『辺境の悪魔』の噂のある辺境伯との縁談が来たので「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と病弱な妹ばかり優遇する実家から脱出します
タイトルまんま。少しだけ暴力表現あり。
父の書斎で渋い顔の両親が開封済みの封筒を無言で渡す。蝋封の大きな双頭の鷲はこの国のシンボルであり、封筒にも中の便箋にも王家の紋章が印刷されたこの手紙はこの家の中で最も価値のある存在だ。
差し出されるまま受け取り、便箋を取り出し中身を読む。
厳かな文章を簡潔にすれば『辺境伯、レオン・サリバンとの縁談をアニータ・クラーク伯爵令嬢に受けてほしい。アニータの婚約者には納得してもらっている』ということ。わざわざ王家から、つまりは王命である。
それについて手紙を読み終えたアニータの頭の中を「なぜ?」の言葉が埋め尽くす。
「お姉様ったらあの『悪魔』と結婚するの!?」
はしたない大きく高い声はアニータの妹、キャロルだ。いつの間にか書斎に入り、両親から手紙の内容を聞き出したらしい。ため息を吐きたいのを瞬き一つで我慢し、アニータはキャロルを窘める。
「キャロル、そんな言い方はサリバン辺境伯に失礼よ」
「だって皆が言っているわ。『悪魔の辺境伯』、『残虐伯』ってね」
少しの反省も見せない妹にアニータは頭が痛くなるがこれ以上言えば今度はアニータに両親の叱責が投げつけられる。キャロルの相手を切り上げ両親を見た。父も母も渋い顔を崩さない。
「お父様、お母様。この縁談謹んでお受けします」
軽い会釈をし、二人の返事を待たずアニータは自室に向かう。その顔に憂いなどひとつもなかった。
アニータにとってクラーク伯爵家での生活は搾取ばかりであった。
病弱な二つ下のキャロルは事ある毎に周囲に甘え、不都合があればすぐに風邪と涙で逃げる悪癖があった。小さく可愛らしい容姿と相まって目を潤ませ、こんこんと咳をする姿は確かに守らなければという気にさせる。本当に病弱であればアニータだって何も言わなかった。
キャロルの病弱は嘘である。彼女が三つの頃にタチの悪い風邪を患った時、両親やアニータ、使用人から優しくされたことに味を占めたのが発端だ。
それに輪をかけたのが両親の対応。クラーク伯爵夫妻は病気のひとつもしたことないほど頑健であった。それだけでなく、クラーク夫妻はどちらも子供の頃に流行った病で弟と妹を亡くしていた。だから風邪で苦しむ末娘に心を痛め、過保護になってしまうのは理解出来るが……些か過剰過ぎた。
病気を口実にしてばかりの妹の将来を案じ、アニータは何度も苦言を呈した。キャロル本人にも両親にも。
「お姉様は自分が健康だから私の気持ちなんて分かってくれないのよ」
ぐすんと涙を落とすキャロルを見て両親は厳しい目と声をアニータに向ける。
「お前はなんてひどい姉なんだ。こんなに妹が苦しんでいるのに。お姉ちゃんなんだからキャロルを助けてやるのは当たり前だろう!」
「もう少しキャロルに優しく出来ないの!? ああ、可哀想なキャロル……こっちへ来て、お母様が抱きしめてあげるわ」
八歳の子供には両親から睨まれるだけでも辛い。しかしアニータはこのままではいけないと自分を鼓舞する。
「ですが、それがキャロルの為になるとは……」
ぱちんっ! 乾いた音に遅れて頬がじんじんと痛みと熱を持つ。母に叩かれたと理解出来たのは数秒経ってからだ。
「黙りなさい! あなたはお姉ちゃんなんだから我儘言わないで!」
ショックだった。母に叩かれたことも、父が母と同じ顔で私を睨んでることも。キャロルが叩かれた私を見てニヤニヤ笑っていたことも。
部屋に戻ってわんわん泣いて、子供心に理解せざる得なかった。血を分けた妹が自分を貶めたことを。父も母も自分の言葉を信じる気もないことを。
