第4話 青
底が抜けたように明るく晴れ渡った空と対照的に、重苦しくどんよりとした空気が車内を覆っていた。むすっとした表情で頬杖を突き、助手席から窓の外に視線を向け続ける雪の横で、ハンドルを切るのは、室長の葎……、ではなく、伏魔殿の局長・注連野紫だった。
色褪せた水色とピンクのセミショートが重力に揺れる。
「……見ちゃん、よりによってなぜ、局長を誘ったんですか」
後部座席にすし詰めになった袈裟丸が、右隣りに座った見にこっそりと伺う。柄物のTシャツに短パンというラフなスタイルに身を包んだ見が小声で答える。
「しょうがないだろ、葎先生が自分の代わりに誘えって言うもんだから」
「結局断られちゃったんですか?」
「スケジュールが合わなかったの! 五頭君たちに同行して南の島に行っちゃったんだよ。なんなら明日から僕も行くことになってる」
「いや、しかし困りましたよ……? 私たち三人ならまだしも、お兄ちゃんと局長は水と油じゃないですか。苦竹先生は何を考えてるんですか……」
袈裟丸の横にずいっと顔を寄せ、のまえが口を挟む。「雪くんと注連野さん、仲悪いの……?」
「悪いというかギクシャクしてる。局長は雪くんの育ての親なんだけど……」
「そうなの?」
「うん。でも昔色々あったみたいで。プライベートで喋ってるとこ、見たことないよ」
「任務でも上司と部下って感じですよね」
「そうなんだ……」
のまえは八の字に眉を下げ、席に体を戻す。
「局長自体は気さくでいい人なんですよ? よく気にかけてくれるし」
「任務明けとか焼肉奢ってくれるしね」
2人はひそひそと囁きあって残念そうに首を振る。
「あー、皆。その、なんだ……」紫がバックミラー越しに後部に話しかける。三人は思わず背筋を伸ばした。紫は気を遣うように苦笑いした。「なんか、ごめん……」
それでも現地について塩素の香りを嗅ぐと、雪も緊張を解いたように表情を緩めた。のまえがすすっと横に歩み寄って、軽く手を握った。「のまえ」雪は、こちらを覗き込むように顔を向けるまえの瞳を見返して、微笑んだ。
「ごめん、大人げなかったね。折角の機会だ、楽しくいこう」
更衣室で一旦分かれて着替えを済ませると、雪と見は一足先に施設内へ足を踏み入れ、歓声を上げた。
天井の高いプールは一目では見渡せないほど広々としており、家族連れや学生たちで賑わっていた。見通す限り奥にもいくつもスペースがあるようで、ちょっとした遊園地程の敷地面積がある。中央には半ば水に浸かった海賊船があり、その巨大なマストを、天井から注ぐ模造品の太陽の光に曝していた。
「さすがにデカいですね」
「ね。都内の名所ってだけあるよ。葎先生も来ればよかったのになあ」
アホみたいなデザインのサングラスの奥で未練たらしく涙を浮かべる見を見て、雪は笑った。青い長髪を一つに結んでアロハシャツ一枚の上裸になった見は、いつもとは打って変わって、ずっと少年らしかった。
「そういえば今日は男物の服でしたね、珍しく」
着替える前の服装を思い出して、雪は尋ねる。「美少女の形で男子更衣室に入ったら、皆混乱するじゃないか。それくらい弁えてるよ」見は当然のように答えて視線を写した。「おっ、染」
女子更衣室から出てきた袈裟丸を見つけて見が手を振った。きょろきょろとあたりを見渡していた染がこちらに気付いて、緊張した面持ちでちょこちょこと歩いてきた。レースの付いた、可愛らしい、けれども少しだけ大人っぽいデザインの水着だ。
「ど、どうでしょうか。お兄ちゃん」
「僕は無視ですかこのやろー」口を尖らせる見をなだめ、雪は袈裟丸を眺める。「まあ、良いんじゃない。露出が少なくて」
「そこが基準なんですか、このやろー」袈裟丸がぽかりと雪の肩を殴った。
さざめくように笑った雪の表情が、何かに気付いたように袈裟丸の後ろに向いて、一段と温かみを帯びた。
振り向いた袈裟丸の前に、遅れて出てきたのまえと紫が来ていた。紫は保護者然とした落ち着いた上品な服装で、シックなサングラスをかけている。局長という肩書と過労気味の姿から普段は意識しないが、やはりこうしてみると女性的な魅力を備えた美人だ。
しかし雪の目を奪ったのは自身の愛し君の姿であった。一度店で見たとはいえ、やはりそれに相応しい場所で目にしてみると、ドレスのようなシースルーの装飾を纏った水着姿ののまえは、波打ち際の人魚のようにそれはもう美しかった。
「見惚れちゃって、このこの」見が揶揄うように脇をつついて、雪を我に返らせた。雪は照れくさそうに頬を掻いて、袈裟丸がむっと頬を膨らませた。
「じゃ、私は適当に席をとっておくから、あとは若い人たちで楽しんで」
