第3話 微温と心音
巣へと帰っていく烏たちを遠く背景に、雪とのまえの寄り添い合う影が歩道に長く伸びた。少しだけ歩調を緩めて歩く二人の腕が、自然なリズムで触れ合う。他愛無い言葉で交わされる若人の幸せを、夏服の袖を攫っていく柔らかな風さえ祝福しているようだった。
「のまえが来たがってた店って、ここ?」
ショッピングモールのエスカレーターを降りた雪が、のまえに確認をとる。のまえが肯く。夏を眩しく彩る水着が立ち並び、華やかな一角をフロアにもたらしていた。
「いくつか候補は決まってるんだけど、最後は雪くんに、って思って」
のまえはふらりと売り場を一周すると、目を付けていた商品を籠に放り込んで、気後れする雪の手を引っ張ってずんずんと試着室の方へ進んでいった。張り切ってるなあ、となかば勢いに押される形で雪は連れていかれる。試着室の奥へと進み、カーテンの中に引き込まれた。
……ん? 四方を囲まれた密室に立たされて、ようやく違和感に気付いた雪の横で、のまえはするりと制服のスカーフを外した。それほど狭くない個室で二人が収まるには十分なスペースがあった。Yシャツのボタンを外し始めたのまえを見て雪は慌てて叫んだ。
「わーっ!! ストップのまえさん!!」
のまえはきょとんとした顔で答える。「どうしたの」
「いや、僕、いる、ここ」来日したての観光客のような片言で雪は訴えた。「なんで試着室の中まで連れてきたの⁉」
「雪くんが着いてきたから」
「その場で指摘してよ! そしてそのまま脱ぐなよ!」
「そこは大丈夫」ぷち、と音を立ててボタンを外し、のまえが夏服の前をあけた。「もう着てきてるから」
スクール水着の端を目にして、雪はほっと胸を撫でおろした。「心臓に悪いな……。っていうか、なんでスクール水着?」
「一応、比較対象。雪くんの好みが分からなかったから……」
それにしても着てくる必要はあったか? と疑問を浮かべながら雪は壁に背を持たせかけた。自分も水泳の授業でやったことあるな、下に水着着てくる時短術。それにしたってせいぜい小学生の頃だ。のまえって子供っぽいところあるよなぁ。
……というか。雪はふと冷静になって赤面する。
この光景でも充分アウトだろ。
「雪くん」
制服を脱ぎ終わったのまえに肩を叩かれ、奇声が漏れる。「どう?」
「あ、うん」目を開いてまたちょっと逸らしながら、雪は答えた。「……良いと思います」
「こういうの、好き?」
「まあ、嫌いではないけど。でもせっかく遊びに行くんだから、新調しても良いんじゃないかな?」
「だよね。私もそう思ってた」
のまえは賛同して肩紐に手をかけた。それからふと顔を赤らめた。「えっと……、ちょっとだけ、後ろ向いてて」
「うん、いや、外で待つよ。さすがに」雪はそそくさとカーテンの傍に移動した。
「別にいいのに。……雪くんなら」
「大変ありがたいお言葉ですが、これ以上は心臓がもたないので……」
雪は風のように個室の外へ退散した。
〇
研究室の入り口の前を、見は落ち着かない素振で行きつ戻りつした。
これで何往復目か分からない。15分ほど前にすれ違った職員が再び通りかかって、不思議そうな顔で見を見た。彼女が用事を済ませて戻ってくるまでの間中、見は立ち尽くしていたことになる。
これでは埒が明かない。見は扉の前で足を止め、深呼吸をした。それから心の中で掛け声を発すると、威勢よくノブを掴み、扉をほんの数センチだけ開けて中の様子を垣間見た。
中ではそれほど広くない診察室の中で、伏魔殿の研究室長、苦竹葎が真剣な眼差しをディスプレイに注いでいた。キーボードを打ち込む時の微振動で、形の良い耳を隠すように伸びたダークブラウンの髪が、重力に従ってはらりと垂れる。僅かに吊り目がちな涼し気な目元は、深い森林の奥に眠る神聖な動物のごとき気品さえ漂わせている、と見には思えた。
彫刻のように均整の取れた繊細な横顔に注がれた視線を感じとったように、葎はふとこちらを振り向いた。「うわっ、びっくりした」
クールな落ち着いたトーンの声が少しだけ波打つ。「なんだ、見君か。……もしかしてずっとそこに居たの?」
「い、いえ、今しがた来た所です。ナウオンタイム……」見は慌てて取り繕いながら扉を開けた。「ハ、ハロー、ナイスツミーチュー、ミス・苦竹……」