その日からキャロルはアニータが両親から叱責されたり、頬を打たれたりする様子見たさにアニータからいじめられる、ひどいことを言われると虚言を繰り返すようになる。それを信じた両親からアニータはすっかり病弱な妹をいじめる性悪な姉というレッテルを貼られた。
あんまりだとアニータを庇う使用人は軒並み退職させられ、アニータは出来るだけ使用人との接触を減らすようにしてそれを回避しだす。そうなると必然的に自分のことは自分で……となった。
その上で両親は家督を継ぐアニータに厳しい教育をつけた。キャロルはどこかに嫁ぐべきなのだが家族と離れたくないと両親に泣きついているから縁談の話はずっと止まっている。
「お前はお姉ちゃんなんだから」
「あなたはお姉ちゃんなんだから」
「お姉様はお姉ちゃんなんだから」
これが両親と妹の口癖だった。
アニータには何でも求め、キャロルには何でも許す。アニータが家族を見限るのも無理からぬ事だった。
荷物をボストンバッグに詰める。数着の衣類とお気に入りの小説、祖父母から貰った万年筆など持っていく物は多くない。高価な物や綺麗な物はすぐにキャロルの物になるのだから欲しがったことはない。それとなく誕生日の度に両親から欲しい物を聞かれることはあったがいつも必要ない、そのお金をキャロルの体調を良くする物にでも使えばいいと返していた。キャロルの名を出せばすぐにそっちに意識のいく両親の扱いは慣れれば簡単だった。
「これは……どうしましょう」
てきぱきと荷物をまとめていた手が止まる。婚約者、いやもう元婚約者になったジャンからのプレゼントだった。一見何の変哲もない本に見える。そっと本を開いて挟まっていたしおりを取り出した。金色に縁に赤いラナンキュラスが豪華に描かれている。所々切り絵のように切り抜かれて立体的に見えるのも特徴だ。窓からの太陽光にキラキラと輝くしおりが間違いなくこの部屋で一番美しい物だとアニータは微笑む。
ジャンは子爵家の三男でアニータに婿入りする予定だった。性格は優しくて女伯爵になるアニータを支えていく為の頭の良さも申し分ない。しかしアニータの婿として決まった理由はキャロルだった。ジャンは金に近い銀髪に薄く透き通るような青い瞳、全ての顔のパーツの形が良く背も高い。キャロルが何人かいたアニータの婿候補の中でも見た目の良いジャンを推したのだ。はじめはキャロルが結婚したいと言っていたがキャロルは家を継ぐ能力はないし、嫁にいってもジャンの所も長兄が子爵家を継ぐ。ジャンと結ばれるなら平民になる覚悟がいるが、そんなの嫌だとキャロルはジャンとの結婚は諦めた。
ジャンと恋人のような甘い雰囲気はなかったが、それでも二人のお茶をする時間は穏やかで心安らぐものだった。その時間もキャロルの突撃で何度も壊されたが。アニータとの婚約が無くなればキャロルに婚約者が変更されるかもしれない。その事だけが唯一この家での気がかりだったが、だからといってアニータには何も出来ないのも事実。静かにジャンの幸せを祈るだけだった。
ジャンから貰ったしおり、これだけはキャロルに奪われたくなくてずっと隠していた宝物だが元婚約者からのプレゼントを嫁ぐ先に持っていくのはさすがに失礼が過ぎる。でも置いていくなど考えられない。
「やっぱり持っていきましょう。最初からダメだと決めつけるのは良くないもの」
辺境伯様が寛大な方だといいなと、アニータは姿も知らぬ結婚相手に思いを馳せた。
荷物をまとめた翌日には辺境伯の家紋の入った馬車がアニータを迎えに来た。
昨夜の夕食も、さっき終えた朝食の席でも両親は何かを言いかけては止めるを繰り返していた。今も馬車に乗り込むアニータに声をかけようとするも、結局言葉が見つからないのか「元気で」と何とか絞り出すだけだった。
