意思
水を頭から被り、汚れを落とす。
寒さに体が萎縮して針に刺されたような痛みが体を襲うがもう慣れたものだ。
そうして濡れた体が乾く頃に、ライセルがやって来た。
彼は何気ない動作で俺の前を通り過ぎて……。
ウッカリと何かを落としてしまったようだ。
俺は素早い動作で、周りに気付かれないようにそれを拾い上げる。
それは鍵と何かが入った袋のようだった。
俺はライセルが約束を守った事に、ほっと一つ息をつく。
後から迷って気が変わったりはしなかったようだな。
鍵と一緒に付いてきたこの袋は何だろうか?
開けてみると中から灰色のローブが出てきた。
なるほど、このローブを着ればここで働いている奴隷に紛れる事ができる。
他の檻にいる奴らに見られても騒がれる事はなくなるだろう。
ナイスだライセル、気が回るじゃないか。
俺は久しぶりに脱いでいた上着を着て、その上からローブを羽織る。
少し大きいがむしろ顔が隠れて好都合だ。
誰も見てないことを確認してから、俺は格子の隙間から手を出し鍵穴を回す。
カチャリと音をたてて格子が開いた。
俺は素早く檻から出ると、平然と歩いていく。
久しぶりに立ったので、足がふらつきそうになるが、根性で持ちこたえた。
今の俺は、ここで働く奴隷だ。
売られている奴隷の見回りにきただけに過ぎないのだ。
だから堂々と檻の中を覗きながら、悠然と歩いていく。
目的は当然アオイとスギモトだ。
檻の中には老若男女様々な人がいた。
中には動物の耳が生えた人(人と言っていいのか分からないが)までいるのを見たときは流石にギョっとしてした表情を隠せなかった。
まぁ魔法がある世界なんだ。
今更獣の耳が生えた人がいたくらい別におかしくもないか。
ふと檻の中ですすり泣く少年と目が合った。
年の頃は8歳ほどだろうか。
まだ物事をよく分かっていなそうな無垢な顔をしている。
俺は檻を開けて彼を助けてあげたい衝動に駆られた。
けれどもその衝動を理性で何とか押さえつけた。
いっそのこと全部の檻を開けて混乱を起こしてしまおうという考えも頭に浮かんだが、いくら何でもリスクが大きすぎる。
全ては救えない。
俺は罪悪感を心の奥に押し込めて少年から目を逸らした。
優先すべきはあくまでアオイとスギモトだ。
一つ一つの檻を確認しながら進んでいく。
そうして、部屋の隅にあった檻の中に見つけた。
体育座りをして、丸まったように顔を伏せているスギモトの姿を。
「スギモト」
俺は周りに聞こえないように小さな声で話しかける。
杉本がゆっくりと顔を上げた。
虚ろな目をしていて、焦点が定まっていない。
明らかに衰弱しているのが見て取れた。
だが、ローブを被った男の正体が俺だと気づくと、その目が大きく見開かれる。
「無事か。ゲカはないか」
見たところ目立った外傷はない。
もっとも精神的な所は分からないが。
「スギモト、お前は以前俺に関わるなと言ったな。あれはまだ続いているのか?」
俺はスギモトにそう尋ねる。
意地悪いかもしれないが、これだけはハッキリとさせておきたい。
これまでスギモトはずっと非協力的な態度を取っていた。
そこにどんな事情があるのかなど、今は関係ない。
ただ、ここから出た後の事を考えるなら問題があるのだ。
友好的では無くていい、せめて協力的でいてくれないと困る。
しかしスギモトは黙ったまま答えない。
俺は沈黙が質問の解答であると解釈する。
「そうか」
だから俺はアッサリと立ち去ることに決めた。
最優先はアオイだ。
「──ま」
俺が背を向けて歩き始めた所で、後ろから声が聞こえた。
「まって」
振り返るとスギモトが格子から身を乗り出してこちらを見ていた。
「取り消すから……謝るから……」
枯れた声だった。
蒼白した表情で、縋るようにこちらを見ている。
「置いて行かないで」
あのスギモトがここまで素直になるとは、相当に過酷な経験だったらしい。
実際に俺も、アオイとジンの存在が無ければとうの昔に発狂していたかもしれないからな。
俺は戻ってスギモトの顔をまっすぐ見つめる。
「静かにすること、俺の言う事を聞くこと、この2つを守るって約束できるか?」
俺の問いに対してスギモトはこくこくと頷く。
今はこれで十分だろう。
元より置いていくつもりなど微塵もない。
ただ試しただけだ。
「よし、なら早くこんな所から出よう。と言いたい所だけど、もう少しだけここで待っててくれ。まだ妹が見つかってないから、探してくる」
スギモトとアオイの分のローブはないから、檻から出るのは本当に脱出する瞬間になってからだ。
「駄目よ」
しかしスギモトはそんなことを言った。
駄目だと?アオイを探しに行くことがか?
