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人獣見聞録-猿の転生 V ・Side-B:悪魔のいる天獄  作者: 簑谷春泥
第1章 八月の光
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第5話 波打ち

 見や紫の下にのまえを連れ帰ると、三人は既に食事を済ませてくつろいでいるところだった。

「ああよかった。見つかったか」

 紫が胸を撫でおろす。見が気楽に手を振って迎える。雪とのまえは白いプラスチック製の椅子を引いて、彼らの隣に腰を下ろした。

「午後どうする? 一通り回ったけど」

「私、ウォータースライダー行きたいです。もっかい滑りたい」

「ああ……、うん。あの恐怖のアトラクションね」

 危うく全裸になりかけた記憶がフラッシュバックしたのか、見は身震いする。

「次はちゃんとパンツの紐締めてくださいよ……」雪は焼きそばを啜り始めながら、げんなりした顔で忠告した。

 一休みすると、三人は次の場所に向かったが、雪はもう少し腹に入れていくと言って残った。紫が買ってきてくれたホットドックを受け取る。座に着く。席は向かい合わせなのに、二人とも遠い水面に体を向けて座った。

「……何か?」

 赤と黄色の調味料をチューブから注ぎながら、雪は紫の視線に気づいて尋ねた。

「いや……、食べられるようになったんだな、と」紫が指を指す。「マスタード」

「とっくの昔ですよ」ソーセージにかじりつきながら、雪は頑なな口調で答えた。「……局長は昔の僕しか知らない」

「そんなことはない」

「ありますよ。高校の入学式にだって来てくれなかった。中学の時もそうだ」

 紫がこちらに顔を向ける。

「来て、ほしかったのか」

「……べつに」

 もくもくと口を動かして、雪は黙り込んだ。紫は黙したまま、サングラスを外した。

「……立場上、あまり私的な場に出ることができなかったんだ。すまなかったね」

「だから気にしてませんって」

 最後のひとかけをぞんざいに口に放り込み、咀嚼した。

 人為的に作られた、潮騒の音が流れる。波打ち際を手を繋いだ家族連れが通っていく。雪は白い丸テーブルに肘をつき、頬付えしながら低く声を漏らした。「ついでだから聞きますけど」

「うん」

「…………」雪は不機嫌そうに口を閉ざしたまま、渚を睨んだ。それから目を閉じて言った。「……やっぱり良いです」

「……。そう」紫は言葉少なに相槌を打って言葉を区切った。なぜかそれが無性に腹立たしくて、雪は音を立ててストローを吸った。

 僕は何を期待してるんだ? 雪は自分に苛立ちを覚えながら自問した。……いや、はなから期待などしていない。苦竹先生に義理を立てただけだ。

三か月前の任務の後、先生に、きちんと話し合ってみろと言われた。局長(かのじょ)が一度自分のもとを去ったのは、けして僕を見捨てたからではないと。見先輩を介して紫を誘わせたのも、きっかけを作ろうとしてくれたのだろう。その好意を無下にするわけにもいかないから、こうして話を振ってみただけ。それだけのことだ。この人と暮らした期間は10年にも満たない。僕の短い人生からすれば太く長い時間だ。でも何十年と生きている大人にとって、この人の人生にとって、それはほんの一部でしかない時間なんだろう。何よりそれは彼女にとって任務にすぎなかったのだ。……期限がくれば、別れを告げもせず、離れられる程度の。

 もういい、時間の無駄だ。雪は立ち上がろうと膝に手をついた。

「君は私の部下だ」

 紫がおもむろに口を開いた。

「!……」雪はびくりと肩を震わせた。それから、ややあって拳を握りしめた。「そうですか。……知ってましたよ、そんなこと」

絞り出すような声で、付け加える。

「僕は、あなたの息子じゃない」

「それは違う」

 紫は前を向いたままきっぱりと否んだ。雪は微かに顔を傾けて、彼女の方を見た。

「君をエデン製薬から救い出してから五年……、私は君に上司として接してきたつもりだ。それが適切な距離感だと……。だから母親として、家族として君に触れることを、己に禁じてきた。それが自分への罰だと思った」

