エピローグ 黒幕
「僕はここで降りるよ。剥尾さん、停めて」
黒塗りのリムジンを瀟洒な郊外の住宅街の路肩に停車させ、祁答院伊舎那が席を立った。横向きのシートで隣に控えていた真虫が目を上げる。窓の外に棒立ちになった電柱の標識には、永田町の番地が記されている。
「このルート、本部へは遠回りだけど、僕がここで降りるって分かってたの?」
「時節的にそろそろかと」
伊舎那の背に学ランを着せかけてやりながら、剥尾が答える。「さすが、枢機卿の秘書官なだけあるね」伊舎那が微笑む。
「そいじゃ、僕は寄るとこあるから。これで」
「お疲れ様でした、伊舎那さん」
割った膝に手をついて舎弟然とした礼し、真虫は扉を閉めた伊舎那を見送った。向かい合うようにして斜め前に座った緑髪の女が端末を叩く。自動操縦の運転席に信号が送られ、滑らかにリムジンが滑り出す。
真虫は不機嫌そうに、ツンと澄ました表情で座る剥尾を眺めた。剥尾はこちらの視線に気づいたのか、さらりと横の髪を耳にかけて見返した。「何か言いたげですね、魚口君」
「〈朱蝮〉だ」真虫は姿勢を崩しながら睨みつけた。「技術者としてニコラ爺さんの『左腕』とも呼ばれるアンタ……。エデンの本隊に属してる人間だ。そのあんたがどうして伊舎那さんから仕事を任されてる」
「? ……あぁ、先日のセキュリティの件ですか。たしかに、伊舎那さんの依頼で真白雪を逃がしました。おれは枢機卿の秘書官……、猊下の直接の付き人というエデンの役職を持っていますが、それと同時に葦原にも所属していますからね」
「それが気に食わねーっつってんだ。俺や靜馬は純粋な葦原のメンバーだ。二足の草鞋なんか履いてるあんたより、伊舎那さんに信頼されてなきゃおかしいんだよ」
「?……ああ」
剥尾は合点の言ったような顔をして小さく笑った。「つまり嫉妬ですか。男の嫉妬は見苦しいぜ、です。意外と可愛いとこあるんですね」
「ケッ」
真虫は不満そうに鼻を鳴らした。
「いいか、伊舎那さんの真の理解者は俺だ。そこんとこさえ弁えてりゃ、問題ねえ」
「心配せずとも、仲間内くんの方が近くで働いてますよ」「朱蝮だ、二度と間違えんな」
剥尾は口をへの字に曲げる真虫の顔を見て、思いついたように指を一本立てた。
「では折角なのでクイズをしましょう、裏博打くん。伊舎那くんは今日、何の用事でここに来たのか」
「ヘッ、俺と伊舎那さんの絆を試そうってか? 分かってねえなぁ、伊舎那さんは掴めねえから伊舎那さんなんだ。俺如きに予想されるようなことはしてねえってことさ」
「つまり、分からないと……」
「待て、そう言われると話は別だ。そうだな……」真虫は顎を人差し指と親指で撫でさすりながら視線を天井に向けた。「あの人のことだ……。やりかけの任務を終わらせる気かもしれねえ」
「やりかけの……?」
「あー、決まってんだろ。この国の腐れ議員どもを、ぶっ殺す仕事だよ」
〇
国会議員たちがテロに巻き込まれていくサスペンス映画の予告が、立体広告となって空に浮かんでいた。映画館の頭上に浮かんだその映像をぼんやりと眺めながら、雪はベンチに腰掛けて陽射しを浴びていた。夏の直射日光は暖かいを通り越して熱いくらいだが、強化人間の肉体にはさほど応えない。涼しい顔をして、ストローからアップル・ジュースを一口啜る。館内で購入してきたものだ。
腕時計を傾け、秒針を眺める。体内時計が異様に発達しているので、別に見なくとも時間は把握できるのだが、何とは無しに習慣として目をやってしまう。ちょうど約束の時間に差し掛かったくらいだ。上映時間までは充分余裕がある。雪はのまえの到着を待った。
劇場の広告は、一つ前の時間帯のスパイ映画の、リバイバル上映の告知映像に切り替わっていた。ちょうど上映が終わったのか、劇場からぞろぞろと人が出てくる。とは言っても二百年も前の映画の再上映なので、人はそれほど多くはない。いるのは物好きなマニアくらいだ。
ベンチの横を夏服の女子高生が通り過ぎる。瞼に残像として映ったセミロングの明るい茶髪が、雪の中で妙に引っかかった。
雪は反射的に振り向いた。向こうもこちらの反応に気付いたかのように、一拍遅れて訝し気にこちらを見た。
「あ」
「げっ」
思わずと言った風に彼女は表情を崩した。向こうにリアクションがあるということは、やはりどこかで面識があるのだろう。しかし記憶の中の顔にぴったり一致するものはなく、雪は立ち上がった。面影を辿りつつ、警察手帳を表示させて彼女に声をかけた。
「失礼ですが、どこかでお会いしましたよね……。僕はこういう身分のものです。あなたの名前をうかがっても、かまいませんか?」
彼女は不機嫌にも見えるやや気怠げな表情に戻って、一瞬考えるように黙りこんだ。それからぱっと口を開いた。「ボンド」
