第7話 青白い炎(コールド・ブラッド)
「一先輩! やっと見つけた……」
避難者の確認にあたっていたのまえの背中を見止めて袈裟丸が声をかけた。のまえが振り返る。既に私服に着かえた二人の腕には隊章が3D表示されている。
「染ちゃん。良かった、注連野さんと連絡がつかなくて……」
「妨害電波の影響みたいです。それよりここは警察に引き継いで、警備室へ向かいましょう。兄さんとエデンの交戦をサポートします」
「うん」
袈裟丸の先導に従って動き始める。が、二三歩進んだところで突然ぴたりと立ち止まる。
「? ……のまえ先輩?」
怪訝な顔で聞き返した袈裟丸の視線の先で、のまえはドームの天井を仰いでいる。火葬場から昇る様な黒い積乱雲が、立ち込め始めていた。
のまえの瞳孔が開き、切迫した表情に汗が一筋垂れる。「何かくる」
「何か……? でも、侵入者はエデンだけって……」
「わからない。でも、危険な予感がする。染ちゃんは注連野さんの所へ戻って」
「えっ、一先輩は?」
袈裟丸の制止も待たずのまえは駆け出した。袈裟丸はドームの頂上に目を透かす。折しも墨滴に似た黒い影がよぎり、天井の一角に風穴を開けたところだった。
肉の焦げる匂いがして、青年の掌の下で炎が起こった。
エデンの遣いと思しき二人の男は墨のような玄紫の炎に包まれ、一瞬にして荼毘に付された焼死体となった。
能力者……、何者だ? 雪の伸ばした視線が青年の瞳とぶつかる。どこまでも深い濃密な闇を湛えた、紫の瞳。瞳孔は蛇や龍のように縦に細く、一切の光を拒絶するように刻み込まれている。
瞬間、雪の体に凄まじい熱が迸る。血は沸騰し、皮膚は焼け焦げ……瞬く間に消し炭となる。
雪は思わず全力で飛び退る。高所の足場に居ることも忘れ、無我夢中で退避を選択する。球体を足が離れ、落下寸前の体を太陽の暈が受け止める。
「おいおい、随分と心配性なんだな。まだ何もしてないぜ?」
黒の青年が声をかける。激しい動悸の中で雪は己の手を眺めた。焼け落ちてはいない。予知……、ではない。雪はごくりと唾を呑む。今のは、明確な死のイメージ……。それも圧倒的な……。
彼はまだ何の能力も使っていなかった。ただこちらに殺気を向けただけだ。それだけで雪の本能は、己にもたらされるはずの死の輪郭を知覚したのだ。
捌光の反応は雪とは対照的だった。素早く男の背後に回り込み、抜き出した刀を躱す暇も与えず、振り払った。
ジュッ、と蒸気の音がして、刀が空振る。「……?」捌光は信じられないものを見るような目で愛刀を眺めた。己の放った剣が、僅かな刀身を残して消え去っている。折れたのではない、鉄の塊が、一瞬で蒸気と化して霧散したのだ。残された剣先が高温に紅く染まり、溶岩のようにどろりと熔ける。
青年の黒い外套がはためく。瞬時に天井から白い塊が飛び出し、侍の体を吹き飛ばす。
「焦んなよ」
青年の言葉も届かないほどの勢いで落下していき、水面の一角が水飛沫を上げた。
その突き出した物体の正体を見定める隙も無く、紫の光が球体を包む。死の炎が、人工の日輪を舐めるように覆い始めていた。
「今のが八号のおっさんとすると……、お前が真白雪だな」
後光のように差し込む日の光を背後にして、青年が雪を見下ろす。「まだ子供だな……。年齢からして複製の方か」
「……! なぜそれを知ってる……。やはりエデンの手先か?」
「あぁん?」
男は怪訝そうな顔をし、それから可笑しそうに吹き出した。「エデンの連中が俺を顎で使うってか? はは、そりゃ傑作だな。お前らの局長は隊員に何も教えてないのか」
笑い声の残響を残して、青年が真顔に戻る。恐ろしく冷たい瞳で彼を見下す。