「罰?」雪は眉根に皺を寄せる。紫が肯く。

「何も言わず君の前から姿を消したのは、私の意志じゃない」

 伝えるべき言葉を探すように、紫の目が宙を動いた。

「任務だった。あの時私は歯車の一つでしかなかったんだ。エデンに送り込まれた、公安の潜入捜査官。私はまだ未熟だった。君を連れて逃げるだけの力も、立場もなかった」

「……! エデン時代のあなたは、公安の送り込んだスパイだった……?」

 初めて聞かされる事実に、目を見張った。伏魔殿はエデン製薬に反旗を翻す形で分派した組織だ。だから雪や葎を始め多くの人間はエデンの元関係者であり、紫も例外ではない。それは公の事実としてしかし、公安との繋がりがその頃からのものとは、初耳だった。

「私は長く潜入をしすぎたんだ。エデンの目を誤魔化し続けるのにも限界があった。それで己の身分を隠すために、身を引く選択をした。私が公安の人間であると知られれば、連中は君を殺すかもしれないと……。だから何も告げずに去ったんだ」

紫は遠くを見つめて呟く。

「……私にとっても、辛い選択だった。……もちろん、私が君を見捨てたという事実は変わらない。だからそんな私に、君の母親を名乗る資格など、ありはしないと思った」

「それなら」雪は噛みつくように声を出した。

「それなら、なぜまた僕を助けたんですか。……どうして希望を持たせるようなことをしたんだ。あのままエデンに居続けて、あんたを忘れてしまった方が、幸せだった。傍にいるのに見て見ぬふりをされ続けることが、どれだけ苦しいか……」

 雪は奥歯を噛み締めて、小さく机を叩いた。空になったカップが撥ねて、氷が転がった。

「あんたのやったことはエゴだ。僕を助け出したことも、己に課した罰も、一皮むけばただの自己満足にすぎない。あんたは野良犬を拾う程度の感覚で僕を育て、見捨てたペットを買い戻すほどの憐みでまた呼び寄せたんだろう。結局は任務の延長なんだよ。上からの命令にしたがったまでで、ほんの僅か情が湧いた程度の……」

「違う……。雪、君になら分かるはずだ。君にとって染が赤の他人ではないように……」

「僕の気持ちを知ったように語るな!」

 雪は語気を荒くして立ち上がった。それから息をつき、背を向け、シャツを肩にかけて歩み出した。

「……もう充分です。取り乱してすみませんでした」

「雪、待ってくれ……。もう少しだけ話を」

「いいえ」

 立ち上がりかけた紫を、雪はぴしゃりと撥ねつけた。

「今日はもう精一杯です。一度に全ては受け入れられない。……頭を冷やしてきます」

「……そうか。……なら、また今度話をしよう。いつでも、好きな時でかまわないから」

 紫は少年の背中に、気遣うように声をかけた。雪は不器用さを押し隠すように呟いた。

「言わないでくださいよ……、そんな母親みたいなこと」

 水面にむかって歩き去ろうとしていた雪の背中が、不意に止まった。雰囲気が変わった。紫が何かを察知したように声をかけた。

「雪?」

「局長」雪は緊張した面持ちで振り向いた。さきほどまでの多感な高校生の瞳ではなく、治安維持局の隊員の目つきだった。



「あら、破けちったなぁ」

 気の抜けたビーチボールを覗き込みながら見が言った。小さく空いた穴から空気が抜け出して、ビニール製のボールは萎み始めていた。

「交換してくる」

「私、行きますよ」

 見からビーチボールを受け取ったのまえに、染が声をかけた。

「じゃあ、お願いするね。袈裟丸ちゃん」

「はい、のまえ先輩」

 岸辺に泳ぎついて、袈裟丸はプールを上がった。

 受付は二つ先のブロックにあった。午後になって入場者の数はますます増えていた。水滴を髪の先から滴らせながら袈裟丸はほんのりと温かみのある珪藻土の床の上を歩いていく。よれたビーチボールを横から押さえると、やんわりと空気が吹き出てくる。つられて知らずため息が漏れる。

 袈裟丸の頭には大人びた水着を着たのまえの姿があった。普段はふわふわとした雰囲気の女性だが、年相応の表情を見せる時もある。可愛らしい見た目の割にどこか謎めいていて、少しだけ影があって、多分そういうところが兄の気に入ったのだろう。