「何、そのキャラ……」
苦い表情で葎がつっこむ。
「見君が改まって入ってくるなんて珍しいわね。何か用事?」
「あー、いえ、たまたま通りかかっただけです」
「たまたま通りかかった人の、ドアの開け方じゃなかったけど……」
葎は話しつつも淀みなく動かしていた手を止めてこちらに向き直った。見を招じ入れるように手招きする。
見は後ろ手に扉を閉めると、忠犬のように畏まって彼女の前に進んだ。
「座る」
丸椅子を指さして彼女が言う。大人しく椅子に腰かけると、徐にほっそりとした冷たい指先が見の額に触れた。「ひょえっ……」息を呑む。
「うーん」指先の感触を確かめるように、葎が宙を睨む。「36.9℃。平熱の範疇」
「こ、このシチュエーションで正確に計られるパターン、初めて見ました……」
見は紅潮した顔でぎゅっと目をつぶって唸った。
「あはは、ごめんごめん。様子がおかしかったからつい」
葎は手を離して笑った。
「医者として、弟子の体調くらいはケアしておきたいからね」
「その点は安心してくださいよ。一流の弟子は常に磨き上げているもの。自身の肉体を……」
「一流っていうか、まだ半人前だけどね」釘を刺すように葎が言う。「それと言えば、あなたの最終試験の内容が決まったわよ。助手としての正式登用をかけた採用試験。今度実習もかねて、私と部隊の短期任務に同行してもらいたいの」
「……! いよいよですか」見が背筋を正す。ここ一年ほど研修のような形で葎の指導を受けて来た。校医として雪たちの学校に赴任するという、葎の業務の都合で三ヶ月ほど中断していたが、見にもやっと採用のチャンスが巡ってきたのだ。
「詳細は今日にでも伝達されると思うわ。同意書にサインして、事務の方に提出してね」
それからひとつ伸びをして葎は立ち上がった。
「珈琲でも飲む? インスタントだけど」
「あぁ、僕がやりますよ」
「いいわよ。座ってなさい」
こちらに背を向けて流しの方へ向かう。試験に向けて気合を新たにしたところで、本題を思い出した。白衣に包まれた華奢な後ろ姿に、見は話しかけた。
「ところで、今度雪くんたちとプールへ行くんですよ」
「あら、良いじゃない。男同士水入らず?」
「染と一ちゃんも。皆このところ大変でしたからね。良い息抜きになるといいんですが」
「よく見てるのね、後輩のこと」
横を向いた顔に微笑みが浮かぶ。スプーンで珈琲の粉末を掬い、マグカップに注ぐ。見は二匙、葎は三匙のブラック。自分の好きな分量を覚えていてくれることが嬉しい
「それで……、チケットがまだ余ってるんです。一枚」
ポットから弧を描いて注がれるお湯から視線を写し、見は切り出した。「それで、葎先生もどうかと」
「……私?」流しに腰を預け、カップに口を付けながら葎が聞き返す。「邪魔しちゃ悪いんじゃないかしら」
「そんなことはありません。保護者役と言いますか監視役と言いますか、一ちゃんも居ることですし、上官の眼があった方が良いかと」
「見君と雪君がいるなら大丈夫よ」
「いやいや、我々はまだケツの青い青二才です。それに10代の男女が肌を見せ合うなど、不純異性交遊も甚だしい。厳粛な大人の監視は必要。聖書にもそう書いてありました」
「ふうん。本音は?」
「葎先生の水着が見たいです」
即答する見の頭をファイルではたく。
「いや、今のはそう言う流れじゃないですか」上目遣いで不平を溢す見に葎は珈琲を手渡した。
「まったく。いつもの見君で安心したわ」
「むう。……でも来てほしいのは本当なんですよ。葎先生、このところお疲れそうでしたし」
見はうっすら指の跡で皺の寄ったチケットを差し出した。受け取ってしげしげと眺めながら、葎はマグを傾ける。
「……もしかして、ずっとこれを言い出そうとしてたの?」
「えっ、いやぁ、お恥ずかしい……」
見は照れくさそうに頭を掻いた。いつももっと強烈なラブコールしてるじゃない、葎は呆れたように肩をすくめる。
「あなたって時々本気っぽいから、先生困っちゃうわ」
葎はそう呟いて、微妙な笑みを浮かべた。見がよく目にする表情だ。それは大人と子供の線引きを泰然と行うような、この境界線を容易く引き直してしまうような、大人としての顔だった。
ああ。
またそんな表情をさせてしまった。
見は翳りを隠すように、明るく笑った。