およそ日本人離れした名称に耳が戸惑う。彼女は続けて言った。「ジェームズ・ボンド」
「……?」雪は首を傾げる。「……ああ」あの映画の主人公か。雪は広告を見上げる。しかしなんでまたその名前を……。
とん、と振り返った雪の額に白い指が置かれた。いつのまにか間近に迫っていた彼女の両眼がこちらを覗き込んでいる。蠱惑的な囁きが、耳元に流れ込む。
『 』
「雪くん、待った?」
のまえの声がして雪ははっと気づいた。ぱちくりと瞬きをする。時計を覗き込むと一分ほど針が進んでいる。
「……大丈夫?」のまえが心配そうにのぞき込む。
「あ、ああ……」
雪はぼんやりと瞼をこすりながら答えた。「……暑さでぼんやりしてたみたいだ。この身体だから大丈夫かと思ってたけど、油断は禁物だね」
「今日、特に暑いから。待たせてごめんね、中入ろ」
のまえが手をとって館内に向かって歩き出した。
「ところで雪くん、さっき誰かとお話してた?」
「ん?」
温んだ飲料を吸いながら、雪が問い返す。
「えっと、遠目にちらっと見えた気がして……」
「ああ。……そうなんだよ、ちょうどさっき、あの人と、あー、……あれ」答えかけた雪の言葉が尻すぼみに小さくなっていく。不思議そうにこちらを見返すのまえの横で、雪が首をひねる。
「僕、誰と話してたんだっけ?」
映画館の真上では、相も変わらず『007(ダブル・オー・セブン)』の広告が流れている。
〇
「こちらの広告の類は、処分してもよろしいでしょうか。圷彦様」
呰部副総裁は膝の上の黒猫の背を撫でながら、執事がポストから持ってきた広告に目を向けて肯いた。橳島執事は広告を折りたたんでポケットにしまうと、薬膳料理のような質素なメニューの載っていた皿をカートに移し、退室する動きを見せた。私邸のボディ・ガードも兼ねたこの男の肉体は、およそ執事らしくない分厚さで空間を占拠している。圷彦は黒猫の毛触りを指の下に愉しみながら、彼の背中に向かって声をかけた。
「経団連との会合が繰り上げになったから、明日は予定より三十分遅く出立する。シェフに朝食の用意を十五分遅くするよう伝えてくれ。それと、私はこれから静かに晩酌を楽しむつもりだ。誰も部屋に近づけないように」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げ、執事が下がる。
夕映えを紅く反射させるワインに、圷彦は白いトローチ状の錠剤を滑り込ませた。粒が溶け気泡が弾ける。アルコールの分解効率を高める薬剤で、味や酩酊感を損なわず肝機能への負荷を軽減させる効果がある。
酒は美味いが体に害だからな。グラスを呷りながら圷彦は考える。この薬のお陰で、人生の数少ない楽しみを気兼ねなく享受することができる。まったく製薬会社様様というわけだ。
短い音を立てて、扉が細く開く。圷彦は顔を上げた。「橳島か? 今は誰も入れるなと……」
執事の名を呼びながら視線を走らせた圷彦は、言葉を途切らせた。黒猫がストンと床の上に下りる。扉の隙間から、灰色の髪をした少年がするりと部屋の内へはいり込んだ。
少年……、祁答院伊舎那は頬に冷たい微笑みを湛え、細めた目の中に副総理を写した。
「ああ」
圷彦はゆっくりと言って瞼を閉じた。「君か」
「失礼、お楽しみの途中でしたか」伊舎那は足元に寄ってきた猫の頭を軽く撫でながら確かめる。圷彦が手を挙げる。
「いや、いい。君はかまわず通すように命じてある。しかし、ここへ来るのは珍しいな。計画に何か障害が?」
圷彦が厳かな口ぶりで尋ねる。
「いやだな、自分の家に帰ってくるのに理由はいらないでしょう?」伊舎那はゆっくりと上体を起こす。「パパ」
「そう呼ばれるのも久しいな」
圷彦は薄く笑みを浮かべた。
「先ごろの議員襲撃の芝居は上手くいったな。エデンの組織規模から、政府筋の関与を疑う声もあった。しかし伏魔殿も、これでその嫌疑も晴らしたことだろう。それに公安も靜馬の作戦でできた軍との溝を埋めるために、しばらくは手一杯なはずだ。これでいい。神の椅子から『彼女』を引きずり降ろし、大空位時代を生み出す我々の作戦……、自分の役割は分かっているな」
「もちろんです」
伊舎那は胸に手を当てて頭を垂れた。
「狙い通り真白雪はから覚醒し、狂花帯の真価を発揮しつつある。報告からして、二号の例の装置の方も……。世界樹再生までの12万年を空白に塗り込める、我々の『白雪計画』……、実現は目前です。我々『葦原』の七人が、貴方の目的を必ずや完遂させると誓いましょう。父上。…………いや、枢機卿猊下」
黒幕とその忠実な僕は、異様に甲高い声で不気味に笑いあった。大いなる陰謀が、世界に陰を落としつつあった。
Side-B「悪魔編」 完
Side-B「人間編」に続く