 ふとビーチボールの口が目に入る。雪が膨らませてくれたビーチボール。彼の唇が触れた一部に、袈裟丸はじっと視線を注ぐ。

 思わず唾を呑む。あらぬ欲望が顔を出して、袈裟丸ははっと我に返った。「いけない、いけない」ぱちりと自分の頬を叩く。抑えないと。

 それにしても水着、可愛いって言ってくれなかったな。独り考える。そういえばのまえ先輩にも言ってなかった。……でも二人きりの時に、沢山褒めてるんだろうな。くるくると肩にかかった髪をいじる。そもそも雪が異性に強い関心を示したこと自体、袈裟丸には驚きだった。同級生に対してはもちろん、葎や見のような大人びた美人の近くにいながら、長いこと雪はなびく気配もなく過ごしていたのだ。殺伐とした生活を送っていたのだから当然かもしれない。だからこそのまえという突然現れた存在は、袈裟丸を大いに動揺させた。

 妹として、雪に幸せになってほしい気持ちはある。当然のことだ。彼が人並の幸福を見つけたことは、多分、祝福すべきことなのだろう。それでも袈裟丸の胸には、梅雨時の雨を降せる雨雲のような気持ちが燻るのだ。

多分それを言葉にすることは簡単だろう。だが、自分の中に言語化してはいけない種類の感情があることを、袈裟丸は理解していた。……不鮮明な過去、暗い鉄格子の内側の景色が脳裏によぎる。この衝動を自覚してしまったら、きっとまた全てを失ってしまうのだ。あの時のように。

「帰ったらまたあれしなきゃかなぁ……」

 ひとつ溜息をついて辺りを見渡すと、いつの間にか人気のない裏道の様な所に来ていた。スタッフ用の通路なのか壁にペンキも塗られておらず、ダクトはむき出しで音楽も遠くから小さく聴こえてくるばかりである。

 うっかりしていたな、引き返すか。踵を返しかけた袈裟丸の目が、目の前のコンクリートの壁の染みを捉える。

「……?」

袈裟丸は眉を顰め、その一点に目を凝らした。黒い染みのように見えたそれは壁から突き出るように大きくなり、ずるりと和装の袂のようなものが出てきた。

それは事実袂だった。まるで何もない所を歩いてきたかのように、壁からするすると幽霊のような着物姿の男が現れた。袈裟丸は驚いて立ち止まった。

ホログラム? いや、しかしその男の足どりには確かな質量が感じられた。黒々とした長髪を後ろに束ね、長物を腰に備えた落ち武者のような相貌、4、50代といったところだろうか、流木のような枯淡な風貌にして、それに不釣り合いの強烈な闘気が漲っていた。——只者ではない。

男はこちらにちらりと視線を寄越したが、騒ぎ立てる様子はないと判断したのか、無関心そうな素振でその横を素通りした。傘でも提げているかのような自然さで日本刀を携え、ゆらりゆらりと風に吹かれる柳のような足どりで水場の方に向かっていく。間違いなくエデンの能力者……それも12(モンキーズ)レベルの大物だ。袈裟丸は素早く手首のシュシュに隠した発信器を起動する。緊急信号を紫に伝達する仕組みだ。

 電波が飛ぶ。ピタリ、と男の歩みが止まった。

(なれ)……」男は重々しく口を開いて、黒目がちな青の眼をじろりと向けた。「何か送ったな」

 チン、と指で鍔を弾く音が聴こえた。袈裟丸が返事を返す暇も無く、男の腕は既に振り抜かれていた。

 死の一文字が袈裟丸の脳裏をよぎる。

よりも速く、彼女の体は抱えあげられていた。

 空気を裂く轟音と共に、後ろの壁に亀裂が入る。袈裟丸は目を見張る。それから自身の体を包む温かい感触に気付いた。「お兄ちゃん?」

「ギリ間に合ったか? 袈裟丸」

 焦ったような表情で雪が尋ねる。直に触れる胸から、バクバクと早鐘のように鳴る心臓の鼓動が伝わってきて袈裟丸の顔を熱くさせた。

剥き出しの刀身を掲げた男が、すんでのところで移動した彼女の方を見、それから彼女を救い出した少年を見据えた。「……真白(ましら)……(そそぎ)

「確認するまでもないけど、エデンの刺客だな」

 柔らかに袈裟丸を抱きおろし、雪は銃口で侍を睨みつけた。

「人の義妹(いもうと)に手を出したんだ。覚悟はできてると思っていいな?」


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