俺は頭に血が上るのを感じる。
「アオイちゃんは買われたわ。私と同じ檻にいたから間違いない」
一瞬カッとなったがスギモトが言いたいことはどうやら違ったようだ。
そうか、アオイは買われていたのか。
可能性としては考えていたが、それでもまだ檻の中で待ってくれているだろうと淡い期待を抱いていた。
「アオイちゃん、男達に連れて行かれる時、ずっとお兄ちゃんって叫んでいたわ……。早く助けに行ってあげないと」
なるほど、どうやら俺が聞いたアオイの声は、アオイが買われた時に叫んだ声のようだ。
アオイが連れて行かれそうになった時、俺の助けを呼ぶ姿を想像して胸が痛くなる。
しかしスギモトはいつからアオイちゃんなんて呼ぶようになったんだ。
2人で檻に閉じ込められている時に何か関係性の発展があったのかもしれない。
「そうか、なら早いとこ脱出しよう。立てるか?」
「ええ」
自力で立って歩いて貰わないと困るからな。
俺は杉本の檻の鍵を外す。
スギモトは産まれたての子鹿のように震えながら立ち上がった。
「本当に大丈夫か?」
「久しぶりに立って足が痺れただけよ」
その言葉が強がりじゃない事を願おう。
「よし、なら行こう」
俺達は早歩きで進んでいく。
アオイとスギモトを探す途中で階段を見つけていたので取り敢えずそこから出るつもりだ。
スギモトもふらつきながら何とか付いてきてくれた。
「おい!俺も出してくれ!!」
俺がローブを着ていないスギモトを連れているのを見たのか、自分も出せと助けを乞う声が響いた。
1人が声を上げると他の人達も気付いたように助けを求め声をあげる。
俺達はその声を無視してまっすぐに階段に向かった。
彼等を1人1人逃していてはキリがないからしょうがないだろう。
頭ではそう分かってるがそれでも罪悪感で心が埋め尽くされる。
階段を登った先では木で出来たドアが閉まっていた。
俺はそのドアを慎重に開ける。
ドアの先には木製で出来た部屋があった。
狙い通り深夜のようで、人の気配はしない。
部屋の中に入って、音が漏れないようにすぐにドアを閉めておく。
暗い部屋の中を手探りで進んでいくと、程なくしてまたドアのようなものを見つけた。
これまた慎重にそのドアを開けると、
──そこには外の世界が広がっていた。
家が並ぶ街中の風景だ。
ほのかに月明かりが街を照らしている。
どうやら俺達は今まで地下にいたらしい。
久しぶりの外の空気に、快楽に近い開放感を覚える。
見ると俺達が出てきた場所は小さな小屋のようになっており、その横には別の大きい建物が建っているのが分かった。
その建物の中からは笑い声が聞こえてくる。
恐らくこの建物が奴隷商人達の本拠地なのだろう。
今はとにかくこの場所から離れなければ。
俺はひとまず横にあった路地の中を進もうとスギモトの手を引く。
「何してんだ?おめぇら」
たが暗闇の数歩先の横から声をかけられた。
冷や汗が額をつたう。
暗い中で焦っていたので人がいるのに気付かなかったのだ。
見ると剥げた男が、酔っ払ったようにフラフラとしながら立っていた。
手には瓶を持っている。
「おい、まさかお前ら逃げだしたのか」
男は俺達の風貌を見ると、顔に驚愕の色が浮かんだ。
「おい!奴隷が逃げ出しているぞー!!」
男が叫び俺達の存在を知らせる。
俺は焦って頭がパニックになった。
どうする?とにかく走って逃げるか?
こんな状態で逃げられるのか?
「あがっ」
俺が焦っていると、突然男の顎に石が当たった。
「いこうっ」
その隙にスギモトが俺の手を引いて路地の中に駆け込む。
どうやら今の石は彼女が投げたようだ。
予想外の行動力に驚くが、今はそれどころではない。
何度もグラつき転びそうになりながら俺達は路地を駆け抜けていく。
頭の中は二度と捕まってたまるかという思いで一杯だった。
もう一度捕まれば、今度こそ逃げ出すことは不可能になるだろう。
殺される可能性だってある。
そうなれば本当に終わりだ。
がむしゃらに道を曲がりながら進んでいく。
一歩でもあの場所から遠くに逃げたかった。
「ハァっ、ちょっと、待って」
ずっと走ってるとスギモトは体力の限界を迎えたようだ。
息も絶え絶えといった様子で立ち止まってしまう。
俺はまだ走れそうだったが、仕方無いので一緒に止まる。
かなりの距離を離れたと思うが、まったくもって安心は出来ない。
「休みながらで良いから歩けるか?」
俺の提案にスギモトはゆっくりと頷く。
追手が来ているのか分からないが、少しでも距離を稼いでおきたい。
俺達はゆっくりと、それでも立ち止まらずに歩いていく。
体感で3時間程歩いているといつしか周りは先程よりも寂れた場所に変わっていた。
現代で言うところのスラム街のような景色が広がっている。
屋根がボロ布で出来た小さな小屋のようなものがいくつか並んでいるのだ。
路上の隅で寝ている人も何人か見えた。
その光景は到底日本では無くて、異国の世界を歩いていることを改めて認識させられる。
俺がそんなことを考えていると横でドサッと音がした。
見ればスギモトが横になって倒れていた。
「おいっ大丈夫か!?」
慌てて俺はスギモトの様子を確認する。
「大丈夫、足がもつれただけよ」
そう答えた彼女の額には、寒いにも関わらず尋常でない汗が浮かんでいた。
ずっと檻の中にいたのに、急に足を酷使し過ぎたかも知れない。
俺の足もずっと痛みを訴えている。
これ以上は限界か。
「あんまり無理すんな、路上で寝てる人もいるみたいだし、俺達も少し休もう」
追いかけられているという不安はまだまだ無くなっていないし、出来ることなら進み続けたいが、これ以上は体が壊れてしまうと判断する。
ひょっとしたらもう既に壊れ始めているかも知れない。
あんまり無理をして動けなくなっては本末転倒だ。
これからアオイとジンを見つけて、助けに行かなければならないのだから。