アニータはにっこり微笑み、「今までお世話になりました、さようなら」と頭を下げる。晴れやかな表情で嫁ぐ娘を見て一般的な親の反応は喜ばしく思うものだろうがクラーク伯爵夫妻の表情は固いままだった。
アニータは家を出ていくことを喜んでいるのではと思い浮かぶ気持ちを夫妻は無理やりに打ち消す。何年も向けられることの叶わなかった笑顔は自分達に心配をかけない為なのだと、縋るように娘の愛だと信じた。
馬車に揺られること一日半。途中で辺境伯が管理している屋敷に泊まって休憩出来た為そこまで疲労はない。
辺境伯邸はクラーク伯爵家よりも大きく、使用人の数も多いだろう。覚えることが多いと緊張半分、わくわくした気持ち半分にアニータは馬車を下りる。馬車の中でも屋敷でも、辺境伯の使いの人達は親切でアニータを歓迎している雰囲気だった。
キャロルの嘘を信じてアニータに嫌味を言う人や伯爵家でのアニータの扱いを聞きかじって軽んじた態度で接する人はたまにいた。勿論、アニータ自身を見て噂などに惑わされず評価してくれる人もいてくれたのでアニータは完全な人間不信にはならずに済んだが、初めて会う相手にはどうしても警戒心を持ってしまう。それが不要だと思えてアニータは嬉しかった。
案内された応接室に仮面を身につけた人物が待っていた。ソファから立ち上がり、アニータと向かい合わせになる。
「お初にお目にかかる。レオン・サリバンです」
低く落ち着いた声音と柔らかい口調に、アニータの緊張を解そうとする気遣いが感じられ第一印象は良い。それに応えるべく、アニータも挨拶を返す。
「アニータ・クラークです。不束者ではございますがよろしくお願い致します」
上手く出来たかしらとレオンを見れば仮面の奥の赤い瞳が優しく細められた気がした。
「アニータ嬢は、その、私の噂はどの程度聞き及んでいるのだろうか?」
紅茶の香りを楽しむアニータにレオンはおずおずと訊ねる。
「そうですね……あまり良くない異名で呼ばれていることは聞いております」
ただ、とアニータは続けた。
「私は噂よりもレオン様本人を見て判断したいと思います。それに、私にも褒められない噂はありますので……」
自虐気味にアニータが笑って見ればレオンは慌てて首を振る。
「アニータ嬢の噂など嘘っぱちだとわかっている! 下らない噂を信じる者など貴族として確かな情報も掴めぬ愚か者と自己紹介しているようなものだ」
挨拶の穏やかさとは打って代わりなかなかの毒舌にアニータの目が丸くなった。胸の奥からじんわりと温かな気持ちが溢れてくる。
「えぇ、本当に……私もレオン様の噂に対して同じことを思いますわ。こんなにも優しい殿方の伴侶になれること、とても嬉しいです」
レオンの瞳が仮面越しにも大きく見開かれたのがわかった。その顔がぶわっと紅潮する。
「わ、わわわ、っ、私も……」
どもりながらのレオンの言葉の続きをアニータは優しい笑みで待った。
「私も……こんなに可愛くて優しく、聡明で美しくて芯の強い女性が伴侶になってくれて嬉しい。私は幸せ者だな」
今度はアニータの顔が真っ赤になる番だった。
話してみただけですぐにわかったことだが、レオンの『悪魔の辺境伯』などの異名は彼本人には非など一つもない。そもそもその異名は彼の曽祖父がつけられたものだった。
レオンの曽祖父が生きた時代は諍いが多く、当時の国王は善人であるが気の弱い性格で頼りがいはなかった。その国王の臣下として、そして親友としてレオンの曽祖父は自ら汚れ役を買って出て後暗い貴族を次々に処分して回った。その働きが功を奏し、次代の王が国を治める頃には不穏分子はほぼいなくなった。
想定外のことに、その非情で容赦のない姿に畏怖を込めた異名が望まぬ形でレオンに引き継がれてしまったのだ。
レオンの容姿はレオンの曽祖父と生き写しのように似ていた。黒い髪も赤い瞳も、目元のほくろも同じ位置である。レオンの家では曽祖父の姿絵とレオンの姿絵でどっちがどっちを当てる遊びが年始に行われる程である。
