第2話 楽園
「と、いうことで、ここに4枚のチケットが余っているわけです」
丸テーブルを挟んで座った二人を見ながら、雪はレジャー施設のチケットを見せた。青空と眩しい太陽を背景に、水着を着た男女が踊り出さんばかりに身を乗り出している写真がプリントされている。伏魔殿……、治安維持局本部の居住区域の自室だった。机の上に出しっぱなしになったビタミン剤やバックナンバーごとに整然と並べられた映画雑誌を除けば、これといって観るべきものもない。特別引越しの多い生活のせいか、物の少ないシンプルな部屋である。
ふわりとバニラのような清潔な香りが雪を包む。のまえが身を寄せるようにして、隣からチケットを覗き込んだ。クリーム色の髪の毛が雪の肩をくすぐる。天使の羽根のような感触だった。
雪は一枚をのまえに手渡す。巨大な屋内プールが売りのウォーターパークだった。制服のスカートのまま胡坐をかいた見が、首を傾げる。綺麗に手入れされた長い蒼髪が、しどけなくカーペットの上に垂れる。
「なんかさっきの話の流れだと、南の島じゃなかった?」
「の、予定だったんですけど、あまり本部を離れるわけにもいかず。結局日帰りで行ける所になりました」
見の問いに雪は答えた。
「ほーん、で、言い出しっぺの後原ちゃんたちはどうしたの?」
「ええと、不良組は今、南の島です」
雪の返答に、見が美少女のような端正な顔の上で疑問符を浮かべた。
「雪くん、仲間外れ」
のまえが哀しそうに眉を下げる。ああ、と見が何か察した風に雪の肩を叩いた。
「涙拭けよ」
「違う、ごめん、順を追って話すべきだった」
雪は見が追加で差し出したハンカチを押し戻して説明した。
「悪童隊の100人は九州の離れ島で防衛訓練中なんですよ。後原以外の新参の女学連は居残りですが。なんでも自衛隊のキャンプを借りて二週間ほど、泊まり込みだそうで……。スケジュールが決まったのが、チケットを発行した直後だったらしく」
「ああ、それでチケットが余ったと」
そういうことです。雪は首肯する。「二人の予定が会えば、どうでしょう」
「のまえ、行ってみたい」
のまえがチケットを陽の光に翳しながら言った。薄い空色の紙が太陽に透けて、水のように見えた。「こういうとこ、行ったことないから」
「まぁ僕含め、ここの寮の連中は訳ありだからね。おしなべて」
見が理解を示すように肯いた。雪はちらりと見の顔を眺めた。見が自身の家庭のことに言及するのは珍しかった。
「で、残りのチケット、渡す当てはあるの?」
「とりあえず一人は。見先輩の方は?」
「そりゃ愚問だろぉ?」見は雪の手からチケットを捥ぎ取って答えた。
「葎先生に決まってるじゃない……。ダブルデートとかしてみたいって常々思ってたんだ」
チケットを握った両手を胸の前で組んで、白衣の天使を思い浮かべるような表情で見が言う。傍から見ると完全に恋する乙女だが、中身は10代の男子そのものだ。
「はは……、では苦竹先生には先輩の方から……」
雪が苦笑いして小声で付け足す。「……断られないといいけど」
見が雪に呪いの言葉を放っていると、遠慮がちなノックが二回続く。扉から褐色の少女が顔を出した。
「お兄ちゃん、予備の銃創」
あ、と電子銃のカートリッジを片手に、肩まで伸びた髪と同じ桜色の瞳が二人を見止めた。
「見ちゃん……と、一さん。来てたんですね」
部屋に入ってきて、丁寧にぺこりと頭を下げる。
「こんにちは、袈裟丸ちゃん」のまえも小さくお辞儀をした。
「もうシフト上がったのか?」
雪が手招きして尋ねる。
「うん……、あ、これ局長から。忘れずに充填しといてね」
袈裟丸がマガジンを差し出す。
「おー、ありがと」
弾倉を受け渡して空になった袈裟丸の掌の上を、雪はちらりと見た。それからその上に、入れ替わりでチケットを一枚載せた。「?」袈裟丸が不思議そうな顔で紙片を眺める。
雪が照れくさそうに目を反らす。
「週末みんなで行こうと思ってさ、水遊園。ま、袈裟丸だけ誘わないのもなんだし……と思ってね。どうせ暇だろ」