簡単にストレッチをして筋肉をほぐすのを見届けて、紫がひらりと手を振って四人を解放した。袈裟丸たちは元気よく返事をし、雪も顔を斜に向けながら了解の意を示した。
「よーし、じゃあ行きますかァ!」
「見先輩、泳げるんですか?」
改造人間の筋力と肺活量を駆使し、ものすごい勢いで浮き輪とビーチボールを膨らませながら、雪が問うた。
「お? 津軽のトビウオと呼ばれた僕の背泳ぎを見せてやろうか?」
「あんまいないですよ、背泳ぎが得意種目の人……」
見の海水パンツが流されそうになったり、見の足が攣って溺れそうになったりというハプニングを挟みながらも、波打ち際の時は流れた。
昼時も間近という時、のまえがふいと姿を消したので、三人はプールサイドに上がって辺りを見渡した。
「お手洗いかな」
「どうでしょう。さっき休憩入れたばかりだし、違うんじゃ……?」
袈裟丸が否む。
「じゃああれかな、流れるプールで分岐した所」
雪が今来たルートを振り返りながら言った。
「それならこの手前の地点で合流するはずじゃない? 現に僕たち再会してるわけだし」
「でも一さんを最後に見たのって、分岐前のあたりですよね?」
二人が考え込む。雪は組んでいた腕を解いて言う。
「まあ近くにいることは確かだから、僕が見てくるよ。ちょうどいい頃合いだし、二人は昼飯でも食べて待ってて」
2人と別れ、雪は来た道を辿ってプールサイドを遡行した。三叉路の地点に差し掛かって、雪はふとその横にさらに脇道があることに気付いた。
それはルートに順じて流されていると気付かないが、こうして陸路から逆行することでやっと目に入るような道だった。雪は水の中に飛び込んで、人口の川を向こう岸まで渡った。
通路に上がる。脇道はなだらかな登り坂になって、途中から陸地に変わっていた。自分の意志で歩いていかない限り行き着かないような場所だと思うが、念のため雪は奥まで進んでいくことにした。
そう長い道のりではない。しかし洞窟のような地帯に入り込むと、通路は次第に薄暗くなってきた。道を間違えたかとも思う。とはいえ凝った装飾やライトアップが壁面にちりばめられていたので、多分スタッフの通用路ではない。
不意に淡く青い光が差し込んできて、雪は目を細めた。トンネルを抜けた先には鍾乳洞のような幻想的な空間が広がっていた。壁面や天井の岩肌に太古の落書きのような絵画が彫り込まれており、そこから仄かな光が星明りのように降りそそいでいる。通路の先のぽっかりと空いた深い窪みに湖のような大きな水の溜まりができていて、その上に浮き輪に寝そべったのまえがぷかぷかと浮かんでいた。
「のまえ、こんなとこに居たの」
冷たい湖中をすいと泳いで、雪はのまえの傍に渡った。「雪くん」やっとこちらに気付いたようにのまえが振り向く。
「綺麗な景色だね。知ってたの?」
「ううん。流れてたら自然にここに着いてた」
「流れて?」雪は不思議に思って聞き返した。「途中で水路は途切れていたけど」
「ん……。多分時間によって変わるんだと思う」
言われてみて雪は気づいた。「なるほど、潮の満ち引きか」
辿ってきた小径の形状を思い返す。たしかに歩道というよりは溝に近い形だった。海の潮の満ち引きを再現し、時間帯によって水位が変化する仕組みを作っているのだろう。一定の水位を下回ると、流れ込んでくる水が途切れ本流から分離するというわけだ。推し量るに、ここは偶然に導かれた幸運な利用者のみが辿り着ける穴場、隠しスポットといった所だろう。運営側の粋な演出だ。
「それでも、のまえだけが流されてきたというのは、ちょっとした偶然だね。他の客も一緒に流れ着いていても、おかしくなかったのに」
「うん、でも、偶然は必然だから。のまえにとって」
ロマンチックな言葉だが、確率操作能力を持つのまえからしてみれば事実を述べただけなのだろう。雪は納得する。のまえが本気で望めば、大概の事は実現する。そういう力なのだ。
しかし……。のまえの浮き輪に腕と顔を乗せ、星座のような美しい岩肌を眺めながらぼんやりと考える。それなら、こうして僕だけがのまえを見つけ出して……、こうやって二人きりでいることも、のまえの望んだ結果、なのだろうか。
雪はちらりとのまえの顔を盗み見た。しっとりと濡れたレモン色の髪や、宝石のような星明かりに照らされたのまえの横顔は、宇宙の神秘のように美しく見えた。……そう、思っていいんだろうか。瞳に吸い寄せられるように、頬を寄せた。
甘い香りの夢見心地が、永遠のような刹那に流れ、重ねた唇の感触が離れてやっと、雪は我に返った。
「ごめん、あの、思わず……」
「ううん、いいの」
のまえは少し照れたように頬をほころばせた。誰もいない二人だけの世界を、人工の星々が見守っていた。