祖父母の世代では曽祖父のことを知る者も多い為にレオンは祖父母世代の人から距離を置かれてしまうことが多かった。そうして子供の頃には何人かの同世代からつまらないからかいや、難癖をつけられることも多かったのだと。
まったく馬鹿馬鹿しくてくだらないことだとアニータは眉を顰める。
――実は曽祖父に容姿が似ているだけでなく、からかってきた相手を容赦なくぶちのめしてきたからレオンの異名が広まったのだがレオンもアニータも知る由がなかった。
「噂が主な理由で婚約者が見つからなかったんだが、今ではアニータという運命があったからだと思えるよ」
万が一でもアニータが怯えないようにと外した仮面の下には端正な顔があり、言葉と微笑みがアニータを撃ち抜く。そんな台詞をそんな顔で言ってはいけない。死んでしまうとアニータは過去最高に脈打つ胸を抑えながら必死に耐えた。
レオンの手がアニータの頬に添えられ、俯く彼女の視線をレオンのものと絡ませる。
「すまないが慣れてほしい。アニータに伝えたい言葉が溢れて止まらないんだ」
容赦のない言葉と共に頬に触れた手と反対の手がアニータの手を捕まえた。引き留める為か、逃がさない為か。どちらでも同じことだ。
「(……この人は本当に悪魔かもしれない)」
アニータの心の声は暴れる心臓の音で掻き消えた。
アニータが辺境伯の元に行ってからクラーク伯爵家は何もかもが上手くいかなくなっていた。
まず使用人のほとんどが退職を申し出た。若い者ははっきりとした理由は言わなかったが、長年仕えてきた執事長に伯爵が正直に話してほしいと頼めば重い口を開いた。
「アニータお嬢様がいなくなったからです」
それ以上は言いたくないと、執事長は一礼して屋敷を出て行く。伯爵はその理由に驚かなかった自分に対して一番驚いていた。まるではじめからわかっていたようではないか。何もわかっていなかったくせに。
その次にアニータの婚約者であったジャンをキャロルの婚約者にしようとしたらジャンから断られた。
「僕はアニータ嬢だから婚約者として支えたいと思ったのです。彼女でないなら意味がない」
その言葉にキャロルが暴れた。物を投げつけ、ぎゃあぎゃあと喚く。その姿を冷ややかに一瞥してから部屋を出て行く間際にジャンが伯爵夫妻に言う。
「こんなに元気なら今から教育しても間に合うでしょう」
本当にそう思うかと問いたくなった口を伯爵夫妻は閉じる。もうジャンには関係ないことなのだ。
キャロルの教育など上手くいかないことはわかっていた。これまで散々と甘やかしたツケが回ってきたのだ。
伯爵夫妻はアニータに会いたくて堪らなくなる。
いつからあの子から笑顔を向けてもらえなくなったのか。
いつからあの子から声をかけられなくなったのか。
いつからあの子の誕生日のプレゼントのリクエストすらされなくなったのか。
今になって突き刺さった。その痛みに呻くことすら夫妻には許されない。
アニータとレオンの結婚式にクラーク伯爵夫妻は行かなかった。形だけの招待状に縋ることも夫妻には許されないのだ。
キャロルはイライラと腹の奥から湧き上がる不快感に朝から苛まれていた。姉が『残虐伯』なんて呼ばれる男との結婚が決まった時は面白くてしょうがなかったのに、今ではその事がキャロルの神経を逆撫でしていた。
両親も使用人もジャンもアニータがいなくなってからおかしくなった。今まで誰もがキャロルを甘やかしてくれていたのに。
両親は最初だけ伯爵家を継ぐ為の教育をキャロルにさせたが、すぐに投げ出すキャロルに何も言わなくなった。ただこれまでの我儘を聞いてくれる時のようではなく、諦めた顔でキャロルを見たのだ。その違いぐらいはキャロルでも気付いた。