勧誘の意志を察して、袈裟丸はぱっと顔を明るませた。のまえが微笑ましく二人を見守る。
「素直じゃないねー、この兄貴は」見がにやにやと雪をつつく。それからふと真剣な顔つきになった。
「待てよ。染が参加したらダブルデートじゃなくなるんじゃ……?」
「そもそもデートと捉えてもらえないのでは?」
「保護者役」
絵にかいたような大人のお姉さん然とした葎を思い浮かべて二人が口を挟む。
「ぐぬぬ……」
雪とのまえの口語の反論に見はいきり立った。
「黙って言わせておけば! 見てろよ、今年の見様は一味違うんだからな!?」
見は二枚のチケットを掴んで立ち上がった。ひと夏のアヴァンチュールを刻んでやるんだからなーっ! そう捨て台詞のように言い残すと部屋を走り出た。
〇
明かりの落とされた部屋の天井を、テーブルの上に付けられたネオンのような光で照らしている。壁に掛けられた針の時計と、引き裂かれたヴァニタス画の数々が静かに息を顰める。同じように薄ぼんやりとした青白い光が床を彩って、席に着いた者たちの顔を蒼白に浮かび上がらせた。
その中でも一際頬の白い青年が、雨乞烏合の隣に腰掛けた。烏合は二つに束ねた空色の髪の隙間から覗く冷たい瞳を、青年の方にちらりと見た。視線に気づいた青年が、にこやかに微笑を返す。「二ヶ月ぶりですかね、雨乞さん」
「海土路佐介副連隊長。いつも連隊長の代理を欠かさないあなたが、先月は珍しく欠席だった」
原稿でも読み上げるかのような抑揚の無い声で、烏合が確認する。青年も肯いた。
「先月は連隊の編成が大きく変わりましたから。何しろ一度に千人も戦闘員が増えたんだ、嬉しい悲鳴と言えなくもありませんね。葦原、活動してるのかしてないのか分からぬ連中だと思っていましたが……、予想以上にできる部隊でした」
「『葦原』……、首席枢機卿麾下の別働小隊。その全てを知るのは猊下ただ一人」
烏合は口の中で記憶の情報を反芻する。
「この『枢機卿団』は、首席枢機卿の権限の下に開かれた、エデンの最高意思決定機関。全ての部隊は我々の管轄にあると言っていい。エデンの目的には、それで不足はないはず。別働部隊なんて設ける必要はない」
「ご機嫌斜めですね。しかし猊下には、猊下のお考えがあるんでしょう。たしかに彼らにかき回され、こちらの作戦に支障が出ることもありますが……」
海土路は言葉の割に大した不満も無さそうな態度で同意した。普段から破天荒な連隊長を御しているだけはある。その程度の計画の変更は許容範囲内と言うことなのだろう。
「とはいえ彼らの目的も任務も不明とは、いかにも不便ではないかね」
2人の会話を聞いていた老眼鏡の役員が、険しい顔で口を挟む。となりの役員が肯く。
「先ほど雨乞班長が言ったとおり、我々評議会はエデンの脳にして心臓だ。その我々にさえ秘密の部隊とは何たることか」
「同感ですな。猊下はもっと我々の決定と行動を尊重すべきだ」
不満を述べる老人二人を、海土路がなだめる。
「しかし、別動隊は獲得した1000人の強化人間を我々に提供したのです。我々の利益を考えての行動ではないですか」
「む……。たしかに此度の葦原……、いや、祁答院伊舎那の働きはエデンにとって大きな貢献となった。しかし奴は我々の許可も無く一々江の……、あの『天使禁猟区』の力を暴走させ、北半球全域を巻き添えにしかけた。あれの被害で『寿』を損なう危険すらあったというのに」
「寿、12号の悪魔だけならまだいい。あの男……御黒闇彦の怒りに触れたら、今度こそエデンは終わるところだった。さすがに看過できますまい」
議論に火が付きそうになったところで、扉が開いて、大小二つの足音が響いた。
「おや」
佐介は殆ど銀に近い金色の睫毛をしばたかせて、来訪者に声をかけた。「これはどういう風の吹き回しですかね。兄さんが会議に顔をだすなんて」
やってきた青年は佐介とそっくり同じ顔を向けた。皮膚の色が褐色であることを除いて、型に嵌めたように瓜二つだった。