「『王』がかしずく相手はいねえ。たとえ神を前にしてもな」
全身が泡立つ恐怖を感じた。そして今度は明確に、焼死体になる未来が視えた。雪は蒸気銃を抜き放ち、太陽を支える五つのワイヤーを狙い撃ちした。
「おっ」
球体が重力に曝され、巨大な湖に落下していく。大量の蒸気が上がり黒炎が鎮まっていく。
雪は海面から顔を出した。着水の衝撃などと言っている暇はない。敵はこの程度では死なない。追撃の手を緩めてはならなかった。
沈没した海賊船の船尾に着地し、青年がこちらを見下ろす。
「対策したつもりか? 残念、こんなことも出来るんだよ」
波の上に飛び降りる。水飛沫……は上がらず、彼の足は凝固した水の波形を捉えた。
「……!!」
吐き出す息が白む。男の肉体を中心に、透明な氷の結晶が海面全体に広がっていった。
「その炎と氷、第二号……御黒闇彦か……」
スケートリンクのように一面の銀世界と化した湖面の上を、捌光が遠巻きに構えながら確認する。肩を押さえ、欠けた刃を提げたまま、最大限の警戒を御黒に注ぐ。
「だったらどうする? 八号のオッサン。降参するか?」
御黒は振り向きもせず、薄手の烏羽色の革手袋をはめ直しながら尋ねる。捌光は腰を落とし、刀身の熔けた日本刀を見つめた。
「……剣無しで太刀打ちできる相手では、ない。……退く」
瞬時に冷気が荒ぶ。金属の割れるような音と同時に、捌光の体が氷漬けになる。
「逃がすわけねえだろ。貴重な情報源をよ」
蛇のような瞳が、雪の上にじっと注がれる。
「本当に用があるのはお前の方だ、真白雪。八号のオッサンは後回しにする」
「そうかい。なら公安までアポイントをとって、出直してくれるかな」
「はッ。威勢の良さは認めてやる。安心しろ、俺はお前らが死のうが生きようがどちらでもいい。ただ質問に答えてほしいだけだ」
「……質問?」
雪は油断なく銃を構えたまま尋ね返した。「ああ」御黒は縁の無い丸眼鏡を押し上げて問うた。「二か月前、お前は奥多摩の廃施設の戦闘に参加していたはずだ。お前の護衛対象と思しき人物……、伏魔殿の匿っている女はどこにいる?」
のまえのこと、か……? 雪は瞬時に推察し相手を睨みつけた。「覚えがないな」
御黒は掌に紫炎を浮かべた。
「すぐに思い出す」
巨大な焔の群れが雪を追いかける。氷の上を全力で駆け抜け、雪は声を大にする。
「お前の目的が何にせよ、ろくな結果にならないことは確かだ! 教えることは無い!」
象ほどの大きさもある巨大な火球で、行く手を塞いだ御黒が叫ぶ。
「そんなに痛いのが好きか? なら強火で焙ってやるから感謝しな」
「くそっ……」雪は踏ん張りの効かない地面にブレーキを駆ける。氷の大地を蹴って反対方向に飛び出し、火の玉と波を同時に撒く。
銃口の狙いを定める。敵は一歩も動いていない。当てるのは簡単だ。
「おや……」引鉄を引く音に、御黒の言葉が重なる。「玩具はちゃんと手入れするんだな」銃把に重たい感触が伝わってきた。
「まさか……」銃身を目視で確認する。内部の水が凍りついていた。
冷たい霧が雪の肉体を包み、氷の結晶に閉じ込めた。雪は凍てついた半身を逃そうともがきながら、氷結を免れた左上半身を振り回す。
「無駄だよ。それほどやわな硬度じゃない。その気になれば鉄の塊より硬くすることもできるし、その体勢じゃ皹をいれるのも難しいだろう」
拳を氷塊に叩きつけるに雪につかつかと歩み寄りつつ、御黒が忠告する。
「しかしがっかりだ。『12人』四人相手……、少しは楽しめると思ったんだがな。期待できるとすれば寿くらいか。5年待ってもこの程度とはな」