そもそも自分が学ぶ必要なんてない、とキャロルは思っていた。頭の良いジャンに仕事はしてもらったらいいのに、ジャンはそれを拒否した。
何でジャンが急に冷たくなったのかキャロルにはわからなかった。なんで、なんでと怒鳴っても返ってきたのは無言。
両親は姉の結婚式には参加しないと言った。キャロルは信じられなかった。それでは惨めな姉が見れないではないか。酷い噂のある男と結婚させられて、悔しくて悲しくて、でもどうしようもないと必死に耐えている姉が見たいのだ。母に頬を打たれて父に睨まれたあの時のような表情が見たいのだ。キャロルが泣くだけで思い通りになる光景が忘れられない。
キャロルは伯爵家から金を持ち出し、アニータの結婚式へ向かった。両親は不参加と連絡してるらしいが知ったことではない。
早く姉を見たい。辺境伯はどんな見た目だろうか? きっととても性格の悪い顔だろう。『悪魔』などと言われるのだから。そんな男と夫婦になる姉は不幸に塗れてるはずだ。それさえ見れればキャロルは幸せの絶頂に立てる。そうすれば全てが好転する気さえしていた。
アニータは純白のドレスに身を包んでいた。幾重にもレースが編み込まれ、小さなダイヤモンドが散りばめられて輝いている。こんな立派なドレスを着てもいいのかと、おっかなびっくりしているアニータを侍女達はこれでもかと磨きあげた。手をかければかける分だけ美しくなるアニータに楽しくてしかたがなかったとは後の供述である。
準備も終わり、後は式の開始を待つばかり。両親と妹は来ないが祖父母は来てくれる。友人達も招待しており、その中にはジャンもいた。
ジャンとは何度か手紙のやりとりをしていた。ちゃんとレオンからの許可は取ってだ。
ジャンはずっとアニータのクラーク伯爵家での扱いに憤っていたが子爵家の三男坊の自分では助けることが出来ずにいたこと、婚約している間に突撃してくるキャロルを本心では突き放したくともその後のアニータのことを思えば出来ず我慢をしてキャロルに優しく接していたことを謝罪してきた。
アニータは全て初耳だった。ジャンがここまで自分の為に心を痛めてくれていたなんて。謝罪なんてしなくてもジャンの存在は間違いなくアニータの心に味方になってくれていた。ありがとうと何度も返事に書いたが足りず、結婚式当日には声に出してたくさん伝えようと決めていた。
ジャン以外にもアニータには味方がいた。そのおかげで心が折れずにいられたのだと改めて思う。招待客の中には友人は勿論、クラーク伯爵邸で使用人をしていた人達もいる。感謝を伝えたい人がこんなにもいるなんて、自分はとても幸せなのだとアニータは式の前に泣きそうだった。
ノックの音がする。
「アニータ」
入ってきたレオンの姿にアニータの涙が引っ込む。アニータのドレスと同じく純白のタキシード、胸ポケットにはアニータの瞳と同じ黄色のポケットチーフが差し色になっている。
「アニータ……なんて美しいんだ。君は女神だったのか?」
アニータがレオンに感想を言う前にレオンがアニータを称え出す。こうなると長い。アニータだってレオンを褒めたい。
「ふふ、ありがとうございます。皆さんが素敵に着飾ってくれたおかげです。レオン様も……カッコよくて誰にも見せたくない気持ちになってしまいますね」
ほぅ、と感嘆のため息をもらすアニータにレオンは破顔する。
「私もアニータを誰にも見せたくないよ。ずっと大切にしまい込んで私だけが愛でるようにしたい……が、今日はアニータが私のものだと周囲に知らしめる大事な機会だからね。存分に見せつけさせておくれ」
レオンがアニータの左手を取り、手袋越しにキスを落とす。レオンと出会ってふた月ほど経ったがアニータの鼓動が落ち着く気配はない。
扉の向こうから式の時間を知らせる声が投げかけられる。
「さぁ、行こうかアニータ」
「はい、レオン様」