彼は佐介と等しい声を持って彼に答えた。「お前に任せとくつもりだったんだがな。和喰博士に掴まっちまった。爺さんの長ったらしい夢想話に付き合わされるくらいなら、会議でも聞いてる方がまだましだ」
「和喰……? ああ、爾凝博士ですか。以前の姓に戻られたんでしたっけ」
佐介は手を叩いた。その横で、磨き上げられたような綺麗な禿頭の小老人が、巨大な魚眼のような目が二つ並べ、少年のようにきらきらとした好奇心の眼差しを二人に向けた。
「ヤアヤア、四号に九号。今日はなんと良い一日だろうね。私の『子供たち』の現状を、三度も観察できるとは」
老人は裸足の上に履いたスリッパの音をぺたぺたと立てて、佐介と烏合の間に割り込んだ。お気に入りの玩具を与えられた幼児のように、張り切った仕草で二人の肩を叩く。
「フム、四号……。以前計測した時から4.0キロ体重を増やしたか。余分な筋肉を落としなさい、三号との神秘的なまでの双子の相似形を、崩さないでほしいからね! それから九号? お前または睡眠を省略しただろう。お前は体内にたくさんの『蟲』を飼っているのだからね。きちんと眠まないと、その瘦躯に巣くわせた稀少な細菌たちが、衰弱してしまうよ」
「ご心配痛み入ります、博士」佐介が老人に椅子を薦め、にこりと答える。烏合が無表情に付け加える。
「爾凝博士。相変わらず、狂いの無い観察眼」
「頭は最高に狂っちまってるがな」海土泥の片割れが、褐色の首元を手で押さえながら愉快そうに指摘する。
「兄さん、世界の頭脳に対して敬意が無いよ」
「これ以上ない誉め言葉だろうが。常軌を逸した超人でなきゃあ、『盲目の時計職人』の名に相応しくねえ」
弟の対面にどっかと腰を下ろしながら、海土路佑介は答えた。「それに、それくらいのタマじゃなきゃ、俺たち『12人の怒れる男』に強化人間部隊は造れなかった。そうだろ? 爺さん」
佑介は老人に同意を求めた。だがニコラ博士は自身の話題に毛ほどの関心も見せず、空中の一点を凝視して自己の世界に埋没しているところだった。
薄気味悪そうに老人を眺め、老眼鏡の評議員たちが咳払いした。
「話がそれたが、『葦原』の透明化については今一度枢機卿に進言すべきではないかな。エデンは猊下一人の所有物ではないのだ。君たち改造人間はともかく、その技術と経営の基盤は旧エデン製薬にある。我々元役員を差し置いて、ただの株主の一人だった人間が独裁を働くことなど、あってはならない。『エデン』を誰のものと心得るか……」
「誰のものなんだ?」
熱弁を振るっていた老眼鏡の拳が、空中でぴたりと止まった。博士を除く全員の視線が、さっと机の端に向かった。
紺色のスーツを身に纏った銅色の骸骨が、骨ばった両手を顎の前に組んで座っている。
骸骨の顎がぱかりと開き、金属的な音声が漏れる。
「続けたまえ、元副社長。釈迦仏尼や社長の首を公安に差し出して、真っ先に保身に走った君たちが、この『エデン』を誰の所有物と捉えているのだ?」
「これはっ、枢機卿猊下……。お見えにならないものかと」
「自分の組織の会議だ。顔を出して都合の悪いことがあるかね」
骸骨の落ちくぼんだ眼窩から、青い機械の瞳が睨む。老眼鏡が小さな声で弁明をするのを見て、骸骨は溜息の音を漏らした。
「その辺で、いい。重要なのは結果だ。私が聞きたいのは、君たち枢機卿団が、どのようにして別動隊に勝る働きをしてみせるのか、だ」
「はっ、今しがたその報告に与ろうとしていた所でして……」
副社長が柏手を打った。
会議室の扉が再び開いて、二人の人影が現れる。腰のベルトに長物を挿した、黒目がちな大正風のモダンな和装の男。その横で、アメリカン・コミックから飛び出してきたような金髪碧眼の女が、気怠そうにガムを膨らませている。
「第八号と十号……。我々エデンでも最上位の戦闘要員です」
「『剣で生きれば剣で死ぬ』左衛門三郎捌光、そして『輝ける闇』のウルフギャング=エジソンか。彼らを何に使う?」
老眼鏡が恭しく頭を下げた。
「伏魔殿の戦力を絶つ。悪童隊と真白雪を狙います」