ。
「ごめん! レイナって推しの名前。渡良瀬川24のアイドルなんだ。群馬に帰ってるのもライブに行きたくて……」
えっ、レイナってアイドルだったの?!
聡は鞄からライブDVDを取り出し、レイナを指さした。予想外の回答に酔いが冷める。
「何それ〜!」
「ね、この後一緒にDVD観ない?」
「布教活動?!」
私は「もう寝るから」と、誘いを丁重に断った。ベッドに入る私を見届けて、聡が「おやすみ」とドアを閉める。寝室が真っ暗になった。
「もしもし、玲奈? うまく騙せたよ! 玲奈が連絡くれたおかげ! そう、さっき急いでDVD買いに行った! 御礼って、じゃあまた旅行? 京都の次は沖縄とか? わかってる。瞳とは別れるから。玲奈、愛してるよ」
ドアの奥から聡の興奮した声が聞こえる。カメラで録画されているとは夢にも思っていないだろう。寝言よりマシな証拠が手に入った。私が一番欲しかったのは、レイナが誰であるかの確証だ。
「騙されたのはどっちだろうね」