ちょっとだけアニータはレオンにやり返したい気持ちが湧く。ここまでずっとレオンにリードされてばかりなのだから、少しくらいいいだろう。
「愛してますわ、レオン様」
レオンが振り返る前に、その耳が真っ赤に染まったのを見てアニータは勝った気分になった。別に誰と何も競ってないのに。
「……さっき女神かと言ったが訂正しよう。アニータ、君は私を誘惑する小悪魔だったのだな?」
お互い様の言葉を飲み込んで、アニータはただ静かに笑った。
鐘の音と人々の拍手と祝福の声が交じる。それに応えるように、寄り添いながら手を振る男女の姿を脳に刻むようにジャンは見つめていた。
そんな彼の隣に同じ歳の頃の男性が声をかける。
「ジャン、本当に良かったのか?」
何が、なんて聞かなくてもわかる。
「えぇ、アニータの幸せが俺の望みです。理解されにくいとは思うし、単なる強がりに聞こえるかもしれませんが……俺はアニータに恋愛感情を持っていませんよ」
「えっ」
結構大きかった驚く声も鐘の音には負けた。ジャンは続ける。
「はは、一瞬もその気持ちがなかったかと言われれば自信がありませんが。でも俺にとってアニータ・クラークに対して大きく占めた感情は『憧れ』です」
賢く、優しく、そしてとても強い彼女にジャンは憧れていた。なりたい自分の理想だった。だからこそ不遇な彼女を救いたかった。
「俺に力があれば、と何度思ったか」
ジャンにはクラーク伯爵家を断罪するだけの力はなかった。最初は将来アニータが伯爵家を継げば解決するかと思っていたが、優しい彼女に両親や妹を見捨てる決断が出来るだろうか、と不安になった。
クラーク伯爵夫妻は健康で簡単に爵位を譲らないかもしれない。キャロルだって本当は丈夫だし、彼女を是非嫁にと望むまともな家はない。このままの状態が何年も続く可能性に戦慄した。
このまま伯爵家にいてもアニータは幸せになれない。だったら彼女の居場所を移そうと、はじめに計画を立てたのがジャンだ。
アニータは人に頼ることが選択肢にない。キャロルのせいで使用人を解雇された経験から人に迷惑をかけないことを自分に強いている。
だからアニータにもバレないように彼女を助けよう。彼女にその自覚はないがアニータを慕う人間の多さがそれを可能にした。その協力者の筆頭にジャンは何度も下げた頭をまた下げる。
「本当にありがとうございました、ドミニク殿下」
「気にするな、俺もアニータ嬢の優秀さがあの家で使い潰される様には頭にきていたからな。回りくどいと思ったがクラーク伯爵家にはいい罰だ。それに……」
ドミニクと呼ばれた男がジャンから視線をたくさんの祝福を受けているアニータとレオンに向け、目を細める。
「レオン殿にも良い縁が結べた。兄上にも貸しが作れていざという時の我儘が通しやすくなる」
「ドミニク殿下の兄上のザカリー殿下とレオン殿は友人でしたね」
「あぁ、兄上は留学中ですぐに動けないからな。代わりに俺がキューピッド役さ」
レオンにも慕う人間はいるのだとジャンは嬉しい気持ちになった。レオンとは今日がはじめましてだがもう友人の気分だった。アニータからの手紙に彼が書かれなかったことがないからだろうか。レオンならばアニータを絶対に幸せにしてくれるという確信がある。
少し離れた場所から耳障りな声が聞こえた。予想はしていたが本当に来たのかと、ジャンは呆れを通り越して感心する。
警備に取り押さえられたキャロルは信じられないといった表情で喚いていた。ジャンと視線が絡むと助けを求めているのか手を伸ばしてくる。
ジャンはドミニクに断りを入れ、にっこり微笑んでキャロルの元に近付いた。手が届かないギリギリの距離で立ち止まる。キャロルがジャンの名を呼ぼうと口を開く前にジャンの言葉がキャロルの耳に届いた。
「ざまぁみろ」
キャロルの頭が何を言われたのか理解する前にジャンは踵を返し、幸せな光景に向かって歩き出した。