四人……? 雪は彼の言葉の意味を探る。こいつ、贋作のことを知らないのか? だが、狙いはのまえでは……。
手袋に包まれた手が伸びて、雪の頸を掴む。ぞっとするほど冷たい手だ。気管を通って、肺の管の一つ一つが凍結していくのが分かる。
「拷問の一つに、肉体を氷結し砕いていくやり方がある。少しずつ……、指の先から。自分の肉体が端の方から順々に砕け散っていく過程を見せつけられるのは、どんな気分だろうな……? 俺に嗜虐趣味はないが……、必要なら、躊躇はしない」
「待て。あんたの狙いはまさか……。っ、そいつはエデンが捕らえてる」
「ふん、あいつがエデン如きに捕まるはずがねえ」
首を握る御黒の力が強くなる。「『あいつ』を超越るのは俺だ。他の誰にも追いつくことはできない……!」
刹那、眩い光が場内を白く染め上げる。
「⁉」
一筋の落雷が雪を囚える氷塊に命中した。凄まじい熱が氷を蒸気へと変える。
「……なんだァ? 電気系の改造人間でも隠れてやがったか」
雷撃の寸前に跳び退いていた御黒が、気怠そうに霧を払いながら入り口を見る。
「雪くん!!」
「……のまえ! 来ちゃだめだ!!」
溶け残った氷を払いのけながら、雪は駆け込んできたのまえに叫ぶ。炎の轟音がそれを掻き消す。「のまえ!!!」
「ふん……。…………?」
御黒が怪訝な表情で紫炎を見つめる。川中に置かれた飛び石のように、炎の波が、少女の体を避けるように隙間を開けている。
「これは……、氷と火炎の温度差が生んだ対流か。だがその切れ目に偶然助けられるなんて奇跡があるか……。いや……」
御黒の目が雪に向く。落雷を間近に受けたのに傷一つなく、綺麗に氷の部分だけが熱を受けていた。「放電能力じゃねえのか? だとすればこんな芸当ができんのは……」
御黒は炎を止めた。
「おいガキ」刺すような冷気が辺りを覆う。「一度しか訊かねえ。なんでお前が『昼神』と同じ力を持ってる?」
「……? 昼神……?」
「知らないで通すつもりか? 昼神イヴ……、その力の本来の持ち主だ」
「やはり……、一号のことか?」
雪が助け舟を出す。
「お前が探してるのが一号なら、お門違いだ! 彼女はその昼神の力を偶然分有したにすぎない。肉体強化すら受けていない一般人だ」
「……! …………そういうことか」
御黒は静かに言って、苛立たし気に髪をかき乱す。「この五年の間に、贋作技術も完成していたということか。どおりで最初の二人が弱かったわけだ、あいつらは12人ではなかったんだな」
手を下ろし、初めに消し炭にしたエデンの贋作二兵を思い返すように、御黒は両の掌を眺めた。雪は彼の醸す空気が変わったのを感じた。
「これで分かっただろう。僕たちに争う理由は無い。彼女は無関係だ」
「……いや」御黒は光の無い洞のような瞳を、氷の地面に落として言った。「関係はある。そいつの肉体には、昼神イヴの情報が刻まれてる」
御黒の体が消える。雪が叫ぶより早く到達した御黒の手刀がのまえの首を叩き、意識の昏闇に引き込んでいた。
「のまえ‼」
「こいつは連れていく。少しは手掛かりになるだろう。お前はそこで寝ていろ」外套を広げる。黒衣がのまえの体を包み、唐竹を割ったような電流の音を伴って、二人の姿が陽炎のように透明になる。
「待っ……!!」
手を伸ばした雪の肉体は、一歩を踏み出すよりも先に炎に覆われていた。全身の皮膚を激痛が支配する。筋肉が熱で断裂し、骨が脆く溶けだした。自分の意志とは裏腹に倒れ伏す。
「畜生……っ」
奥歯が割れるほど噛み締め、爪を氷の大地に突き立てながら雪は吠える。
「畜生ォオオオッ!!!!!」
真夏の熱地帯に咲いた氷の園に、少年の叫びが虚しく反響した。